38
あたしは自分の店に向かった。
花に囲まれた狭い空間。
潤と行こうと約束したみなとみらいは、ホテルのすぐ階下に見えた。
コスモワールドのアトラクションは既に終了したようで、いつもなら休む暇なく走る光は固まって動かないのに、観覧車だけは一つずつ回転輪にライトを灯していった。
まるで、カウントダウンをしているみたいに、一秒ずつ時を刻んでいく。
ぐるりと大きな輪の天辺まで全てのライトが付くと、それは花火のように光って散った。
そんな様子を一人で見ているのは、息が詰まって苦しかったのだ。
潤が消えていなくなってしまいそうに思えて。
少し冷静にならないと。
頭の中は色んなことが混沌としていて、このまま家に帰って潤と顔を合わせることなんて出来ない。
スツールに腰掛けて、カウンターに上半身を預けるように伏せると、そこからガラスケースの中の花たちを見つめた。
シンビジウム、カサブランカ、アマリリス、ダリア、ケイトウ、アンスリューム、カラー……
大ぶりの立派な花たちから順に、色味も揃って並ぶ。
優しい色と、凛とした美しさ。
ふっ、と。どこからか鼻を掠めた甘い香りに、瞼を閉じた。
花は――波立った心を、こうやってなだめるように落ち着かせてくれる。
浮かんでくるのは、やっぱり潤の笑顔。
あたしに向ける、優しい眼差し。
店のため、って……。
そのためだけにあそこまでしないよね、普通……。
敬太も……潤の気持ちに気が付いてたから――……だから……。
それに、今までだって、何でもあたしを一番に考えてくれた。
大事にしてくれた。
それは十分に知っている。
――もしかしたら、潤は……あたしのこと……
敬太や鮫島さんの言葉から察すると、そんな考えが浮かんでしまう。
さっきからずっと、浮かんだり、消えたり。繰り返し、繰り返し……。
思い返してみると、他にも色々思い当たる節がある。
瞼をゆっくりと開けて、もう一度、ケースに視線を遣る。
ホワイトスター、カーネーション、バラ、フリージア……
潤のくれた白い花束を思い出す。
あの意味は、もしかして……。
自意識過剰かな……。
だけど……。
胸をきゅっとさせられる。
そして、その場所を大きく占領されていく。
気持ちの置きどころがどうにもなくて、落ち着かない。
それに、分からないことも多い。
思わせぶりなことは沢山あったけど。
『恋愛してみない?』って言った次の日には『忘れて』とか、『そんな感情ない』って言うし。
あたしの事は『大事な家族』って……。
矢沢カンナのことだって……。
彼女――じゃ、ないの……?
分かんない……。
潤の本当の気持ち。分かんないよ。
もし。
もし、潤があたしを好きだったとして。
だからってどうすればいいのかも分からない。
好きだって、伝えていいのかも。それさえ。
あたしは。
行かないで、とは言えない。
ずっと傍にいて欲しい。
それは本音で。
だけど、潤は潤の道を進んで欲しい。
これも本音だから。
潤は、あたし達とは違う世界の人間だ。
鮫島さんも言っていたように、特別な才能を持った選ばれた人間。
元の世界に戻る可能性を、あたしが潰すのは嫌だ。
鮫島さんや、事務所や、あたし――第三者じゃなくて。
潤自身が選んで欲しい。
自分の道を。
ウチにずっといたいとは言っている。
だけど芸能人として売れている潤が、このままウチに居続けるなんて、何度考え直しても有り得ない。
潤のことを知れば知るほど、そのタイムリミットは近付いている気がする。
考えれば考える程、潤が遠くなる気がする。
それに、さっきのファンのことも。
潤のことだから、苦しんいでる。
自分のせいで、って。きっと。
あたしに何て話そうって、どうやって謝ろうって。そう思い悩んでいるに違いない。
これがきっかけで。
帰って話をしたら、全部本当の事を話すかもしれない。
本当の事を潤から聞くのは、怖い。
潤が――あたしに自分の全てを話す時。
それはきっと、潤が自分の世界に帰る時……そんな気がしてならないから。
……怖い。
怖いよ。
こんなとき。香織に会いたい、なんて思った。
辛いとき。いつも支えてくれる香織。
何でも相談に乗ってくれて。あたしに勇気と温かい言葉をくれる。
考えてみれば、試写会の日から会っていないんだ。
当然だ。
いくら友達だからって、あたしに会いたくなんかないよね……。
敬太の事を、どれだけ香織が強く想っていたか、知ってる。
それなのに、変わらない態度であたしと付き合っていた。
あたしに、『負けないでよ』と言った香織。
どんな気持ちで言ったの?
自分よりも、あたしの気持ちを優先してくれた香織。
物凄く、辛かったはずなのに……。
香織は優しい。
そして、強い。
あたしも、香織みたいに強くなりたい。
立ち上がると、あたしはガラスケースへと向かった。
緊張のせいか、身体は少し浮いた感じだ。
久しぶりに履いたヒールのあるサンダルが、夜道に高い音を立てている。
軽快に足を運んできた筈なのに。
玄関の前に立つと、やっぱりなかなかドアが開けられなかった。
潤と顔を合わせる事が、怖い。
どんな顔をされるのか。どんな話をされるのか。
覚悟を決めてきた筈なのに。
息を吸い込むと、ドアに鍵を差し込む。
すると、回す前に、鍵が外された音がした。
「おかえり」
ドアの隙間から、家の灯りと共に見えた顔に、胸がきゅっとした。
顔を合わせるのが怖いなんて思っていたことが、嘘のようにすうっと消えて、温かい気持ちが広がっていく。
――不思議だ。本当に。
「……ただいま」
潤の手で開いたドアから、中に入る。
背中に、視線が当たっているのを感じた。
「早かった、な」
「うん」
振り向かないまま、あたしはさっとサンダルを脱いで上がり框に足を掛けた。
リビングへ向かう途中、お行儀悪く脱いだままのサンダルを、潤が揃えた小さな音が聞こえた。
「葵」
「んー?」
「葵」
「………」
止まれ、と言っている。
あたしはリビングのドアに手を掛ける寸前でその手を下げて、振り向いた。
ゆっくりと、潤があたしに近づいてくる。
いつになく、真剣な顔で。
フローリングに立てられる足音が、ミシミシとあたしの身体に響く。
目の前に来ると、足を止め、あたしを見つめる。
手が伸びてきて、ふっと、頬に触れた。
「……痛かった、か?」
「へーきだよ」
「……ゴメン」
「平気だって、ば」
「……ゴメン。葵、オレ――」
潤の唇はそこで引きつれた。
眉根を寄せた顔は、あたしまで胸が痛くなる程苦しげだった。
「潤」
顔を見上げて、微笑んでみせる。
「無理に話さなくてもいいよ」
「………」
「でも、潤が話したくなったら、話して」
そう言いながら、持っていた花束を潤の胸元に差し出した。
「……何?」
潤は受け取りながら、全くどういうことか理解出来ないような顔をした。
「あたしから、潤へ。
あたしの気持ち」
言葉では言えない。
だけど、あたしの――キモチ。
潤があたしにくれた花と同じ花束。
ホワイトスター、カーネーション、バラ、フリージア……
――信じ合う心、熱愛、愛情、純潔……
意味を持ってあたしにくれたなら。
あたしからの意味も、分かる筈。
ねぇ、潤。
潤の未来。
あたしは応援するよ。
潤がどこにいても。
あたしの心はココにあるよ。
「……葵……?」
戸惑った表情。
潤は何かを言い掛けるように唇を開きかけ、それを閉じる。
きゅっと引き結ばれたかと思うと、何かを飲み下すように喉がごくりと動いた。
「葵」
「……うん」
「―――」
潤はもう一度言葉を詰めて、何かを決心したように息を吸い込む。
「さっき、深谷さんから電話あったんだ」
「深谷さん?」
急にがらりと話が変わって、一瞬何のことか戸惑う。
深谷さん――
亜美さんだ。ウエディングの花のプロデュースをして欲しいと言っていた。
打ち合わせは、来週がいいと電話で聞いていたけど。
「ウエディングの打ち合わせのこと。
レストランとドレスを直接見て欲しいから、って。
水曜日、18時に来てくれないかって」
「……え、あ、うん」
――水曜日。
丁度定休日だ。
「みなとみらいなんだ」
「え?」
「みなとみらいの近くに店があるんだって。
打ち合わせが終わったら、二人で行こう、みなとみらい。
約束、したろ? さっき」
――みなとみらい……
見上げた潤の顔は、花束と一緒に微笑んだ。
だけど、それは何だかとても悲しそうなモノで。
あたしは泣きたいくらい苦しく胸が締め付けられた。
無意識に止めていた呼吸。
ゆっくりと息を吐き出すと、あたしも笑顔を作って答えた。
「うん」
一言。
それが精一杯だった。
――18時。
定休日。
打ち合わせの前、じゃなくて。
その時間に終わってから行こうなんて。
それはそういうコトなのだ。
約束を守るために、潤はその日まではココにいるというコト。
そしてそれはきっと、『あたしたちのサヨナラの日』なんだ。