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昨日――
鮫島さんと会うまでは、凄く幸せだったのに。
花菖蒲の話をして。新しい仕事を貰って。二人で手を合わせて喜んで……。
自然と笑い合ったことが、夢のようにも感じる。
自分の本当の気持ちを抑えて、違う人を想っている振りをすることが、これほどにも辛いなんて。
ほんの少しの時間でも。
1分1秒でも長く一緒にいたいのに。
潤が花の移動販売に出掛けて一人になると、何となく肩の力が抜けた。
『敬太が真剣なら、それでいいんだ。
香織ちゃんとの事は大変だとは思うけど、きっと分かってくれるよ』
昨日。
あたしの頭を乱雑に撫でたあと。
潤はそう言った。
『あのね、潤――』
言い掛けてそこで飲み込んだ。
香織と敬太はもう別れたということを。
『やっぱり何でもない』
あたしはズルイ。
香織は酷く傷付いているのに。
それでもなお、あたしは自分を取った。
潤が、敬太と香織はまだ付き合っていると思っていてくれているほうが、都合がいいから。
『辛くなったら言えよ』
『え?』
『オレは何があっても葵の味方だって。言ったじゃん?』
何でそこで笑顔を見せるかな……。
余計、辛い。
自分の卑劣さと浅ましさが込み上げる。
香織と敬太に対する罪悪感と、潤への恋心が一緒くたに混ざり合い、胸を押し潰すよう。
ひたひたと、足元から冷たいモノが広がっていく感じがした。
ハッとして、視線を落とす。
水やりをしていた鉢植えから、注ぎっぱなしの水が溢れ出し、床に波紋を作り出していた。
「あー。もう……っ!」
馬鹿……っ。
何やってんの、あたし……。
仕事中にぼーっとするなんて最低……。
すぐにカウンターに回り、モップを取り出す。
水浸しになった床を丁寧に拭き始めると、カタカタと小さな音が店の中に流れた。
もうすぐ……戻ってくるかな……。
モップで水を吸い上げると、手を止めて壁の時計を見上げた。
もう15時を回っている。
やっぱりそろそろ帰ってくる時間かな、と思うと、それに合わせたように電話が鳴り出した。
潤の事を考えていたせいか、一瞬、本人からじゃないかと思う。
まさかね、と即座に否定して、何の迷いもなく、受話器を取り上げた。
「ありがとうございます。pure greenです」
『………』
あれ?
「もしもし?」
数秒待ってみるが、返事はない。
だけど、微かに何かざわついた音が漏れてくる。
無言電話?
イタズラ?
受話器を置こうと耳から離した途端、そこから何か話し声が聞こえた気がして、急いで当て直す。
「もしもし?」
『……鮫島です』
――え?
鮫島さん……?
一瞬言葉が詰まる。
えーと、とか、あの、とか。そんな言葉が出そうになって、ごくりと息を飲んだ。
「いつもお世話になっております」
思わず、言葉と一緒に頭も下げた。
『店』にかけてきているのに。
仕事の顔にならなくてどうするの!
心の中で叱咤して頭を切り替えたけれど、返ってきた言葉は本来予想していたものだった。
『昨日はどうも……』
ざらついたような、低い声。
仕事じゃなくて。
潤の、コト……。
瞬時に悟れる声のトーン。
そう。それはきっとあたしも同じだと思う。
「はい……」
『潤は?』
「今、外回りに行ってます」
「そう……」
鮫島さんは短く答えると、黙り込んだ。
受話器の向こうから、雑音に紛れてクラクションの音がした。
『話がしたいの、あなたと』
彼女のアルトが言った。
あたしと……。
「――はい」
それは。
あたしも思っていたこと。
あたしも鮫島さんと話がしたい。
『今夜、21時でいいかしら?
スカイホテルの最上階のバーで待ってるわ』
「分かりました」
答えたところで、ドアの開く音がしてハッと目を見張った。
……潤!
「えっと、じゃあ伺います! 失礼します!」
目が合う前に背中を向けて、潤から見えないように慌てて電話を切った。
心臓が勢いをつけて動き出す。
これじゃあ、まるで疚しいことがあるみたい。
……だけど。
本人のいないところで潤の話をするんだから。
やっぱりコレは疚しいコト……だ。
ゆっくりと振り向いた。
潤は電話に気付かなかったのか、いつもと変わりない笑顔を見せる。
「ただいま」
「おかえり。お疲れ様」
「何? その顔」
眉を寄せて怪訝な顔をする。
あたし、やっぱり怪しい?
「その顔って……失礼ね」
あたしは最大限の努力で何もないフリをする。
いつもの態度と同じように、怒った口調……だよね?
潤は首を傾げてしげしげとあたしを見た後、「ふーん」と納得したように視線を外した。
良かった。何とも思ってないみたい。
だけど、ホッとしたのも束の間だった。
「葵ちゃん!」
ドアが開く音と一緒に柔らかな声が店内に響いた。
お客様じゃなくて、誰が来たかなんて、振り向かなくても分かった。
恐る恐る入り口の方へと顔を向けると、いつもなら癒やされる筈のその優しい顔があった。
「おばちゃん……」
あたし達と目が合うと、おばちゃんは手を振りながら短い距離を足早に寄って来た。
そんなおばちゃんに、潤はすぐにいつもの調子で頭を下げた。
「こんにちは。昨日はお騒がせしてすみませんでした」
明らかに動揺したあたしとは大違いで。
昨日の夜の態度とは打って変わって、落ち着き払っているように見える。
「ちょっとユウキくん、やだわ、頭上げて頂戴!」
おばちゃんは潤の肩に手を掛けて、顔を上げるように促す。
潤も済まなそうに、はにかんで答える。
あたしは何を言われるかの予想はついていて、奇妙に押し寄せてくる圧迫感に、口を噤んで備えていた。
「それより葵ちゃん! どうなってるの?」
潤と少しやり取りした後、おばちゃんは、そんなことよりもといったように、勢いよくあたしの方を向いた。
やっぱり、ね……。その話だよね……。
「あー……え……と、あたしは……」
何て言ったらいいんだろう……。
潤もいる前でおばちゃんを上手くかわさないと……。
言葉を選ぼうと頭の中で探してみるけれど、上手く当て嵌まる言葉は出てこない。
潤はただ黙ってあたしの横に立っている。
顔が、見られない。
「敬太……葵ちゃんのこと、ずっと好きだったって言ってたわ」
おばちゃんは顎先に指を当てて、溜め息を吐き出すようにそう言った。
あたしはそんなおばちゃんを上目遣いでちらりと見て、申し訳なくなって、視線を落とした。
「私ね。勿論、香織ちゃんのことは凄く良い子で敬太には勿体無いくらいだって思ってて……私自身も好き、よ。
でもね。小さな頃から娘みたいに思っていた葵ちゃんが敬太の相手だったら、って……夢見たことがないわけないでしょう?
本当はね、密かにずっとそう願ってた」
「おばちゃ……」
顔を上げると、まるで心の中を覗き込んでくるように、おばちゃんはあたしの目をじっとみつめる。
「香織ちゃんとは、別れたって。
葵ちゃんは知ってた?」
顎先にあった指が、ふっとあたしの腕に触れてきた。
「……は、い……」
思わず、声が小さくなる。
答えた後、また俯いた。
潤は隣で驚いているのだろうか。
更に顔は向けられなくなる。
結局、おばちゃんの口から聞かせることになるなんて……。
ズルイこと、するからだ。
「葵ちゃんは仲の良い友達だし、色々あると思う。
敬太もそれ以上は何も言わないし……。
って、母親になんて言わないのが当たり前だろうけど。
だけどあんな風に聞かされちゃったらねー。ねぇ、ユウキくん」
痛みを伴って、ドクンと心臓が鳴った。
お願いだから、潤に振らないでよ……!
顔が上げられない。
何て、答えるの……?
だけど答えは想像出来て。
それを聞きたく、ない……。
ほんの少し間を空けて潤は言った。
「皆の前で言うくらいなんだから、敬太さんは本気なんですね。
二人が幸せなら、オレは祝福したいですよ」
落ち着いた、声。
それがいくつも輪をかけるようにこだまして、あたしの頭の中に響く。
聞きたくなんて、なかったのに……。
分かってても。そんな言葉……。
ああ、もう……。
涙が出そう……。
奥歯を噛み締めた。
泣きそうな顔だとバレないように、無理矢理口角を引き上げる。
それでも、様子がおかしいと感じたのか、おばちゃんの顔色が変わった。
「あー……ごめんね、葵ちゃん……。
葵ちゃんの気持ち、考えてなかったわね……。色々、あるわよね。
私ばかり盛り上がっちゃって……」
うん、とも答えられず、無言でかぶりを振った。
すると、またドアが開いた音がした。
潤が「いらっしゃいませ」と、声を掛ける。
どうやら今度は本当のお客様のようだ。
「お客様いらしたから行くわ。
ゴメンね、邪魔しちゃって。またね」
おばちゃんはあたしの肩に手を置くと、すぐに店を出て行った。
おばちゃんと店内ですれ違ったお客様は、店頭にあった紫陽花の鉢植えを手にしていて、潤は素早くその対応を始めた。
さわやかな笑顔は、まるで何もなかったかのようだ。
自分が店の責任者なのに、情けなくなって。
あたしは、慌ててお客様に大きな素振りで頭を下げた。