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張り詰めた空気の中、自分以外にも聞こえてしまうのではないかと思えるくらい、ドクドクと心臓が大きく音を立てる。
その静寂も雰囲気も破るように、潤は予想外の笑顔を見せた。
「樹さん。オレ、仕事中だから」
鮫島さんは眉も唇も形を歪めた。
詰まったままの言葉。
あたしもただ見つめるだけしか出来なくて。
握った掌は冷たい汗が滲み出ていた。
「……っ! 話があるのよっ!」
「今は無理」
「あたしが……来てって、言ってるのよっ?」
「ソレって、クライアントとして言ってんの?」
淡々と返す潤に、鮫島さんの顔がみるみる朱に染まった。
「潤っ!!」
彼女が言葉を出すよりも先に、あたしの声が自然と上がっていた。
「仕事が終わってからならいいでしょ?」
驚いたような顔で、潤はあたしを見た。
何言ってんの? とでも呆れた声が聞こえてきそうな表情だった。
それに気付いていたけれど、視線を素通りして、あたしはそのまま取り繕うように鮫島さんに笑顔を作る。
「えーっと、潤ってば最近凄く頑張って色々覚えてて。
ロビー以外の花、今日は潤に任せる約束をしてあるんです。
だからそれを楽しみにしてて。終わってからなら――」
まだ言い掛けている最中、彼女は強張ったままの顔であたしを一瞥すると、くるりと背中を向けた。
そしてそのまま後姿と足音が少しずつ遠退いて行く。
ピンと張った背中は美しいままで、つい十数秒前の切羽詰まったような顔つきを感じさせない。
それは彼女のプライドそのままを表しているようだ。
あたしも潤も、鮫島さんが自動ドアを潜るまでただ黙って見つめていた。
ウィンと静かな機械音を立ててドアが閉じられると、潤はこちらを向かないまま言った。
「何だよ、アレ」
「ごめ――……」
「オレに任せる? そんな約束いつしたっけ」
「だって――!」
「葵は! それでいいんだ!?」
あたしの言葉を遮る、叫ぶような声がロビーに響き渡った。
あまりの勢いに、自分の肩がびくりと揺れたのが分かった。
さっきハイタッチしたときの顔とはがらりと変わっていて、あたしは目を見開いたまま思わず息を飲んだ。
「……ゴメン」
ひとつ、溜め息を落とした後、潤は呟くようにそう言った。
違う。そうじゃない。
謝るのは、潤じゃない。
だけど。
あんなふうに女のプライドを壊して欲しくなかった。潤に。
だって、鮫島さんが潤の事をどれだけ好きか知っているから。
彼女があんな風に取り乱すということは、相当な何かがあったのだろう。
どんな想いを込めて言ったか――それが分かるから。
それに、自分をも重ねていた。
利用されてもいいなんて。
心の奥底では、そんなの本当は嫌に決まっている。
彼女の元になんて行って欲しくない。
だけど、あのまま。ただ黙ったまま傍観していることは出来なくて――。
「違う――の……っ」
「いいよ、分かってる」
「潤……っ、あのっ」
「いいから。続き、やろう」
「―――」
言い訳なんて聞きたくない、と。そう言われたかのように言葉を遮られた。
その場に立ち尽くすあたしの前で、潤は屈んで栄紫を手にした。
そしてあたしに差し出す。
「花菖蒲って、一種生けの生花正風体が一般なんだってな。
こういう型破りな葵らしい生け方が、オレは好きだよ」
「………」
何で――潤は――……
あんなに怒った顔を見せたのに。
何ですぐに平気な顔をするの?
何で潤はこんな時まであたしを優先するの?
園長先生が言っていた言葉を思い出す。
今も気持ちを無理に押し込めてるの?
だけど、あたしがそうさせた……。
唇を結んだまま、潤から栄紫を受け取る。
そして、そのまま脚立に上った。
「仕事終わったら、行ってくる」
脚立の一番上まで上り切ると、背中からその声が聞こえた。
「……う、ん」
あたしは一言答えた。
一人分の食事をテーブルに並べる。
部屋の中に小さくカタリと立つ陶器の硬質な音は、妙に耳に付く。
「いただきます」
誰も見ていないと分かっていながらも、声に出した。
いつもはある筈の、前の席の主からは、笑顔も返事も返ってはこない。
一人だと、どうしてここまで虚しさを覚えるのか。
はぁ、と。小さな溜め息が零れ落ちる。
自分自身に呆れたように。
あまりにも情けなくて。
あの後。
仕事中、必要以外のことは殆ど会話はなかった。
ただもくもくと仕事をして。
花を生ける作業が全部終わると、きちんと片づけまでして。
潤はあたしを置いて、何も言わずに鮫島さんの元へ行った。
つくづく馬鹿だと思う。
好き好んで恋敵のところに自ら行かせるなんて。
そして、鮫島さんにも。潤にも。
気持ちを無視するようなことをしてしまった……。
いつもよりずっと貧弱な食事を見つめる。
帰って来て食事をする気にはとてもなれなくて、すぐにお風呂に入った。
だけど、何も食べなかったなんて言ったら、きっと潤は怒るから。仕方無しに作った簡単なあたしの夕御飯。
だけど一向に手が出ない。
食欲なんか、ない。
もう一度溜め息を吐き出すと、静寂の中、携帯電話の着信音が鳴り出した。
潤?
思わず壁の時計を確認する。
0:12――日付が変わっている。
もしかして。帰れない、とか。そういう電話……?
椅子から立ち上がり、バッグの中の携帯電話に向かう。
その間も、煩いくらいに忙しなく機械的な音が奏でられている。
携帯を取り上げディスプレイを確認すると、安堵の息なのか、思わずまた息が漏れる。
電話の相手は潤ではなく、敬太だ。
「もしもし?」
『遅くにゴメン。
灯りが見えたから。まだ起きてると思って』
「……うん。どうかしたの?」
『………』
数秒黙り込む敬太。
受話器の向こう側から車の走り去る音が聞こえてきて。そしてすぐに音は消えてなくなる。
どうやら外にいるようだ。
『葵』
「ん?」
『話がしたい』
「改まってどうしたの?」
『……うん』
「香織のこと……?」
敬太はまた少し口を噤む。
そしてそのことには答えずに言った。
『いつ、時間ある?』
「今……でも平気、だけど……」
一度ごくりと固唾を飲んだ。
「潤もいないし」
言葉に出したら、胸がぎしりと痛んだ。
今――こうしている間も。潤は鮫島さんと一緒にいる。
また少し会話に間が空くと、敬太が言った。
『実はさ。今、葵んちの前にいるんだ』
「家の前?」
『うん』
敬太の返答を聞いたと同時に、あたしは携帯を耳に当てたまま玄関へと向かった。
「今、開けるよ。待って」
パタパタとあたしの足音が響く間、敬太は黙っていた。
玄関のドアを開けると、厳しい表情をした敬太が携帯を握り締めていた。
「悪りーな。こんな時間に」
目が合うと、耳からそれを外して、パチンと軽快な音を立てながら閉じた。
あたしも同じように携帯を二つ折りに戻す。
「入って?」
ドアに手を添えた敬太に、あたしは一歩下がって中に入るように促した。
敬太は黙ったまま玄関のタイルに足を下ろすと、それに少し遅れて、ドアがバタンと大きな音を響かせて閉まった。
なのに、それ以上敬太は、中に入ろうとはしなかった。
「どうしたの? 入んなよ」
「つーか……オマエ、さー……」
「え?」
「何? その格好。無防備過ぎない?」
「ええっ?」
言われて思わず確認するように自分の姿を見下ろす。
お風呂上りのパジャマ姿。
洗いざらしの湿った髪に、すっぴん。
普通だったら人前には出られない格好だけど……。
「いいじゃん。今更じゃんよ、敬太には」
「あのな。オレ、一応オトコなんだけど」
「オトコ、ね……」
ふふっ、と。笑いが漏れる。
いつもならそこで敬太も調子良く笑う筈なのに。
それなのに、そんな気配は微塵も見せずに、敬太はただあたしを見つめた。
そんないつもとは違う雰囲気に、あたしの笑いもすぐに止まってしまった。
「とにかく、玄関じゃなんだから入れば?」
何となく気まずくて、くるりと背中を向けて上がり框に足を掛けた。
「葵」
「んー?」
「アイツはやめろ」
「えっ……?」
驚いて、家の中に上がらないまま、敬太の方へと振り向く。
「何? またそんなこと……」
「やめろって言ってんの。アイツじゃ、駄目だ」
「なん――」
「思い出したんだ、この間店で見た女。母の日に。
アレ。前に夜、アイツとキスしてた女だ」
「は――?」
「アイツになんか、オマエを任せられる筈ないだろっ?」
敬太の声が頭の中に響き渡って。そしてそれが通り過ぎていく。
耳から入る言葉と頭の回転が、上手いように追いついていかない。
キス……してた、オンナ?
「―――」
言葉が出せなかった。
ううん。出ない。何も。
任せるとか、任せないとか。そんなところになんか到底行きつかないのに。
潤が何人の女の人とそんな関係にあろうが。
ただ、傍にいて。ココにいられることを守りたいって――。それだけの筈なのに。
それなのに。
胸を突かれたように、痛みが走る。
「葵」
「……っ。あたし、は――」
声が、震える。
手も。
どうにかソレを、握り締める。
「葵っ」
生温かいモノが、頬を伝わった。
次の瞬間、その涙の粒を吸い取るように、あたしは敬太の腕の中にいた。
思いがけない敬太の強い力に、あたしはなされるがままだった。
「オマエにそんな顔させたくない」
「………」
「葵のことが、ずっと好きだった」
――え?
言われた言葉に反射して、敬太の胸に伏せられていた顔を上げた。
見上げた筈の顔は、表情が分からないまま覆われて重ねられた。
敬太の――唇が。あたしの唇に。
あまりの急な告白に、キスされたことは分かっていても、すぐに反応することは出来なくて。
頭の中に過った潤の顔。
それが頭の中の残像じゃなく、リアルに変わった。
目の前のドアが急に勢いよく開いて。
そこに潤の姿があった。
敬太の肩越しに見えた、驚愕した表情。
時が止まったような瞳と、あたしの視線が絡む。
「ゴメン」
誰の声でもない、潤の声が鈍く聞こえた。
呟くように言ったその低い声だけ残して、ドアが閉まった。
何秒と言える程でもない、ほんの一瞬。
なのに、それは随分とゆっくりと感じられた。
ドアの音が、耳にこびり付く。潤の残した言葉も。
固まって動けなかった身体に急に力が戻ったように、あたしは敬太の肩を勢いよく押して、身体を振り解いた。
「潤!!」
何かを考える余裕もないまま、あたしは潤を追いかけようとドアに手を掛けた。
だけど前に出した筈の身体は、凄い力で引き戻された。
左手を掴まれていた。
引かれた勢いで、とん、と。敬太の胸に肩がぶつかった。
「行くな!」
敬太のあたしの腕を掴む手に、ぐっと力が込められた。