36
「夕飯、何食いたい?」
潤は店の入り口の方を向いたまま、そう尋ねてきた。
言葉に続いて、シャッターを下ろす。
金属音が夜空に上がって、それが無機質に感じた。
「あー……あのね……」
昼間おばちゃんが来てあんな話をしたせいか、あたしはこのまま出掛ける事を潤に告げられないままだった。
本当に馬鹿みたいなんだけど。
勿論、鮫島さんと会うとは言えないし。出掛けると言ったら、敬太と会うのかと思われそうな気がして。
先延ばしにしていたのもあるけど、今日に限ってお客様も多くて、言うタイミングまで逃してしまって。結局、とうとう店を閉める時間になってしまった。
「ん?」
何の疑いもない目を向けられる。
今更余計に言い出しにくいと思いながらも、言わないと出掛けられない。
きっと言ってしまえば何てことないと、小さく息を吸い込んだ。
「ごめんね、潤。
あたし、これから用事があるの。出掛けてくる」
「用事?」
「うん」
「そっか」
潤は大きな溜め息を吐いた。
「昼間の電話。敬太だったんだ?
別に、隠すコトないんじゃね?」
――!
電話……やっぱり気が付いてたの?
「敬太じゃ……ないし」
「ふぅん」
何だか信じていない口振りだ。
だけど本当に敬太じゃないのに。
そう思われるのは、やっぱり辛い。
「昔の友達と、ちょっと……会うの。久しぶりに」
「ふぅーん……」
「ホントだし……」
ホントだなんて。
だけど、『トモダチ』以外に思い浮かばない。
逆に、本当のことを言ったらどう思うんだろう。
潤は信じているのか信じていないのか、少し間を空けて言った。
「何処まで行くんだよ? 近くまで送ってく」
「みなとみらい……だから。いいよ」
「みなとみらいっ?」
「うん?」
素っ頓狂な声を上げる潤に、あたしは疑問符をつけて答えた。
すると、潤は呆れたような息を漏らした。
「いくら急に誘われたからって……着替えてけば?
何時に待ち合わせだよ?」
失礼だな、と思いながら答える。
「21時……」
でも、よくよく自分の身体を見下ろすと、コットンのチュニックにデニムとスニーカーは確かに地味……というか、普段着過ぎる。
メイクだって仕事仕様でナチュラルだし。
ホテルのバーに行ったら、確実に浮くだろう。
「それなら急げば間に合うだろ?」
「………。
うん、そうする……」
答えると、それを合図にしたみたいに、あたし達は家に向かって歩き始めた。
いつもと、一緒。
あたしの横を歩く潤。
ただ、それだけなのに。
それだけで温かい気持ちがふんわりと膨らむ。
高校生のとき、好きな男の子と一緒に歩いたときの感覚のような。くすぐったいような。そんな甘酸っぱい感じがする。
大人になって、忘れていた小さな気持ちは。
たったそれだけでこんなに幸せな気分になれる。
それはもしかしたら、一緒にいられる時間が限られているせいもあるから、より濃く感じるのかもしれない。
だけど。
潤が好きという気持ちは、今迄の誰よりも大きいと思う。
それだけは、絶対と言える、
たったひとつ。
あたしの、守りたいモノ。
「何?」
見上げていた横顔が、不思議そうな顔をしてこちらを向いた。
あたしがじっと見つめていたのを、不審に思ったらしい。
だって、こうしている僅かな時間が、あたしにとってはかけがいのないモノなんだよ。
いなくなるのが分かってるから、目に焼き付けておきたいなんて、思っちゃうんだよ。
「別に。何でもないよ」
「何だよ?」
眉を顰める潤に、何でもない振りで前髪を指差した。
「別にー。て、ゆーか。髪、伸びたね」
「髪?」
「うん。髪」
あたしの指の先を確かめるように、潤は自分の前髪を一束摘まんだ。
短めの前髪はそれでも見にくいようで、潤は眉の形をまた変えながら目を上に寄せて眺める。
……なんだか、可愛い……
「そーかも。
切ったばっかのときは、自分じゃ見えなかったし。
はえーなー」
「うん……早いね……」
あれは――潤と出逢った次の日だ。
髪を切ったのは。
ウチに来た日のこと。
潤の伸びた髪の長さは。
あたし達が一緒に過ごした時間の長さを表しているんだ。
「なー、葵」
「ん?」
「オレも行きたいなー。みなとみらい」
「え……?」
「今度、二人で行かね?」
行かない? って……
「だって、せっかく横浜に住んでんのに、行ったことねーじゃん?」
「まぁ、そうだけど」
「観覧車とか乗りてぇ。
お化け屋敷とかもなかったっけ?
で、中華街行ってー、肉まんでも食ってー」
楽しそうに指を折る潤に、思わず含み笑いが漏れる。
「また子供みたいなこと……」
言い掛けて、はた、と止まる。
そっか。
潤は、そういうところ、行ったことがないって言ってたもんね。
みなとみらいって。
都心の夜景の綺麗なところ。あたしにはそんなイメージだけど。
潤にとってはまた違って見える場所なんだ。
「うん。行こう」
「やりー。
コレ、二つ目の約束だなー」
潤は満面の笑みを見せる。
心底、嬉しそうな。そんな顔。
そんなに喜ばれると、あたしの方が嬉しいんだけど。
何だか胸の奥の方がこそばゆい。
だけど同時に、ちくりと痛んだ。
……ふたつめ。
約束なんて……守れる?
本当に叶えられる?
「葵」
「ん?」
顔を向けたら、目の前に潤の手があった。
「……え?」
小指を立てた、手。
「約束、な?」
潤はそう言って、その指に強引にあたしの小指を絡めてきた。
そして、ニッと、目元を細くして見せる。
「うん。
約束、ね?」
絶対だよ?
叶えてよ?
約束――だからね。
そう心の中で唱えて。
あたしも潤の指へと自分の小指を絡め、固く握った。
昨日、店でも敬太との事があって、潤にハッキリと言われたばかりなのに。
あんな風に雰囲気よく過ごせて、その上一緒に出掛ける約束までするなんて。
何だか不思議で。ふわふわとした気分にさせられる。
これから鮫島さんと話をするなんて、嘘のように緊迫感が剥がれ落ちている。
何着て行こう……。
部屋の中で姿身に向かって、服を合わせる。
最近、服なんてマトモに買ってないな、と思う。
鮫島さんは、いつもきっちりと高級そうな洋服を纏っている。
同じ女性として。しかも同じヒトに恋するライバルなのに、こんなにも違うなんて。
あまり変な格好は出来ないと、妙な自尊心が生まれてくるから厄介だ、女って生き物は。
綺麗めのワンピースを選んだ。
黒無地の柔らかいカットソー素材。裾はふわっとしたミディ丈。
普段は動きやすいカジュアルな服装が多いあたしも、こういう格好にきっちりとメイクを施せば、それなりの年齢の女性に見えると思う。
いつもよりもずっと時間をかけてメイクを直し、着替えて階段を下りると、ふわりとコーヒーの香ばしい香りが鼻を掠めた。
どうやら潤が、キッチンでコーヒーを淹れているらしい。
いい匂い。
コーヒー飲んでから行こうかな。
さっと飲んで、急げば間に合うよね……。
「潤? コーヒー淹れたの?」
ひょい、と。入り口から覗くと、潤がカウンターから顔を出した。
なのにあたしを見ると、驚いたように目の動きを止めた。
「え? ……何?」
あたしも思わず動きが止まる。
「や……別に」
ふい、と。目を逸らされた。
オカシイ。何か変。
って、ゆーか。潤がじゃなくてあたしが変?
やっぱ。こういう格好、似合わない?
「何よ。あんまり綺麗でみとれちゃった?」
嫌みで言ってみる。
考えてみたら、確かに潤の前でこういう格好って初めてなんだよね。
「……うん」
潤が一言、言う。
「でしょ?」
……って。アレ?
今、「うん」って言った?
突っ込みが返ってくるかと思ったのに。
予想外な言葉と冗談には見えない態度に、あたしは急に顔が熱くなった。
「つーか。マジでそういうの似合うよ、葵」
「えっ?」
「うん。イイカンジ」
「そ、そーかな……」
な、何か、照れる。
「敬太、喜ぶんじゃん?」
――敬太?
一瞬、理解出来なかった。
だけどその言葉に、籠もった熱は一気に冷めた。
「やっぱ、デートなんだろ? お洒落しちゃってさ。
ホントのコト、言えばいいじゃん」
――何、言って……。
言葉が出ずに、茫然と潤を見つめた。
何で――?
違うって言ってるのに!
「もしかして、さ」
潤は一度そこで言葉を区切ってカウンターに寄り掛かった。
「昨日、オレが言ったこと気にしてた?
だからこれから敬太に会うこと、言いづらかった?」
吃驚した。
何言ってんの?
「……何? それ……どういう意味?」
敬太に会うって……本当にそうだと思ってたの?
あたしが嘘言ってたって――
身体は固まって、ただ潤を見つめる。
「だから……樹さんとのことで……昨日、オレ、怒鳴っただろ?」
「え……?」
怒鳴った、って――
あたしが訝しく見ると、潤は苦い笑いをした。
「あれはさー……ただ、勝手にオレのこと決められたみたいでムッとしただけだから。
別に、葵に樹さんのトコに行けって言われたのがショックだとか――そんなんじゃねーし。何か、もしかしたら勘違いしてんのかなぁ、って。
ちゃんと、葵が敬太と上手くいくこと、良かったなぁーって思ってっからさっ」
何、それ……
何それ、何それ……
気にしてるとか、好きだって思ってるなんて、勘違いすんなよ、ってこと?
何でそんなコトわざわざ言うの……?
分かってる。分かってるよ、言われなくても!
潤があたしに恋愛感情がないのなんて分かってるってば!
良かったな、なんて。もう言わなくていいよ!
涙が出そうなのを必死で堪えて、あたしは潤に背を向けた。
「……行ってくる」
抑揚のない声で言って、顔を見ないまま早足に玄関へ向かった。
「葵! 駅まで送ってく」
慌てた声と一緒に、パタパタと足音が近づいて、あたしのすぐ背後に潤の気配がした。
――何で……もう……。
冷たい言葉と、温かい言葉。
今はどちらもあたしには苦しいだけだ。
「……いい」
「もう、暗いし。待ち合わせみなとみらいだろ?
そこの駅まで送る」
「いいってば」
「だってさ――」
「子供じゃないのっ!!」
掴まれた腕を、反射的に振り払っていた。
その勢いついでか、ぽろりと涙が零れ落ちた。
あたしは見られないように、また後ろを向いて玄関へ急いだ。
潤は驚いたのか、何も言わずにその場に立ち止まっているようだった。
あたしは振り返らずに、下駄箱からパンプスを取り出して履き、ドアを開けた。
ムッとした空気が流れ込んでくる。湿度を多く含んだ不快な夜気だ。
その中に、乱暴にドアが閉まった音が響いた。
潤は追い掛けて来ない。
当然だし、そうして欲しいわけじゃない。
だけど。
ドア一枚隔てた距離が、物凄く遠く感じた。
こんなに近くても。
心の距離は離れていて。
近づくことが出来ないみたいだ。
自分が余計にそうさせていることが、辛い。
大きく息を吸って、吐き出す。
また溢れ出してきそうな涙を、どうにかそうやって押し止める。
もう……ホントにこんなんじゃ、駄目。
これから鮫島さんに会うのに……ちゃんと気を持たないと、話せない。
もう一度、息を吸ってから足を進め始める。
カツン、と、ヒールの高い音が一歩毎に立った。
家々に挟まれた道は、あたし以外に誰もいなくて、妙に物寂しい気持ちになって顔を上げた。
すると、敬太の家の角から、急に人影が出てきて驚いた。
音も影もないところからの人の気配に、変質者かと一瞬どきりとする。
女の人?
暗くてよく分からないけれど、シルエットは細く小柄な女性のものだ。
女性だと分かると、何だかホッとした。
だけど、その人は何故かそこに立ち止まったままだ。
あたしは歩きながら不審に思い、その女性を見た。
防犯灯で薄く照らされた顔は、誰だかすぐに分かった。
――あの時の。
友達の結婚のお祝いに花を買いにきた――潤とキスしてた、って子……。
この間、店に来た時は硬い表情をしていたけれど、今は硬いとは言い難いほど憤怒した目があたしを直視していた。
異様な雰囲気を持った彼女に、心臓がざわついた。
「ねぇ」
低い声がそう言って、ゆらりと影が動いたかと思うと、彼女はあたしの行く手を遮るように目の前に立った。
「アンタのせいなんだから……」
「え……?」
「ジュンを返してよ……」
「えっ……? ちょ……っ!?」
言葉が出る前に、凄い力でぐっと肩を掴まれた。
『返して』って、訳が分からない。
だけど、彼女の瞳はどう見てもあたしに対して憤りを持った光を放っている。
「返して、って、何?
あなた、潤の何?
それに何でウチを知ってるの?」
潤がウチにいることを知っているのは、かなり限られた人の筈。
園長に鮫島さん、それに彰くん。
――矢沢カンナだって知らないのに。
「最初、店で見掛けたときは――ただ純粋に嬉しかった。大好きな、手の届かないジュンに会えただけで。
休暇中のジュンがこんなところにいるなんて、きっとあたししか知らないだろうってそう思った……」
え……?
何?
潤の――ファン?
「後を付けたの。店から出てきた後……」
「後を付けた……?」
ゾッと、背筋に冷たい物が走った。
顔つきも普通じゃない。
「住んでる場所が分かって――そしたら、ジュンのこと、もっと知りたくなっちゃって……」
ニヤリと一瞬笑って見せた表情に、嫌な考えが繋がった。
「もしかして……家に入ったのって……あなた……?」
そうだ、あの時。
入られたのは、潤の部屋で。
特に金目のものを盗まれたわけでもなく――そんな雰囲気でもなくて。
盗まれたのは、潤が着ていた父の花屋の制服。
追いかけた潤はそれを取り返してきて。
その時に敬太が二人を見かけたのなら――……。
あたしの言葉に彼女は一度目を見開いてから、また細めて自嘲気味に笑った。
「そうよ。だって、ジュンのあんな格好って何だかコアじゃない? 欲しくなっちゃったの。
て、ゆーか。ジュンの物なら何でも良かったんだけど」
――欲しくなっちゃったって……
「そんな事で不法侵入したの……?
それが、どれだけ……っ」
憤りを感じて身体が震え出し、言葉もそこで詰まる。
こんなのって、信じられない……!!
それに、何で潤はそんなことを許したの!?
何で、キスなんてした!?
「潤と、その時何を話したの?
潤はあなたのこと、許したの?」
あたしの質問に、彼女は上目遣いに睨みつけてきた。
「許すも許さないもないわ。凄く怒ってたのは確かだけど。
だけど――あたしが弱みを握ったのも確かで。
仕事復帰するまでココにいる事を誰にも口外しない条件で、キスした」
「条件?」
「もう、夢のようだった。ジュンとキスできるなんて」
恍惚とした表情を見せたかと思うと、すぐにまた鋭いものに変わる。
「だけど……約束と違った……」
それは背筋が凍るように、冷えたものだった。
あたしの肩を掴んでいる手にぐっと力が入り、息も詰まる。
「一ヶ月……って言ってたのに……」
「え……?」
「一ヶ月経ったらちゃんと戻るって。そう言ってたのに! 戻らないじゃないっ!
だから――この間訊いたら、もう、戻りたくないって――! 話が違うじゃないっ!
アンタのせいなんだからっ!!」
――え?
疑問符が浮かんだ時には頭が振られて、思わず目を瞑った。
耳と頬がジンとして、叩かれたんだ、と、そこで認識した。
目を開けた瞬間、再度平手が飛んでくるのが見えて、顔を覆おうと咄嗟に掴まれていない方の手を出した。
だけど間に合いそうもなくて、また目をぎゅっと瞑る。
「何やってんだよっ!!」
痛みと肉を叩く音と同時に聞こえた大きな怒声。
ハッと目を開けると、そこには敬太がいた。
彼女の腕を掴んで引っ張り、あたしから剥す。
「何すんの――! 放せっ!!」
「オマエこそ――! 葵に何すんだよ! 何なんだよ、一体っ!」
敬太と彼女が押し問答している様を、あたしは茫然と身体を固めて見つめる。
ぐるぐると彼女の色んな言葉が頭を回る。
だけど、考えも弾き出せないうちに、後ろの方で玄関のドアが開く音が聞こえた。
「葵っ!」
振り向かなくても、誰だか分かった。
――潤。
バタバタと足音が聞こえて、あたし達の前に息を切らして現れる。
「何――? どうした……っ?」
潤は驚愕した顔つきであたしを見つめる。
敬太は彼女を放し、今度は潤の胸ぐらを掴んだ。
「葵がこの女に殴られたんだよっ!」
「敬太っ!!」
声を上げた瞬間には敬太は掴んだ腕を放し、潤はその勢いで少しふらついた。
「ジュンに何すんのよっ!!」
彼女がわめきながら潤に駆け寄る。
潤がまだ深く理解出来ていない間に敬太は、今度はあたしの掌を掴んで引っ張った。
「行くぞ、葵」
「ちょ……っ! 敬太っ!」
あたしは強引に引っ張る敬太を止めようと、腕を引いた。
そのまま振り返ると、敬太の足も一度そこでピタリと止まった。
「オマエの問題を葵に持ち込むな!」
敬太の言葉に、潤の唇がぐっと歪んだのが見えた。
あたしはそのまま、また敬太に腕を引かれて、なされるがままその場を後にするしかなかった。