39
時間は止まることを知らない。
どう押し止めようとしても、抗うことなど出来ないのだ。絶対に。
それでもいつもと変わりないように、忙しい日中を過ごし、同じ時間にベッドに入る。
灯りを消した光のない部屋で、壁の向こうに目を馳せる。
ただ、ぼんやり。潤の部屋の方へと。
眠りについてしまうと、その間に潤がいなくなってしまうんじゃないかと――
そんな恐怖からか、深く眠ることが出来ない。
浅い眠りをどうにか繋いで、ひたすら夜が明けるのを待つ。
無為に過ぎてゆく時間がもどかしい。
いつもの時間に潤が起きる気配をみせると、それだけで大きな安堵の息が漏れた。
潤は何も言わなかった。
あたしも。
ライフスターの仕事が、当初の契約通りで切れるということも。
いつもと変わりない日々を送りたかった。
同じ時を一緒に。
あと少し。限られた時間を。
すぐ隣に並べられた、色違いのマグカップ。
出逢った日に見た、空の色と桜の花びらの色。
サーバーから細く注がれたコーヒーは、小さな空間をあっという間に満たす。
お互いのカップから煙るように立ち上がった湯気は、視線を上げた先でひとつに交わった。
「はい」
潤の手ですぐに引き離されたカップのひとつが、あたしの前に差し出される。
「ありがと」
受け取ったピンクのカップを両掌で包み込むと、そこからじわじわと熱が伝わった。
一緒に、ふっ、と。胸まで温かくなる。
日曜日の今日は、市場が休みだ。
そのおかげで、朝は随分ゆっくりと出来る。
こんな風に落ち着いて二人で飲むコーヒーは、代わり映えのない日常が幸せだと再認識させてくれる。
「今日も雨だな……」
窓の方を見ながら潤がぽつりと言った。
濃く厚い雲が空を隙間なく覆っていて、そこから大粒の雨が音を立てながら街へと降り注いでいる。
市場のある日と違って、陽はとうに昇っている時刻なのに、外は薄暗く鈍い色をしている。
今年は雨が多い五月だと思っていたけれど、いつの間にかそれは梅雨へと突入していた。
庭の先へと目を転じると、紫陽花は沢山の花を色付けていた。
紫とピンク。
母が数年前に植えたときは、まだ小さな株だったのに。
今では二つの大きな茂みを風が揺らしてゆく。
次のライフスターの仕事は、紫陽花をメインにしようと考えていた。
木曜日。潤との約束の、翌日だ。
あとたった数日なのに。
もう、あの花を一緒に手に取ることはないかもしれない。
雨に濡れて光る葉を見ながら、あたしはそう思った。
市場が休みということは、水揚げや、レイアウトや、収納作業もないということ。
朝もゆっくりならば、いつもよりずっと午前中の仕事も少なく、早く終わる。
「昼までに完売してくるよ」と、潤は自信有り気な顔つきで、花の移動販売に出掛けて行った。
その、すぐ後だった。
入れ違い、という言葉が相応しいくらい、タイミング良く開いたドアの音と声に、ドキリとした。
「コンチハー」
甘ったるく、間延びした喋り方。
顔を見るまでもなく、誰だか分かる。
「彰くん……」
「あれぇ? 一人? ざーんねんっ」
笑みを浮かべながら、ゆっくりと店内に入ってくる。
その彼のすぐ後ろの人物に、更に心臓が縮み上がった。
入り口のドアが閉まった瞬間、肩から背中に流れる長い髪がはらりと揺れた。
視界に入り込んだ彼女は、その場の空気を華やかに変えた。
――矢沢カンナ、だ。
何で彰くんと一緒に……。
あと数分でも早く彼らが来店していたら、確実に潤と顔を合わせていた。
緊張と安堵が入り混じり、急激に身体中、素早く脈打ち始める。
「あれ……何、で……」
彼女はこちらを向くなり、小さく声を上げた。
サングラスを掛けた目元は表情を窺い知ることは出来ないけれど、声のトーンと緩めた口元で相当驚いているのは分かった。
「あれ? 何? カンナちゃん、知ってんの?」
矢沢カンナのあたしを見て驚いた様子に、彰くんは訝しげにこちらと彼女を交互に見比べた。
「知り合い……とかじゃないんだけど……。以前にも偶然お会いしたことがあって……。
ビックリ……またお会いするなんて……」
彼女はさっとサングラスを外すと、あたしにぺこりと頭を下げた。
幸いお客様もいないし、彼女が矢沢カンナと分かっても問題はない。
あたしも同じように頭を下げた。
「へぇー。何処で? スゲエな、その偶然」
ニヤリと彰くんが意味を含めて笑う。
ぐっと言葉を詰めたあたしに相反して、彼女はさらりと答えた。
「横浜の丸越のイベントの時と、この間は病院で」
「病院?」
彰くんの片眉が上がる。
「ええ……。この間、園長先生のお見舞いに行ったときに」
「へぇ……」
そう答えた彰くんの目が、あたしの方へと鋭く移り、捉えられる。
嫌な汗が背中を伝わった。
何を考えてるんだろう、彰くんは……。
潤と彼女を鉢会わせさせようとしたんだろうけど、それなら何で彼女に、潤がココにいることを言わないの……?
ドクドクと更に脈拍が上がっていく。
「葵チャン」
「えっ……」
「今から園長のトコ、行くんだよ。
花、作ってくれる?」
「あっ……うん」
園長のところ……?
でも、今の時間って……
「面会時間じゃないけど、平気なの?」
壁の時計をちらりと見てから言うと、彰くんは頭の後ろで手を組んだ。
「カンナちゃん、仕事の合間で時間ないからさ。
こういう時、有名人っていいよな、優遇されちゃってさぁ」
そして、溜め息を吐き出してから、あたしを見る。
「マネージャーに内緒でだけど、一人では行きづらいから、一緒に行ってくれって。
潤が一緒に行けっての、なぁ?」
――え?
その言葉に釘づけになった。
彰くんの顔は、今度は彼女に向かって同意を求めるように微笑んだ。
「ちょっと、中川さん……っ」
困ったように目を細めた彼女に、彰くんはケラケラと高く笑った。
「だぁいじょうぶだってぇ。葵チャンは、オレの彼女だから。
だからこの間、病院で会ったんだろ?」
「なっ……」
彼女、って――何言って――
ただ目を丸くしたあたしに、彰くんはまたニヤリと笑みを見せて続けた。
「カンナちゃんが、潤の事務所公認の彼女だって、知ってるからさぁ」
――潤の事務所公認の、彼女?
言葉が出ないあたしに彰くんは、「ね?」と首を傾げて悪戯っぽく微笑む。
彼女は否定しない。
その代わりに、ホッとしたような表情を見せた。
「そうなんですか。中川さんの彼女さんだったんですか。
あたしと潤くんのこと、知ってるんですね」
その言葉に再度打ちのめされる。
――『あたしと潤くんのこと』
ギュッと、胸が押し潰された。
――馬鹿みたい。
分かっていた筈。矢沢カンナが潤の彼女だって。
もしかしたら潤はあたしのこと、なんて……都合のいいこと。
それこそ、夢みたいな話。
いくらあたしと店を大切にしてくれてるからって――それは恋愛感情からじゃない、って、分かってた筈なのに――。
だけど……
それならどうして?
事務所公認なら、どうして事務所からも彼女からも隠れてるの?
「顔、青いね。大丈夫? 葵チャン」
彰くんが間近で覗き込んできて、ハッとした。
「な――んでも、ない……。
ゴメンね。今、花作るね」
サッと顔を逸らして、ガラスケースに向かった。
血の気が一気に引いていて。
だけど打ち付ける脈は、煩いくらい速く強い。
「何の花を入れますか? 色味とかは……?」
振り向く余裕も無く、ガラスケースを開けながら訊いた。
「男性だからイエロー系にして下さい。
えーと、カーネーションと、バラと……。
あ、フリージアも綺麗。いい香りがするんですよね。
小花はレースフラワーとかがいいかなぁ。あとはお任せしますね」
彼女の柔らかな声が背中から聞こえる。
あたしは「はい」と、少しだけ首を後ろに回し、口の端を上げて答えた。
カーネーション、バラ、フリージア……
こうして聞くと、どこの花屋にも置いてある、スタンダードな花で。
潤から貰った花束も、花の意味なんて関係無いのだと、そう言い聞かされたようだ。
そうだ。
きっと、意味なんてないんだ。
期待なんてして、本当に馬鹿……。
アレンジメントが出来上がると、彼女にそれを手渡す。
花を手にした彼女は更に色を添えたように華やいで、そこに立っているだけで、見慣れた店内が映画のセットのように思えた。
彰くんは、花を抱えた彼女に向かって手を伸ばした。
その手の中の物を彼女は受け取ると、チャリ、と、小さな金属音がした。どうやら鍵のようだ。
「先、車で待ってて。すぐ行く」
彼女は無言で頷くと、鍵を羽織っているジャケットのポケットにしまい、代わりにサングラスを取り出した。
「また、お会い出来たらいいですね。
じゃあ……」
にっこりとあたしに向かって微笑むと、すぐに店を後にする。
ふわり、と。擽った甘い香りは、彼女のモノなのか、抱えた花のモノなのか。
ドアが閉まる音が聞こえると、彰くんは待ってましたと言わんばかりにこちらを向いて、二ィと笑った。
あたしは、その場から彼を見上げる。
「潤に……会わせるために来たの……?」
「さぁね」
彰くんはオーバーに、両手を上げて見せる。
「―――。
黙ってて欲しいの……。お願い」
あたしは懇願するように、真っ直ぐに瞳を見て言った。
彰くんは答えず、顎をつんと上げた。
「あと、ほんの少しでいいの」
「………。
それって、潤が戻るってコト?」
「………」
「どーしよっかなぁー」
「何で――!」
キッと睨み上げると、それを反応したように冷たい瞳があたしに剥いた。
今迄の笑みは一切含んでいない。
「――甘いんだよ」
「……え?」
「潤は甘いんだよ。おねーさんも。甘過ぎる」
あまりにも冷淡な顔つきへと変貌した彼の様子に、ぞくりと一瞬背筋が凍った。
「な、に……?」
「アイツ、どんだけ重大なことやってるか分かってんの?
仕事放り投げてるんだぜ? どれだけの違約金がかかる、とか、おねーさん知ってんの?
それにさ、その仕事を取るために掛けられてる莫大な資金もね。
約束の期日を守って戻るのが当然だろう!?」
「――え……」
「芸能界ってスゲェ厳しいんだよ。コネがないとやっていけない。
仕事取るには身体張るのも当たり前。
これってさ、過程じゃなくて、結果なんだよ。仕事取れたモン、売れたモン勝ち。
アイツはさ、恵まれてんの。
何にもしないで手に入れてんの。全てを。
そんなんで、オレにとっちゃ、今の潤は何やってんだよ、としか思えねぇ。
それを庇ってる、おねーさんもね」
「潤は――!」
思わず上げた声。だけど、
「言い訳無用」
と、遮断するように返される。
彰くんは呆れたように、目を細めてあたしから視線を外し、どこか空を見た。
「待ってよっ! 彰くんはどうして潤に対して辛く当たるの!?
友達だったんでしょ!?」
逸らされていた視線が、ゆっくりと戻る。
「友達だったら、何しても許せる?」
「えっ……?」
憎悪に満ちたような、冷めた瞳。
それがあたしに向かって注がれた。
「潤はさ、オレの仕事奪ったんだよね。アイツに邪気はねーけど。
でも、オレの夢を奪った。お陰様で、夜のバイトなんてしなきゃ、食っていけねぇ」
「奪った……って――」
「売れてないオレと弱小事務所にしたら、スゲェデカイ仕事だったんだよ。ドラマの主役、決まってたんだ。それを、簡単に奪われたの。潤の事務所と鮫島って女に。
金とコネってスゲェよなぁー。
その上、閉園しかけた園まで救っちまうんだな。
オレの立場も、帰る場所も。アイツは一瞬にして奪ったの。夢だけじゃなくて、な」
「―――」
ただ見つめるあたしに、ハン、と。今度は自嘲して息を漏らした。
そして、あたしの目の前にすっと掌を出してきた。
「ケー番」
「えっ?」
「ケー番教えて。おねーさんの」
「な、んで……」
「何で?
さっきカンナちゃんに、葵チャンが彼女って紹介しちゃったしー?」
くつくつと、楽しそうに笑う。
さっきまでの緊迫感はなかったもののようだ。
「……ふさけないで」
低く言うと、彰くんは笑いを止める。
そして腰を折ってあたしの目線に合わせ、顔をぐっと近づける。
「ふざけてる?
さっき、黙ってて、って言ったの、おねーさんでしょ?
潤、携帯の電源切ってて繋がんねーんだよ」
如何にも自分の立場が上といったように、ほら、と、再度掌を目の前に出して要求する。
あたしはゴクリと固唾を飲みこんでから、「わかった」と、カウンターの上の紙にペンを滑らせた。