32
5月は、一番花の多い季節とも言われる。
初夏の気候を感じられる温かさや太陽の光の強さは、4月に増して蕾や若葉を生み出すのかもしれない。
花菖蒲は、紫陽花よりも一足先に咲き始める。
日本で江戸時代から改良され続け、古くより伝わる品種から新しい品種まで、2000種が存在すると言われる多くの種類を持つ花だ。
花の名は、交配した人が付けるというが、ひとつひとつが和を象徴するような美しい名前を持つ。
「すっごいよな。こんなの初めて見るよ。
コレ。えーと。虹の羽衣だっけ?」
潤は、脚立の上にいるあたしに、下からその花を手渡しながら言った。
就業時間をとうに過ぎたライフスターのロビーは、照明もほぼ落とされ、薄暗い。
白っぽい花弁をフリルのように薄紫色で縁取り、何枚も重ね合わされた八重咲きのこの花は、そんな中でほんのりと淡い色を浮き立たせる。
「あたしも、こんなに花菖蒲って種類がある花って知らなくて。
色々調べてみるとねー、初めて目にするような花形もホントに沢山あってどれも個性的なの。
名前も凄く綺麗なんだよね。淡雪桜とか、紫雲の峯とか、夜光の珠とか。満月の恋なんてのもあったな」
「あー、オレも知ってるやつあるよ」
「何?」
「葵の上。
スタンダードでシンプルな感じがやっぱいいんだよな。飽きなくて。
さすが、名前の通りだけあるよなぁ」
………。
ホント。
コレって計算?
言われて嬉しいだろとか、思ってるんでしょ? コイツってば。
や。葵の上はあたしとは全く違うけどさ……。美しくて教養も品もある、光源氏の正妻としては申し分ない女性。
花もその名に相応しい。薄紫に紅脈、上品な鉾紅紫の三英。目は鮮やかな黄色で、花弁は垂れずに優雅に広がる美しい花姿。
下からあたしを見上げてニッと悪戯っぽく笑う潤。
やっぱり反応楽しんでるでしょ……?
顔、赤くないよね……?
「そういや、最初に名前訊いた時は葵御前って言ってたよな」
「もー……いーよ」
やっぱ、楽しんでる……。
楽しそうにニヤニヤと笑う潤を見下ろすように軽く睨んでから、花器に正対し直す。
邪念を取り払って、持っていた虹の羽衣を花器へと挿した。
だけど。
こんな風に普通がいい。
冗談も。意地悪も。出来るような潤との関係がいい。
あたしがこうやって拗ねたり出来るのも、お互いに自然でいられるから。だから。
あの日から、あたしの不安は増している。
いつ事務所に連れ戻されるのか、と。そんな不安が。
でも、この数日は何もなく過ごした。
仕事も順調で。ただ、平穏でいつも通りの、普通の日々。
こんな普通が一番なんだ。
それが幸せだと、痛感させられる。
「次は?」
受け取った花を挿し終わったあたしを、潤は下から覗き込んだ。
声を掛けるタイミングも分かっていて、潤は本当に良いアシスタントだ。
「栄紫、取って」
「あー。コレが一番一般的な花菖蒲ってイメージに近いよな」
「そうだね。あたしもそう思う」
江戸種の栄紫は、濃く鮮麗な紫色を持つ、花形が整った三英花。
それをまた潤から受け取ると、向こう側からポーンとエレベーターが到着した音が聞こえてきた。
受け取って振り向いたついでにそちらを向くと、女性と男性の二人が降りてこちらに向かって来る。
恋人同士だな、という雰囲気の二人のうち、女性の方は見た事のある人だった。
確か……カーネーションを生けた時に、花が変わるのを楽しみにしてる、見ると元気になる、と言ってくれた女の子。
あたし達に気が付くと、顔がパッと明るくなって、こちらに小走りで寄ってきた。
「こんばんは!」
「こんばんは。遅くまでお仕事大変ですね」
「いえ、今日は残業じゃなくって。
受け付けで今日いらっしゃるって聞いて待ってたんです」
「待ってた?」
「実はお願いがあって」
そう言う彼女は彼と顔を見合わせてから、あたしに笑みを見せた。
お願いって……?
彼女の隣に立つ潤をちらりと見ると、やはり不思議そうな顔をしている。
あたしは良く理解も出来ないまま、とりあえず脚立から降りた。
床に足が着くと、彼女と彼はぺこりと頭を下げた。
「すみません、仕事中なのに」
「いえ。どうしたんですか?」
「実はですね……」と、彼女は少し恥ずかしそうにはにかむ。
「その……彼と結婚する事になったんですけど……」
「えっ……?
そうなんですかっ? おめでとうございます!」
潤と一緒に声を上げると、二人は「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑む。
「それが恥ずかしながら、出来ちゃった結婚で。
つわりがほとんどなかったせいで、分かったのが先週なんです。
今、もう4か月なんです」
彼女は愛しむような顔でお腹に手を当ててさすった。
「わぁ、4か月ですか……。楽しみですね」
脇のたっぷりとしたワンピースを着ているせいもあるかもしれないけど、言われないと分からない程目立たない。
この掌の下に、新しい小さな命が芽生えているなんて何だか不思議で。
そして温かい気持ちになる。
「それでですね、どうしてもドレスは着たいんで、急いで空いてる式場を探したんですけど、この時期って特に一杯でどこも空いてなくて。
そしたら、友人のレストランを貸し切りにしてくれるって言ってくれて。
庭のある広いレストランなんですけど、今までにそういうのはやった事がないんです。
で、今回わたし達の為にやってくれるのに、色々調べてくれてるみたいなんですけど、色んな事に関してツテもなくて。
それで……わたしも彼も、あなたの生ける花が凄く好きだから……お花のプロデュースを……お任せできないかなぁって」
「えっ……」
潤と同時に同じ声が上がった。
示し合わせたように顔を見合わせる。
潤も相当驚いているようで――
だけど。
その顔が満面の笑みに変わった。
もう一度、彼女の方へと顔の向きを変えると、急にがっちりと両手を握られた。
「来月の29日なんです。凄く急で申し訳ないんですけど!
わたし、ドレスとブーケは絶対にこだわりたくて。
どうしても、あなたのお花がいいって思ったんです!
あのっ、お願いします!!」
その言葉と一緒に、勢いよく目の前の頭が下がった。
そんな事をしてくれなくても、返事なんて決まってる。
逆にこっちが頭を下げなきゃいけないのに。
「すっごく嬉しいです!
こちらこそよろしくお願いします!」
あたしと潤が頭を下げると、二人の顔はぱあっと明るくなってお互いに見合わせ、そしてまたにっこりと笑い合う。
背の違うそんなふたりの姿が、何だか可愛くてお似合いで。
凄く羨ましいのと同時に、こっちまで幸せな気分になる。
この二人の記念に残る花を。
幸せの階段を上り始める――スタートラインのお手伝いをしたい。
そんな風に思う。
「引き受けて下さってありがとうございます!
お仕事中、邪魔しちゃって本当にすみませんっ。
連絡貰えますか? 夜遅くて大丈夫なんで。わたしも昼間は仕事もあるし」
「よろしくお願いします」
そう言いながら彼女と彼は、あたしと潤に名刺を差し出した。
鈴原 真人(すずはら まこと)さんと、
深谷 亜美(ふかや あみ)さん……。
鈴原 亜美さんになるのか。うん、素敵……。
それより!
考えてみたらあたしも潤も店のさえ名刺なんてないし……。
ヤバいな。作らなきゃ!
「すいません、名刺頂いたのに、私の方はなくて……。
pure greenの穂積 葵と言います。こっちはスタッフの結城です」
「穂積……アオイさん。アオイってどんな字ですか?」
「ええっと……」
いつもなら『葵御前』って言うところ。
何か、さっきのことがあって言いにくいじゃん!
「この葵の紋どころが目に入らぬかーって。あの葵の字です!」
思わず口を割った言葉に、潤は横でぶーっと吹き出した。
鈴原さんと深谷さんも、一瞬呆気に取られた後、すぐにくすくすと笑い出す。
は、恥ずかしい……。
もーっ!!
誰のせいだと思ってんのよっ!
隣で口元を覆い、笑いを一生懸命抑えている潤を睨んだ。
だけど文句は口に出さず、箱の中からメモ帳とペンを取り出し、紙に店名と住所と電話番号、それに自分の名前を書いた。
本当は、一緒に潤の名前も並べて書きたい。
一緒にやっている――そういう気持ちが強いから。
潤がいなかったら今のあたしはないから。
だけど、芸名と近いことから、少しでも接点を外したくて。
仕方なくペンの動きを止めた。
そしてそれを両手で差し出した。
「名刺がなくてすみません。こちらからご連絡します。
後日、じっくり打ち合わせをして、イメージに合う花にしましょうね!」
「スゲエなー」
二人がいなくなったロビーは、またシンとして、潤の声が響いた。
静まり返った中のその声は、余計にあたしの中に沁み入る感じがする。
「うん。ホント、どうしよう……。興奮してドキドキするよ」
そう言ったあたしに、潤はニッと笑って、両方の掌を大きく開いて突き出す。
「葵!」
……ああ!
あたしはそこに向かって掌を合わせた。
「yes!」
パチン、と。
ロビーに気持ちの良い音と二つの声が反響する。
うん! 爽快っ!
お互いにくしゃくしゃの顔をして笑い合う。
「レストランウエディングの花のプロデュースって、何か楽しそうだな」
「うん! ホント!
そういう仕事が出来るの、すっごく嬉しい!」
「オレも! スゲー嬉しい!」
優しい、笑顔――。
身体の奥が、じんとする。温かいモノが、膨らむ。
二人で貰った仕事。
1か月後―― 一緒に、やりたい。
潤と。
出来るかな?
その時、潤は、まだここにいる――?
「潤っ!!」
叫ぶような甲高い声が高揚した空気を急に裂いて、それと同時に早足で力の籠もったヒールの音が近づく。
すぐに振り返ると、形相を変えた鮫島さんがいた。
いつもの。余裕を感じさせる様子は微塵もない彼女が、そこに。
あまりの違いに、あたしは一瞬躊躇して挨拶の声さえ出せなかった。
そんなあたしとは違って潤は何も感じないのか、それとも慣れているのか、変わらない様子で笑顔を見せた。
「樹さん、こんばんは」
目の前に現れた鮫島さんに、潤はそう言って頭を下げた。
あたしも急いでそれに倣う。
「こんばんは。お疲れ様です」
顔を上げると、鮫島さんは黙ったまま唇をきゅっと引き結び、鋭くあたしを見つめた。
そうかと思うと、すぐに肩に掛けているバッグを開いた。
「コレ」
バッグから取り出したソレを、潤の掌に握らせる。
「先に行って、待ってて」
鮫島さんの言葉に、潤が掌を開いた。
――鍵?
どきりとして、潤の掌の上から瞬時に鮫島さんへと視線を移す。
だって、それは家の鍵だ。
見てすぐに分かる。
先に行って、って……それは家に何度も行ってるってことだよね……?
考えただけで、身体中の血が沸いた。
その上、あたしの目の前で。
今、部屋に行け、と――。
まるで冷めたような口調だったのに。
感情が透けて見えるほど、女を強く持った瞳で彼女は潤を捉えていた。