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肩から首に腕が回り、後ろから抱えられるように抱き締められる。
掴まれた方の腕の力がふっと緩んだかと思うと、そのままその手も、ゆっくりとあたしの身体に回された。
「放して……」
追いかけないと、潤が……
「嫌だ」
低音の、強い口調の声が耳元に返ってくる。
「敬、太っ……」
「葵が好きだから。嫌だ」
脳内に敬太の声が波紋を広げる。
俄には、信じ難かった。
そんな関係じゃないから。敬太とは。ずっと。
こうしてる間に、潤が何処かに行っちゃう……
だけど、敬太の腕を振り払う事は出来なかった。
これは冗談なんかじゃない。
敬太の本気が痛いくらい伝わってくる。
今迄に感じたことも考えたこともない『男』の敬太がそこにいて、心臓が不穏な動きをした。
「気付くのが遅すぎた。いつも傍にいて。それが当たり前だったから」
あたしを包む腕に、また力が入った。
「……だって、敬太、そんなの……」
そう声を出してみるものの、その後に続く言葉が見つからない。
これ以上、敬太の言葉を聞くのが怖い。
「今迄付き合った女とか……、そういうのとは違う意味で、オマエの事は大事だって思ってたから……。だからずっと分かんなかったんだ。
好きだって気付いたときには、葵には結婚したい彼氏がいて。
相手だってちゃんとしたヤツだったし、オマエが幸せなら邪魔できない、幸せなら見守ろうって……そう思ってた」
「香織は……」
名前を出した途端、敬太の身体が一瞬強張った気がした。
「確かに彼女出来ないって言ったのはオレだけど。それは葵に気持ちがあったからで……。
オマエに強引に紹介するって連れて行かれて。あの時は、スゲエ辛かった……そーゆーの」
ズキンと、胸が痛んだ。
強引に……。
確かに、あたしが半ば無理矢理二人を会わせた。
敬太の事は信頼を置いていてイイ奴だって思っていたし、香織は可愛くて性格も良くて、二人はお似合いなんじゃないかな、って。
勝手にそう思って……。
喉がカラカラで、内側が貼り付いているようだ。
ごくりと固唾を飲むと、触れている部分から敬太の喉も同じように動いたのを感じた。
「香織には……最初に二人きりで出掛けた時に話したんだ。葵のことが好きだ、って。
だけどアイツ、オレが乗り気じゃないってコトも、オレの気持ちもその時に気付いてた。
だから何回か二人で会い始めたのは、ただ、友達としてだった。香織もオレに対してその気なんてないと思ってたから。相談に乗ってもらったり、そんなんだったんだ。凄ぇ、イイ子だったし」
その気がない?
相談?
「香織は……っ。最初敬太に紹介したときから、敬太のコト気に入ってたよ!
一目惚れだって、あたしにそう言ってた……っ」
気がない、なんて――……
「………」
敬太の力が緩んだ。
そして、あたしの身体に回されていた腕はゆっくりと離れる。
あたしは敬太の方へと振り向き、彼を見上げた。
「……うん。
だから。好きだって言われたときは驚いた。
ずっと、気持ちを隠してたって。そう言ってた」
「―――」
「香織はさ、マジでイイ奴過ぎるくらいのヤツなんだよ。
葵のことは無理に忘れなくても、自然に任せればいいって、そう言うんだよ。それでもいいんだって、そんなオレが好きだって……」
敬太は辛そうに顔を歪めて、一度唇を結んだ。
「だから……真剣に香織と向き合いたい、って。そのうちオレも香織の気持ちに応えられるんじゃないか、って。そう思ったんだ」
「う、ん……」
足元に視線を落とした。
グレーのタイルが、寒々しいくらい艶やかに照明で光る。
「好きに……なりかけてたとは、思う……。
だけど、葵とアイツを見てたら、押し込めてた感情が吹き出して仕方なかった」
「敬太……」
「アイツはオマエに誠実じゃないじゃんか。何にも本当の事なんて言わないで居座って。
挙げ句、色んな女との付き合いだってあるだろ? この間の女にしろ。矢沢カンナとの噂話だって、どうなってるんだよ!?」
「敬太、知ってたの? 噂……」
驚いて顔を再度顔を上げると、敬太は苛立った顔つきで、怒りを含んだ瞳を細めた。
「芸能人だって分かった時点で調べたら、際限ないほどその噂が出てきたぞ!
知らない、で済ませられるワケねーだろ!?
大体、オマエが彼氏と幸せになれることを想って身を引いたのに。何でこんな事になってんだよ!?
アイツじゃ、葵が幸せになれるワケないじゃんか!」
強くなった口調と響く声。
あたしは瞬間、言葉を張り上げていた。
「なれないなんて、決めつけないでよ!」
だけど、敬太もすぐにあたしに返す。
「なれねーよ! アイツは芸能人だろっ!?
オレ達とは違う世界にいるんだよっ!!」
敬太の言葉が輪をかけたように頭の中に響いて反響する。
違う世界――
「そんなの……そんなの分かってる! どうにかなりたいなんて思ってない!
ただ、好きなの! 今一緒にいられるだけでもいいのっ!
潤がウチにいたいならそれを守りたいだけ!」
勢い良く出た言葉の後、それを強調するように、はぁ、と、上がった息が唇の隙間から漏れた。
敬太は言葉を詰めて、あたしを見た。
あたしも真っ直ぐに見つめ返す。
「好き、なの……っ」
「葵っ」
「一緒にいて、色んな気持ちを貰ったの……。
潤と出逢ったから、辛かった花屋の仕事が楽しくなって、好きになって……頑張ろうって思えるようになったの。
潤がいてくれなかったら、きっとあたしはボロボロになってた……」
いつの間にか、涙が膨れ上がったのに気付く。
温度を持つ粒は、躊躇するように顎で一度止まってから下へと滴り落ちた。
だけど、拭わないまま続ける。
「好きだって、言うつもりもないの。
そんなの困らせるから。ウチにいられなくなるから。
それでもいいの。好きなの」
まるで。
自分に言い聞かせているような言葉。
敬太に向かって言い切ると、身体の力が全て抜け落ちたようにへたり込んだ。
際限なく溢れ出てくる涙は、膝にもタイルの上にもぽたぽたと落ちて、小さな丸い染みを作る。
それが重なっていき、大きなものへと変わっていく。
――それでも、いい。
そう思っていたのはあたしだけじゃなくて。
香織も、敬太も。あたしよりもずっと長い間、そんな気持ちを抱えていた。
薄いガラスで出来た想いは、小さなひびが入れば脆くも粉々に砕け散る。
壊したのは、あたし。
その想いに比重をかけて耐えられなくさせたのは。
香織の気持ちも敬太の気持ちも知らないで。ずっと。
そのせいで、どれだけ二人を傷付けたのか……。
「ごめ……ね、敬……」
嗚咽で、言葉が掠れ掠れになる。
「ごめん、ね……」
顔が上げられなくて、伏せた瞳には滲んだタイルの上に作られる染みが映り込んでいた。
それを遮るように、視界の中に大きな掌が入る。
差し出された敬太の掌。
どれほどそれが温かいのか、あたしは知っている。
その手を取らずに、下を向いたまま首を横に振った。
もう、今迄とは違う。
何事も無かったように、簡単に敬太の手を取ることは出来ない。
「葵」
敬太が名前を呼んだかと思うと、身体がふわりと浮いた。
両脇から抱えられて。
まるで軽い荷物でも持つように。
そのまま腰掛けさせるように、上がり框にストンと降ろされた。
「オレこそゴメン……」
「………」
「だけど……。好きだから。
葵が大事だから、認めらんねぇ……」
敬太がそう言うと、ドアが開く小さな音が聞こえた。
「敬――」
身体を起こした時にはドアが閉まって、敬太の姿はそこから消えていた。
また力が抜けたように、あたしは数秒前と同じ場所に腰を下ろした。
そして瞼を閉じて、深く息を吐き出した。
涙の粒が、頬をなぞる感覚がする。
頭の中は、白く濁ったみたいに思考まで鈍る。
上手く、頭が働かない。考えないとならないことばかりなのに。
色んな気持ちが重なり過ぎて、どうしていいのかも分からない。
ゆっくりと身体を横に倒した。
こつん、と、壁に頭が着いて、そのまま肩もそこに寄せる。
今、動く気力さえない。
ただそこに身体を預けて、目を瞑ったまま天井を仰いだ。
……え?
――今。
潤の声が聞こえた気がした。
……空耳……?
瞼を開いて、耳を澄ませた。
空耳――なんかじゃない。
潤と敬太の怒声が外で響いているのが聞こえる。
何を言っているかまでは分からないけれど、間違いない。潤と敬太の声だ。
嘘っ!! 何!?
そう思った時には玄関のドアを開けて飛び出した。
「何やってんのっ!?」
家の敷地からまだ二人の姿が見えないうちに声を上げていた。
一歩道路に出ると、お互いに胸ぐらを掴みあった潤と敬太が目に入って驚いて目を剥いた。
「や――めなよっ……!!」
急いで二人の間に割って入ろうと身体を入れ込んだ。
だけど潤も敬太もお互いに掴んでいる手を離そうとしない。身体に力を入れて鋭く睨み合ったままだ。
あたしの存在なんて関係ないように、潤が大きな声を上げた。
「いい加減なコトしてんじゃねーよっ!!
葵がどんな気持ちでいるか分かってんのかよっ!!」
えっ、あたし!?
驚くのも束の間、考える暇もなく敬太が返す。
「いい加減なコトぉ? そっくりそのままオマエに返してやる!
女の匂いさせてるヤツにそんなコト言われたくねぇ!」
「ちょ……っ、やめてっ!!」
あたしは、そのまま殴るんじゃないだろうかという勢いの潤の身体を抱え込んで、力一杯引っ張った。
「やめなってばっ!!」
それでも敬太を離さない。
抱えた潤の身体から、敬太が言ったように甘い香りが鼻を掠めた。
鮫島さんの香り――
それがぎゅっと胸を締め付ける。
それでもあたしはそのまま力を緩めず潤を引っ張った。
あっと思うと、敬太からようやく身体を離せて足元がふらつく。
次の瞬間、潤の声が響いた。
「葵はな! オマエのコト想ってスゲェ辛そうな顔すんだよ!
頼むから、いい加減なことだけはすんなよっ!! 泣かすなよっ!!」
息が、止まった。
何を言って――……
身体中の血が一気に引いた気がした。
冷汗まで滲み出る。
胸元に触れている頬から、潤のドクドクと速い鼓動が聞こえる。
まるであたしにまで打ち付けてくるように、胸が激しく上下するのが伝わってくる。
真上にある潤の顔を見上げた。
潤はただ真っ直ぐに。闇夜の中で燃えるように強い視線で敬太を見据えていた。
敬太は驚いて、目を見開いた。
あたしが敬太のことを好きだと、潤は勘違いしてることを、その言葉で悟ったんだろう。
敬太は何も言わない。
今の今迄勢いのあったのが嘘のように口を噤んだ。
それぞれに温度の違う沈黙が落ちる。
目に見える筈もないのに、身体に纏わりつくようだ。
……どうしよう……
そう思った時だった。
がちゃり、と、勢いよく玄関のドアが開く音が聞こえた。
「アンタたち、こんな時間に何やってんのよ!?」
おばちゃんだった。
あたしは咄嗟に潤から自分の身体を離した。
おばちゃんは、裸足にサンダル、パジャマに薄いカーディガンを引っかけた姿で。
きっと寝ていたのに、騒いでいる声があたし達だと分かって、急いで出てきたんだろう。
考える程もない。とうに0時を回っているのだ。
「あー……ちょっと、な」
敬太が苦笑いを作っておばちゃんに言った。
おばちゃんは眉を吊り上げて敬太を睨む。
「いい年して夜中に大声出してっ! 近所迷惑なの分かるでしょっ!?
早く家に入んなさいっ!」
ぐいっと、敬太の腕を引っ張って家の方へと歩くように促す。
そしてあたし達の方へと向いた。
「葵ちゃんもユウキくんも、ごめんねぇ。
敬太はすぐカッとなるし、口も悪いから。
じゃあね、オヤスミ」
渋い顔をして笑みを作ったおばちゃんに、あたしは慌てて「ごめんなさい」と言った。
いつもだったらおばちゃんに調子も愛想も良い潤は、ただ横で黙っていた。
小突きながら強引に腕を引くおばちゃんに、敬太は仕方無しに付いて歩いて、小さく溜め息を漏らす。
「オイオイ。オレだけが悪者かよ」
「いい年して喧嘩なんてすんじゃないわよっ」
バンっと。小気味良い音を立てて、おばちゃんは敬太の背中を叩いた。
「ってぇ!」と敬太が歩きながら声を漏らす。
開け放たれたままだった敬太の家の門が閉じられて、キィ、と、高い音を響かせた。
そこで潤はようやく全身に籠もっていた力が抜けたようだった。
それなのに、そこから1mmも動かず、ただ敬太の後ろ姿を見つめていた。
さっきから潤は、一度も視線の先の相手が変わっていない。
「ユウキ」
敬太は、家のドアを潜る寸前に振り返った。
「言っとくけど。オレは葵のコト、本気だから。
葵が一番大切だ。そう思ってる」
――えっ
あたしが驚いて声を上げる前に、おばちゃんの裏返った声が響いた。
「えええっ!? ちょ……っ! 敬太っ!?」
おばちゃんはあまりにも驚いて信じられないといった様子で、敬太を見て、あたしの方へと振り返り、もう一度真横の敬太を見上げる。
敬太は、そんな興奮したおばちゃんを玄関の中に押し込み、「じゃあな」と一言残してドアを閉めた。
急に二人きりにされて、静かな夜の住宅街の音が戻る。
どこからともなく聞こえてくる小さな虫の声が、妙に耳に付く。
どうしたらいいのか分からなかった。
身体もそこから動かない。
潤の顔も、怖くて見られない。
潤だけじゃなく、おばちゃんの前でまで、そんな事を言うなんて。
それに……
潤は……何であんな事を敬太に……。
胸が詰まる。
言葉も出ない。
朧げな月明かりが、あたしと潤の影を作り出している。
そこに視線を落としているしか出来ない。
「……葵」
沈黙に包まれた空気を、潤が静かに破った。
ゆっくりと、こちらを向く。
「香織ちゃんとのコトもいい加減なまま、葵に……って、それなら許せないって思った。
アイツはそれにはちゃんと答えなかったけど。でも……」
「じゅ――」
――潤、
違う。本当は。
だけど、名前さえ呼ぶ前に、遮られる。
「良かった、な」
ぽん、と、温かく頭の上に乗せられた掌と一緒に、潤の透明さを持った残酷なその言葉が、あたしに向かって降ってきた。