37
――『ゴメン、な』
あの時の、潤の言葉が頭の中に蘇った。
消えそうで、苦しげな声。
泥棒に入られたのも、犯人に逃げられたのも、潤のせいなんかじゃないのに。
何で潤が謝るんだろうと、疑問に思った。
今になって謎が解けるなんて。
そしてそれは、潤を相当苦しめていたのだろう。
……それも、全然気付かなかった。
敬太は無言であたしの腕をぐいぐいと引っ張って歩き、あたしも何も言葉を出さずにそれに従って歩いていた。
ただただ黙って足を進めると、いつの間にか大通りに出て、明るいネオンと行き交う車の音があたし達をすり抜けていく。
家から随分と歩いたなという場所で、ようやく敬太は掴んだままのあたしの掌を解放して、それと同時に足の動きを止めた。
そして、あたしへと向き直る。
「何で……そんな顔してる……?」
「………」
「何でそんなにオマエが辛そうなんだよ……。
悪いのは、アイツ等だろ……?」
そう言う敬太も、辛そうに顔を歪める。
――分かってる。
敬太の気持ち。
あたしのことを想ってくれる気持ち……
分かる。
「敬太……」
「………」
「潤も、苦しんでるの」
「………」
「あたしはそれを知ってるよ」
真っ直ぐ見つめて言うと、敬太はあたしから視線を外した。
「葵は……そんなにアイツが好きなのか……?」
もう一度、あたしの目を見る。
あたしはそれに応える。瞳を逸らさないで言った。
「うん」
「アイツは芸能人だぞ?」
「潤は潤だよ。
そういうのは関係無いところで好きになったんだもん。
敬太は良く思ってないかもしれないけど……潤は、優しいよ。
あたしに恋愛感情は――ないけど。でも。凄く大事にしてくれてる。あたしはそれを分かってる」
敬太はほんの少し黙ったままあたしを見つめた後、深々と息を漏らした。
「大体さ。アイツ、何でオマエがオレのことが好きって勘違いしてんの?」
「……ご、めん……」
「オマエ、そーゆー嘘、吐いたワケ?」
「ごめんなさ……」
「バッカじゃねーの?」
心底、呆れたような口調。
当然だ。
「敬太……」
「別に、オレはいいけど。
嘘吐いて辛いのはオマエなんだぞ?
何で本当の気持ちを言わない?
それはアイツのため――なのか……?」
寸分も動かず、あたしを見据える。
あたしは黙ったまま頷いた。
「何でなんだか理由は分かんねーけど……。
葵はアイツの気持ち、分かってんのかよ……」
「え……?」
「オレは、謝んねーぞ」
「………」
「オマエがどう思おうが、悪いのは、何も言わないアイツだ。
アイツの問題に葵を巻き込んでるのも事実だ」
返答に詰まる。
勿論、潤が悪いから――とか、思っているわけじゃない。
敬太の言い分が分かるから。
「だけど。アイツが――葵に誠実だったら、認めてやってもいいぞ」
――え?
「これ以上は知らねぇ」
「敬――」
言い掛けると敬太はそれを遮って、睨むように少し顎を上げてあたしを見た。
「オマエ、何処行くの? そんな格好して」
急に緊迫さが抜けたような表情で言われ、ホッとするよりも逆に戸惑う。
「え……あー……ちょっと、みなとみらいの方まで……」
答えると、敬太は言葉を出さずにほんの数秒あたしを見つめた。
「ふぅーん……。じゃ、もう、すぐ駅だし。ここで平気だよな」
「……うん」
「葵は葵の信念を貫けよ」
ぽん、と。
あたしの頭の上で大きな掌が跳ねた。
――敬太の。温かい掌、だ。
そして、「じゃあな」と、くるりと背を向けられる。
きっと。
敬太はこれからあたしが会う相手が、潤に関係している人だって分かっているんだ。
これ以上、何も言わないでくれたのは、敬太の優しさだ。
最後の言葉が、じんと胸に沁み渡って、泣きたくなった。
敬太はいつもあたしの味方で。一番の理解者。
昔から、ずっと。変わらない距離。
あたしにとっては、大事な。大事な。
――ごめんね、敬太。
ありがとう。
遠退く敬太の後ろ姿に向かって、心の中で唱えた。
そしてあたしも身体の向きを変え、駅へと足を進めた。
緊張――していた。
着ていく服を選んでいた時のふわふわした気分は、露ほども感じられないくらい一変していた。
ついさっきあんな事があったというのも理由としては大きいけれど、それだけではなかった。
彼女の雰囲気も違っている。
いつもの――余裕のある落ち着いた雰囲気でもなく、この間のような怒気を含んだ様子でもない。
鮫島さんは、あたしの隣で黙ったまま、目の前に広がる夜景を眺めていた。
最上階のこの店は、高級ホテルの一角に相応しく、ラグジュアリー感が溢れる造りに高い天井と大きな窓は解放感があり、眼下にはベイブリッヂを始めとする横浜を一望出来る。
彼女の華奢な手の中にあるマティーニには、夜景の光の粒が宝石のように煌めきながら映り込んでいた。
「昨日。あの後、潤が来たわ。訊いてる?」
丁度、ジャズの生演奏が始まったばかりで、誰もがその音色と景色に酔いしれる中、彼女は口を開いた。
迫力のある音響と澄んだ歌声は、一音一音大きく響き渡る。
この中ならば、気兼ねなく潤の話が出来ると思った。
「いいえ」
それは、帰ってきてからあたしに報告したのか、と訊いているのだろうか?
ハッキリ答えると、ギロリと大きな瞳が鋭くこちらを剥いた。
「余裕ね。気にならなかったの?
それとも訊けない、のが正しいのかしら?」
ぐっと息を詰めた。
全て見透かされている気がした。
あたしの潤への気持ちも、分かっているのだろう。
鮫島さんは、あたしから視線を目の前の揺れる透明な液体に移し、ほんの少し光の粒を眺めてからゆっくりとグラスを置いた。
「私と潤ってね、何にもないのよ」
「えっ……?」
「なーんにも、ないの」
何にも、って……。
驚いて見つめた顔は、自嘲した。
「潤と初めて逢ったのは……あるパーティーだった。
見栄の張ったお嬢様の連れだったの。
若くて可愛いオトコノコ。とにかく目を見張る子だった」
「………」
「まだ、高校生だったわ。定時制に通ってるって聞いた。
学はないけど生きる術は知ってるっていうのかしら? とにかく頭の切れる子だった。
女の扱いも心得ていたし、そうやって生きてきたのね」
――そうやって。
彰くんも言っていたっけ……。
「勿体無いなーって思ったの」
「勿体、無い……?」
「そう。このままそんな生活させてるのは勿体無いなって、そう思える子だった。
私も……結局は一目で惹かれたのよ、彼に。
それに、一緒にいた彼女にも勿体無さすぎる、って、ね」
彼女は僅かに笑みを目元に浮かべてみせた。
「そんな生活やめなさいって言って、私のところに来させたの。
ふふ……そんなこと言って、結局自分の元に引っ張ってきたんだから、今迄の女たちと似たようなモノなのかもしれないけど。それでもね、私は真剣だった。
潤をモデル事務所に紹介したの」
「モデル事務所……?」
元々はモデルだった、って、知ってたけど……。
「鮫島さんが――紹介したんですか……?」
頷くような仕草で、彼女はゆっくりと指を組み、その上に細い顎を乗せた。
鮫島さんに似合う大粒のオニキスが、指の上で光った。
「本人は目立つのが嫌いだから乗り気じゃなかったんだけど。
私が強引に連れていったの。そんな生活続けられないでしょ、って。
自分でも、女に養って貰う生活なんて本当は嫌だったのよね。
で、あれよあれよと言う間に、私でも驚くほど売れっ子になっちゃったワケ」
女に養って貰う生活……。
彰くんの言葉で、ある程度の予想はしていた。
だけど鮫島さんからも同じ意味の言葉を聞かされるなんて。
たとえ仕方なかったとしても、胃が重たくなった。
鮫島さんと潤が出逢わなければ、潤はずっとそんな生活を続けていたのだろうか。
「モデルとして売れ出したら、色んな仕事の話が来始めた。ドラマの仕事も、その一環だったわ。
本人はドラマなんてモデルの仕事よりも乗り気じゃなかったけど、ギャラも良かったみたいだし。
だけどね、驚いた。初めて潤の演技を見たとき。鳥肌が立ったわ。
あなたも見たなら分かるでしょう?」
あたしが当然頷くだろう口調で、覗き込んでくる。
「……は、い」
――分かるから。
素人のあたしでも、潤の才能は分かるから。
だから、潤が花屋をやりたいと言って、それを叶えてあげたいと思っているのに。
あたしの心の何処かに、僅かな揺れも迷いもある。
鮫島さんはあたしの心内を見透かしたように、また少し目を細めて笑みをみせた。
「だから、その道に進むことを勧めたの。
私が見出したんだもの。レールを敷いてあげた。
潤にとって最良の仕事が貰えるようにって、良い事務所も探して、根回しもした。
まぁ、もともとの才能があって、上手くいくことを分かっていたのは勿論よ」
――レール。
あたしは真っ直ぐに彼女を見た。
「鮫島さんの気持ちも……分かります。
潤の才能が人よりもずっと秀でていることも。
だけど。潤本人は……そういうの、好きじゃないって、ある方から聞いています。
潤は、拒んだんじゃないんですか?
それに、彼の友人が――」
「ああ」と、鮫島さんは、知っているのね、とでも言いたげな顔をした。
「中川 彰のこと?」
「鮫島さんは、それも分かってたんですか?
潤と彰くんが親友で、それで潤が余計にその道に進みたくなかった事を。
施設の経営が上手くいってなかったことも」
あたしの言葉に、彼女はクッと苦笑いした。
「そう。だから余計に拒んだのよね、潤は。彼は昔からの親友だったから。
彰がなかなか仕事が取れないで売れないのに、自分が上に進むのには抵抗もあったのよね。彰は真剣に俳優を目指してたけど、潤はそうじゃなかったから。
それでも、今の事務所は潤の才能に見惚れていた。だからどうしても手に入れたかったのよ。どんな手を使ってでも。
他の人には到底届かない才能を持っていたんだもの、当然よね」
「―――」
「私は。潤には俳優の道を進んで欲しい。それは今でも変わらない。
だけど、彰の事は――後から知ったの。
その頃から、彰と色々あった確執は、知らなかったの。
施設の経営を盾にされていたのを知ったのも、後からよ。
潤はね、そういうの、喋らないのよね。見せないの、本心を。
私といるときでさえ、表面上は自分を作っていたわ」
息を止めたように、鮫島さんはそこで一度言葉を詰めた。
唇が、苦しげに引きつれた。
「本当はね、見せて欲しかった。
どうにかして心を開いて欲しかった。
だから、強引に彼のことを手に入れるのは嫌で。身体の関係も何もないの。
そんなことをしたら、絶対に手に入れることは出来ないから……。
いつか、きっと、って……そう、思ってた。馬鹿みたいに」
「………」
「だから……昨日、あなたといた時の潤を見て、腸が煮えくり返った。
あんな顔、私には見せたことなんてないもの―― 一度だって」
唇だけじゃなく、彼女の顔全体が歪んだ気がした。
でもそれは怒りではなく、哀しそうな表情だ。
「だけどね」と、あたしを見据えた。
「昨日、初めて言ったの。抱いて、って」
――え?
「潤ね、断らない、のよ……?」
問い掛けてくるような言葉。
まるで、身体中に電流を流されたようだった。
抱いて?
断らない?
跳ね上がった動悸が打ち付ける。
店内に響くサックスの音が、脳の中をぐるぐると掻き混ぜる。
驚きの言葉さえ出ない。
鮫島さんは、あたしの様子を楽しむように頬を緩めると、すぐにまた表情はがらりと変わり、窓へと視線を移した。
「でもね……」と、何処か遠くを見るような視線で、マティーニのグラスに指先を添わせた。
「とてもじゃないけど、出来なかった……。
ハッキリと言うのよ。気持ちはないよ、って。無表情で。
今迄のオンナには、夢見させてきたくせに……。どんな言葉でも喜ばせるために言ってきたくせに……。
樹さんだから、偽りたくない、って――そう言うの。私に」
「―――」
あたしは喉に痞えた塊を飲み下した。
「あなた、分かってる……?」
「えっ……?」
「潤が昨日私のところに来た理由」
「そ、れは……っ。鮫島さんの気持ちを知っていたから――……」
言い掛けたところで、鮫島さんは唇の形をクッと歪めて苦笑いした。
そのまま高い笑い声を上げる。
「ほーんと、鈍いのって、ある意味罪だわ、ね」
「えっ……」
「理由なんてひとつに決まってるでしょう?」
鮫島さんの瞳が、射貫くようにあたしを見た。
「あなたの店を守るためよ」
「―――」
身体が、固まった。
店を――守るため?
何で――?
あたしを見る鮫島さんの瞳を、ただ見つめ返す。
「私が店にとっては大切なクライアントだから。
あなたが、ああ言ったから。
だから潤は来たのよ。皮肉なモノね。
その上それを守るためなら、身体も張れるって」
彼女の言葉の響きと一緒に、ドクドクと熱い血が噴き出したように身体に流れる。
店の……ため?
守るって、だって……
そこまで、何で――……
――『何に代えても守りたいモノが、見つかったんだ』
あたしに、そう言った潤。
言われた時は、彼女の――矢沢カンナのことだって思って……
違ったの?
潤にとってのそれは、店のことだったの?
そんな……。
それなのにあたしは、潤にそんなことをさせたの――?
だけど、罪悪感の他にも大きなモノが、身体の奥から膨れ上がった。
潤の、大きな気持ち。
あんなにあたしのことも店のことも、大切に思っていてくれていることを分かっていたのに。
どうしてそれを気付けなかったんだろう。
ギュッと胸が締め付けられる。
「あのっ――!」
「だからって、認めたワケじゃないの」
あたしの言葉を遮って、鮫島さんはぴしゃりと言った。
もう、笑みのない、真剣な顔だ。
「潤が花屋を本気でやりたい気持ちも分かったわ。
だけど、あなたも知っている通り、潤には俳優としての才能があるの。
他の人が持っていないモノを。
どうすることが一番本人のためになるのか、もう一度よく考えてみるのね。
私は諦めきれない」
自分の恋の成就よりも、潤の可能性と未来を見据えている、そんな表情であたしに鋭い視線を向けた。
彼女にとってあたしは、恋のライバルというよりも、潤の未来を潰す邪魔者なのだろう。
だけど……
「鮫島さんは、潤が何で仕事を休んでいるのかも、事務所が潤のことを探しているのかも知ってるんですか?
知ってて、事務所には黙っていてくれてるんですか?」
あたしの問いに、彼女は腹立たしそうに眉を歪めてから息を漏らした。
「言ったでしょ?」
「え……」
「潤はね、そういうの、言わないの。
私も訊かないし、言わない。私たちの暗黙のルール。
だから潤は私のところに来たんでしょ?
それに私は、潤に俳優を続けて欲しいと思っているけど、事務所の味方なわけじゃない。
潤はそれを分かっているの。ずるいわ……」
「………」
「ずるいわよ……」
苦しげな、顔。
壊れそうな瞳に、言葉を繋ぐことが出来ない。
二人の間に沈黙が落ちる。
その間に流れる音楽は、耳障りに大きく劈く。
窓に広がる夜景が、綺麗すぎて眩しい。
鮫島さんのカウンターの上に置かれた指が動いたかと思うと、またこちらを向いた。
「私、あなたの花、好きだって言ったわよね?」
「……はい」
「それは、今でもそう思ってる。
あなたには、そういう才能がきっとあるんだと思うわ」
「………」
「だけど。最初の約束通り、契約は三ヶ月よ。
そこで、辞めてもらうわ。
悪いけど、私、そこまでお人好しじゃない」
鮫島さんはスツールから立ち上がった。
そしてバッグの中から財布を取り出し、そこから一万円札を抜き取ると、カウンターの上に置いた。
口を付けないままのマティーニは、カウンターの上で変わらず光の粒を散らしている。
「待って下さい!」
あたしも立ち上がる。
鮫島さんは、ピタリと足を止めた。
「決めるのは、潤です」
鮫島さんは振り向かない。
「あたしは――潤が決めた道を進んで欲しいです。
それが、あたしの傍じゃなくても、自分の望むべき道を」
一種異様な雰囲気を感じ取ってか、店内の客の目がこちらに向いた。
だけど、声はジャズの音に掻き消されたせいか、すぐに何事もないように皆、元に戻る。
鮫島さんは返事もしないまま、背筋をピンと張ってまた足を進めた。