33

張り詰めた空気の中、自分以外にも聞こえてしまうのではないかと思えるくらい、ドクドクと心臓が大きく音を立てる。

その静寂も雰囲気も破るように、潤は予想外の笑顔を見せた。


「樹さん。オレ、仕事中だから」


鮫島さんは眉も唇も形を歪めた。
詰まったままの言葉。
あたしもただ見つめるだけしか出来なくて。
握った掌は冷たい汗が滲み出ていた。


「……っ! 話があるのよっ!」

「今は無理」

「あたしが……来てって、言ってるのよっ?」

「ソレって、クライアントとして言ってんの?」


淡々と返す潤に、鮫島さんの顔がみるみる朱に染まった。


「潤っ!!」


彼女が言葉を出すよりも先に、あたしの声が自然と上がっていた。


「仕事が終わってからならいいでしょ?」


驚いたような顔で、潤はあたしを見た。
何言ってんの? とでも呆れた声が聞こえてきそうな表情だった。
それに気付いていたけれど、視線を素通りして、あたしはそのまま取り繕うように鮫島さんに笑顔を作る。


「えーっと、潤ってば最近凄く頑張って色々覚えてて。
ロビー以外の花、今日は潤に任せる約束をしてあるんです。
だからそれを楽しみにしてて。終わってからなら――」


まだ言い掛けている最中、彼女は強張ったままの顔であたしを一瞥すると、くるりと背中を向けた。
そしてそのまま後姿と足音が少しずつ遠退いて行く。
ピンと張った背中は美しいままで、つい十数秒前の切羽詰まったような顔つきを感じさせない。
それは彼女のプライドそのままを表しているようだ。

あたしも潤も、鮫島さんが自動ドアを潜るまでただ黙って見つめていた。
ウィンと静かな機械音を立ててドアが閉じられると、潤はこちらを向かないまま言った。


「何だよ、アレ」

「ごめ――……」

「オレに任せる? そんな約束いつしたっけ」

「だって――!」

「葵は! それでいいんだ!?」


あたしの言葉を遮る、叫ぶような声がロビーに響き渡った。
あまりの勢いに、自分の肩がびくりと揺れたのが分かった。
さっきハイタッチしたときの顔とはがらりと変わっていて、あたしは目を見開いたまま思わず息を飲んだ。


「……ゴメン」


ひとつ、溜め息を落とした後、潤は呟くようにそう言った。


違う。そうじゃない。
謝るのは、潤じゃない。

だけど。
あんなふうに女のプライドを壊して欲しくなかった。潤に。
だって、鮫島さんが潤の事をどれだけ好きか知っているから。
彼女があんな風に取り乱すということは、相当な何かがあったのだろう。
どんな想いを込めて言ったか――それが分かるから。

それに、自分をも重ねていた。
利用されてもいいなんて。
心の奥底では、そんなの本当は嫌に決まっている。

彼女の元になんて行って欲しくない。
だけど、あのまま。ただ黙ったまま傍観していることは出来なくて――。


「違う――の……っ」

「いいよ、分かってる」

「潤……っ、あのっ」

「いいから。続き、やろう」

「―――」


言い訳なんて聞きたくない、と。そう言われたかのように言葉を遮られた。
その場に立ち尽くすあたしの前で、潤は屈んで栄紫を手にした。
そしてあたしに差し出す。


「花菖蒲って、一種生けの生花正風体が一般なんだってな。
こういう型破りな葵らしい生け方が、オレは好きだよ」

「………」


何で――潤は――……

あんなに怒った顔を見せたのに。
何ですぐに平気な顔をするの?
何で潤はこんな時まであたしを優先するの?

園長先生が言っていた言葉を思い出す。
今も気持ちを無理に押し込めてるの? 


だけど、あたしがそうさせた……。


唇を結んだまま、潤から栄紫を受け取る。
そして、そのまま脚立に上った。


「仕事終わったら、行ってくる」


脚立の一番上まで上り切ると、背中からその声が聞こえた。


「……う、ん」


あたしは一言答えた。










一人分の食事をテーブルに並べる。
部屋の中に小さくカタリと立つ陶器の硬質な音は、妙に耳に付く。


「いただきます」


誰も見ていないと分かっていながらも、声に出した。
いつもはある筈の、前の席の主からは、笑顔も返事も返ってはこない。
一人だと、どうしてここまで虚しさを覚えるのか。

はぁ、と。小さな溜め息が零れ落ちる。
自分自身に呆れたように。
あまりにも情けなくて。


あの後。
仕事中、必要以外のことは殆ど会話はなかった。
ただもくもくと仕事をして。
花を生ける作業が全部終わると、きちんと片づけまでして。
潤はあたしを置いて、何も言わずに鮫島さんの元へ行った。

つくづく馬鹿だと思う。
好き好んで恋敵のところに自ら行かせるなんて。

そして、鮫島さんにも。潤にも。
気持ちを無視するようなことをしてしまった……。


いつもよりずっと貧弱な食事を見つめる。

帰って来て食事をする気にはとてもなれなくて、すぐにお風呂に入った。
だけど、何も食べなかったなんて言ったら、きっと潤は怒るから。仕方無しに作った簡単なあたしの夕御飯。

だけど一向に手が出ない。
食欲なんか、ない。


もう一度溜め息を吐き出すと、静寂の中、携帯電話の着信音が鳴り出した。


潤?


思わず壁の時計を確認する。
0:12――日付が変わっている。

もしかして。帰れない、とか。そういう電話……?


椅子から立ち上がり、バッグの中の携帯電話に向かう。
その間も、煩いくらいに忙しなく機械的な音が奏でられている。

携帯を取り上げディスプレイを確認すると、安堵の息なのか、思わずまた息が漏れる。
電話の相手は潤ではなく、敬太だ。


「もしもし?」

『遅くにゴメン。
灯りが見えたから。まだ起きてると思って』

「……うん。どうかしたの?」

『………』


数秒黙り込む敬太。
受話器の向こう側から車の走り去る音が聞こえてきて。そしてすぐに音は消えてなくなる。
どうやら外にいるようだ。


『葵』

「ん?」

『話がしたい』

「改まってどうしたの?」

『……うん』

「香織のこと……?」


敬太はまた少し口を噤む。
そしてそのことには答えずに言った。


『いつ、時間ある?』

「今……でも平気、だけど……」


一度ごくりと固唾を飲んだ。


「潤もいないし」


言葉に出したら、胸がぎしりと痛んだ。
今――こうしている間も。潤は鮫島さんと一緒にいる。


また少し会話に間が空くと、敬太が言った。


『実はさ。今、葵んちの前にいるんだ』

「家の前?」

『うん』


敬太の返答を聞いたと同時に、あたしは携帯を耳に当てたまま玄関へと向かった。


「今、開けるよ。待って」


パタパタとあたしの足音が響く間、敬太は黙っていた。
玄関のドアを開けると、厳しい表情をした敬太が携帯を握り締めていた。


「悪りーな。こんな時間に」


目が合うと、耳からそれを外して、パチンと軽快な音を立てながら閉じた。
あたしも同じように携帯を二つ折りに戻す。


「入って?」


ドアに手を添えた敬太に、あたしは一歩下がって中に入るように促した。
敬太は黙ったまま玄関のタイルに足を下ろすと、それに少し遅れて、ドアがバタンと大きな音を響かせて閉まった。
なのに、それ以上敬太は、中に入ろうとはしなかった。


「どうしたの? 入んなよ」

「つーか……オマエ、さー……」

「え?」

「何? その格好。無防備過ぎない?」

「ええっ?」


言われて思わず確認するように自分の姿を見下ろす。
お風呂上りのパジャマ姿。
洗いざらしの湿った髪に、すっぴん。
普通だったら人前には出られない格好だけど……。


「いいじゃん。今更じゃんよ、敬太には」

「あのな。オレ、一応オトコなんだけど」

「オトコ、ね……」


ふふっ、と。笑いが漏れる。
いつもならそこで敬太も調子良く笑う筈なのに。
それなのに、そんな気配は微塵も見せずに、敬太はただあたしを見つめた。

そんないつもとは違う雰囲気に、あたしの笑いもすぐに止まってしまった。


「とにかく、玄関じゃなんだから入れば?」


何となく気まずくて、くるりと背中を向けて上がり框に足を掛けた。


「葵」

「んー?」

「アイツはやめろ」

「えっ……?」


驚いて、家の中に上がらないまま、敬太の方へと振り向く。


「何? またそんなこと……」

「やめろって言ってんの。アイツじゃ、駄目だ」

「なん――」

「思い出したんだ、この間店で見た女。母の日に。
アレ。前に夜、アイツとキスしてた女だ」

「は――?」

「アイツになんか、オマエを任せられる筈ないだろっ?」


敬太の声が頭の中に響き渡って。そしてそれが通り過ぎていく。
耳から入る言葉と頭の回転が、上手いように追いついていかない。


キス……してた、オンナ?


「―――」


言葉が出せなかった。
ううん。出ない。何も。

任せるとか、任せないとか。そんなところになんか到底行きつかないのに。
潤が何人の女の人とそんな関係にあろうが。
ただ、傍にいて。ココにいられることを守りたいって――。それだけの筈なのに。

それなのに。
胸を突かれたように、痛みが走る。


「葵」

「……っ。あたし、は――」


声が、震える。
手も。
どうにかソレを、握り締める。


「葵っ」


生温かいモノが、頬を伝わった。
次の瞬間、その涙の粒を吸い取るように、あたしは敬太の腕の中にいた。
思いがけない敬太の強い力に、あたしはなされるがままだった。


「オマエにそんな顔させたくない」

「………」

「葵のことが、ずっと好きだった」


――え?


言われた言葉に反射して、敬太の胸に伏せられていた顔を上げた。
見上げた筈の顔は、表情が分からないまま覆われて重ねられた。

敬太の――唇が。あたしの唇に。

あまりの急な告白に、キスされたことは分かっていても、すぐに反応することは出来なくて。

頭の中に過った潤の顔。
それが頭の中の残像じゃなく、リアルに変わった。

目の前のドアが急に勢いよく開いて。
そこに潤の姿があった。

敬太の肩越しに見えた、驚愕した表情。
時が止まったような瞳と、あたしの視線が絡む。


「ゴメン」


誰の声でもない、潤の声が鈍く聞こえた。

呟くように言ったその低い声だけ残して、ドアが閉まった。
何秒と言える程でもない、ほんの一瞬。
なのに、それは随分とゆっくりと感じられた。
ドアの音が、耳にこびり付く。潤の残した言葉も。

固まって動けなかった身体に急に力が戻ったように、あたしは敬太の肩を勢いよく押して、身体を振り解いた。


「潤!!」


何かを考える余裕もないまま、あたしは潤を追いかけようとドアに手を掛けた。
だけど前に出した筈の身体は、凄い力で引き戻された。

左手を掴まれていた。
引かれた勢いで、とん、と。敬太の胸に肩がぶつかった。


「行くな!」


敬太のあたしの腕を掴む手に、ぐっと力が込められた。

 update : 2008.09.23