40
彼の誕生日なんです、と、大きなケーキの箱やプレゼント、食材の入ったスーパーの袋を抱えているお客様に、出来上がった花束を入り口まで持ってドアを開けた。
湿気を含んだ空気が一気に流れ込んで、雨の匂いがする。
赤い傘が、パンッ、と音を響かせて、勢いよく開いた。
傘に付着していた雨粒が飛び散って、それが綺麗だった。
「ありがとうございました」
花束を渡し、頭を下げて見送る。
降り続く細い雨に薄っすらと霧がかかっていて、彼女の赤い傘がぼんやりと消えていった。
ふと空を見上げると、さっきよりもずっと雲の色は濃さを増していた。
雨のせいか、余計に日が暮れるのが早い気がする。
火曜日――
残された時間はあっと言う間に通り過ぎて、約束の日はもうあと半日と迫っていた。
あたしが望んでいた通り。
いつもと変わらない生活と、潤との距離。
たった今作ったばかりの花束の、後片付けを始める。
床に落ちている葉や茎を箒で掃いていると、カウンターの上のメモ帳が目に入った。
動かす手が、思わず止まる。
何かあった度、何も無い普通の振りを続けてきた。
だけど本当は、波立った気持ちをすぐに立て直すのは至難だ。
彰くんが帰った後も、彼女の残像が頭の中にチラついて仕方無かった。
矢沢カンナと潤を鉢会わせさせようとした、彰くん。
もしかして、潤がここにいる事を彼女に話してしまうんじゃないか……と、心配していた。
だけど、今のところ、約束は守ってくれているようだ。
それに、携帯電話の番号を教えたのに、電話はかかってきていない。
潤と彰くんの関係も気になっていた。
酷似した状況と環境で、ずっと一緒に過ごしてきた兄弟のような友達。
潤自身が悪いわけではないのに……。だからこそ、彰くんは許せないのだろうか。
今の関係が、上手く解ければいいのに……。
「ただいまー」
入り口のドアが開く音と一緒に耳に入り込んだ潤の声に、ハッとして振り返った。
「おかえり。お疲れ様。
雨、平気?」
「結構降ってる」
「全部売れたの?」
「当然」
潤は、ニッ、と。嬉しそうに笑顔を見せる。
――全く。
本当に、凄いと思う。
雨の日にまで全部売り切ってくるなんて。
一体、何処でどうやって販売してきているのか。
「あ、髪、濡れてる。服も少し濡れてるじゃん。
着替えてきなよ」
「あー。うん。そーだな」
潤はそう答えながら、確かめるように自分の髪をくしゃっと触った。
あたしはその手を目線で追った。
滴るように濡れているわけじゃないけれど、髪は随分としっとり湿っている。
「辛く、ない?」
「え?」
「雨の日まで、こんなの」
あたしがそう言うと、潤はゆっくりとした動作で髪から手を下ろした。
「何言ってんの?」
言葉の通り潤は、何言ってるの? というような顔つきをしてみせる。
ふと落とした視線の中に、潤の手が目に入った。
指先は、細かい傷が沢山ついている。
あたしはその潤の手に、指を伸ばした。
触れた指は荒れてざらっとした肌触りで、冷たい。
きっと、雨のせいで冷えたんだ。
――『潤に、そんなことまでやらせるのね』
以前言われた鮫島さんの言葉が浮かんだ。
胸の奥が小さく痛む。
潤の指に触れる自分の指も、傷だらけでボロボロで。
それに引けを取らない程、潤の手は荒れている。
二つの手をただじっと眺めていると、潤の指がきゅっと握り返してきた。
握っていた筈のあたしの手の方が、逆に潤に取られる。
少し腰を屈め、目線があたしに合わされた。
「楽しいから」
柔らかい笑顔を傾けられる。
「オレの出来るコト、したいだけだから」
あまりにも優しい顔つきとその言葉に、胸がきゅっとした。
喉の奥が熱くなる。
――言葉が出せない。
ふっ、と。
更に目が細められると、握られていた手の力が緩み、離れる。
「借金、どう?
返済まだキツイ?」
――借金?
ああ、そっか。
いなくなるから……気にしてくれてるんだね。きっと。
あたしはゆっくりと首を振った。
「ううん。確かに楽々……ってワケじゃないけど。
でも、赤字も出てないし、きちんと返せる額の売り上げは出来てるよ。
こんな風に店が立て直ったのは、全部潤のお陰だよ」
今度は潤が、かぶりを振る。
「オレじゃないよ。葵が頑張ってるからだよ。
葵の想いが、ちゃんと仕事の結果に出てる。
ウエディングの仕事が貰えたのも、葵自身の実力だ」
そう真っ直ぐな瞳で言う潤。
潤は本気でそう思ってくれているのだろう。
あたしは、今度は否定せずに、その気持ちを素直に受け取ることにした。
「……うん」
答えてから、カウンターに回った。
そして棚の引き出しから、潤が店を離れていた間に用意した物を取り出す。
再度カウンターから出て、取り出した封筒を潤の手に握らせた。
「これ」
潤は不思議そうな顔をする。
「何?」
「潤のお給料」
「は?」と、潤は眉をぎゅっと寄せた。
「いらねーし。何?
置いて貰ってるんだし、好きでやってんだから。
この間の花の料金だけでいい、っつーの」
業が煮えたような顔つきで、あたし方へと握った封筒をつき返してくる。
だけどあたしも、その封筒を潤の手に握らせたまま、手を押し返した。
「コレは、潤が働いたお金だよ」
封筒を持つ潤の手を、両手で包み込んだ。
「潤が、お金の為に働いていたんじゃないことは分かってる。
だけどね、これは好きだって言ってくれた花屋の仕事の報酬なの。
潤が一生懸命ココで働いた、証しなの。
だからいらないなんて言わないで」
「――なん……」
潤は言葉を詰まらせ、瞳を揺らした。
お金なんて必要としていないのは重々承知だ。
以前の生活に戻れば、きっとこんなお金は端たものだろう。
だけど、好きな仕事を経て手にしたお金の価値は、全く違うものだと、その気持ちを汲んで欲しい。
潤は複雑な表情のままあたしを少しの間見つめ、ふと、視線を落としてから封筒を自分で握り締めた。
「……ありがとう」
そう言うと、すぐにくるりと背中を向け、スタッフルームへと足を進めた。
少し照れ臭いのかな、なんて思った。
「ねぇ、潤」
ドアノブに手を掛けた潤に後ろから声を掛ける。
潤は身体を一度止めてから、こちらへと振り返った。
「今日の夕飯ね、あたしに作らせて」
「……え?」
「たまにはいいでしょ? あたしの手料理も」
潤は驚いたような、更に複雑そうな表情をした。
「食えんの?」
眉を寄せながら言う。
そう訊く前に、せめて、うんとか、すんとか、言って欲しい。
だって、一緒に住んでたのに、結局今まで一度もあたしの手料理を食べさせてないんだもん。
「失礼ねっ! 少しくらいは料理出来ますっ!」
息巻くと、潤は面白そうに声を押し殺して笑う。
「ちょっと! 潤っ!」
「つか……唇尖らせんなよー。
分かったってば。楽しみにしてるってば。
指切ったらまた舐めてやるから」
「そういうこと、フツーはしません!」
「バンドエイド、幾ついるかな……」
「あれはー! 玉葱が目に沁みたから手元が狂ったの!
だって、ほら、微塵切りだったし!」
「や。ソレ……意味ワカンネ……」
潤は口元に手の甲を当てて、くつくつと笑いを噛み殺している。
もう、いいよ……。
最終的にきちんと出来て、食べてもらえれば……。
「それでね」と、気を取り直す。
「香織も呼ぼうと思ってるの。いいかな?」
潤はそこでピタリと笑いを止めた。
そして、心配そうな顔つきに変わる。
「香織ちゃん……?」
「うん。いい?」
香織を呼んだのは、きちんと話をしたかったから。
敬太とあたしとの狭間で、酷く悩んでいた筈なのに、ずっと変わらぬ態度を通してくれた。
だから、潤がいなくなる前に、きちんと話をしたい。自分の気持ちを香織に伝えておきたいと思った。
香織はあたしの一番の友達だから。
好きな人が違う人を想っていても、変わらない気持ち。
あたしも香織と同じ。
貫きたい想いは、あたしも分かるから。
「そりゃ、勿論……。
だけど……」
潤は言い掛けて、そこで言葉を濁らせる。
あたしと敬太との関係で、香織とは不穏な状況だと思っているのだろうから、心配するのは当然だ。
「あたし、潤に嘘吐いた……」
「え?」
「あたしが好きな人は、敬太じゃないの。
ごめんね……」
曖昧に、笑みを浮かべてみせた。
潤はただ、瞳を見開いてこちらを見つめる。
好きだという気持ちを、今言葉で伝えられなくても。
これだけはきちんと言っておきたかった。
だけど、これ以上自分の膨らんだ気持ちを抑え込むことは、凄く凄く、苦しい。
せり上がる気持ちを飲み込むように、あたしはきゅっと唇を結んだ。
潤の唇が何かを言いかけるように動いた。
だけど言葉が出る前に、店のドアが開いた音がした。
一瞬、お互いに強張った顔で見つめ合う。
タイミングが良いのか、悪いのか――
あたしはすぐにそこから身体の向きを変え、「いらっしゃいませ」と、入り口の方へと向かった。