31
フロアーにあるデイルームにも、廊下のソファーにも二人の姿はない。
そこを確認して通り過ぎてから、廊下になんかいたら鉢会わせしていた筈だと思う。
焦りからか――上手く頭が働いていないらしい。
もし、今、あの人と会ったりしたら――
きっとそのまま潤は連れて行かれて……。
話も出来ないまま。潤から真実を訊けないまま、二度と会えなくなるかもしれない。
――そんな恐怖があって。
駄目……!
だからこそ落ち着かなきゃ。
本人の意思で戻るならいいけど。
そうじゃないのなら、連れて行かせるわけにはいかないんだから。
一度足を止め、拳を作ってそれをぎゅっと握り、深く息を吸い込む。
ゆっくりと息を吐き出して、頭を巡らせる。
二人で――話し合うとしたら何処?
あたしは家が近いから院内のある程度は知っているけど、潤や彰くんにとっては何度も来ている病院じゃない。院内のことなんて、あまり知らない筈。
院内だと人もいるし、声が響くから……きっと外だよね……。雨もそんなに降っていないし。
外に出たとしたら何処だろう……?
病室から近いのは、入院病棟の正面玄関……
夜間受け入れの出入り口に駐車場……
あとは、東棟と南棟を繋ぐ渡り廊下に、中庭……
院内は走ったらいけないと分かっていながらも、足を運ぶペースは速まっていく。
エレベーターを待つ心の余裕さえなくて、人気のない階段を二段跳びで降りる。
心臓を打ち付ける音と速まる足音が重なり、身体中に響いて余計に緊張感は高まり気が逸る。
何処にいる……?
彼らが――潤が園長の所に来ていないからと、すぐに病室を後にして、それで鉢会ってしまったら元の子もない。
正面玄関をぐるりと見回した後、廊下に戻り、夜間入り口へと向かう。
そこから外に出てそのまま駐車場へ。
でも、そこにもあたしの探している姿は、ない。
外なら走れるからと、そのまま病棟の周りを回って中庭へと向かう。
細かい雨が顔に当たり、目を細めながら走る。
――いた!
中庭の池の前のベンチ。そこに座ることなく立ったままでいる潤と彰くんの姿が見えた。
ホッとしたのと同時に、足の速度を緩める。
「……けんなよ」
低く強い口調の彰くんの声が耳に入って、ドキリとした。
思わず、名前を呼ぼうと出しかけた声も引っ込み、足も止まってしまった。
語尾しか聞こえなかったのに。
――『ふざけんなよ』
そう言っていたのが分かる、怒気を含んだ声。
「オマエのそーゆー態度で、傷付く人間がどれだけいると思ってんの?
簡単にそんなコト、口にすんじゃねーよ」
「簡単なんかじゃない!」
鋭く睨み上げながら、彰くんの言葉に引けを取らない口調の強さで潤が言った。
お互いに激高した瞳が弾き合い、重い沈黙が流れる。
今にも音を立てて衝突しそうな雰囲気に気圧されて、あたしは声が掛けられず、ただその場で息を詰めるしかなかった。
十数秒、激しく絡んでいた視線。それが彰くんによって、ふっと緩められた。
「矢沢カンナから、連絡あった」
彰くんがぽつりと言うと、潤の表情も変わった。
あたしの動悸も、いっぺんに速まる。
「カンナ……?
何で彰んトコに――?」
「こっちが訊きてーよ。
オレにとっちゃ大した知り合いでもないのに、わざわざコンタクトとってくるなんてさ。
その理由、自分でもちゃんと考えてみれば?
それに。オレとオマエが施設で一緒だったって、あのコが知ってるのって何でだよ?」
「―――」
「施設出身って事、事務所以外には秘密の筈だよな?」
「―――」
「何? だんまり?
話したってワケ? 矢沢カンナに。
オマエら、そーゆー関係?」
そういう……
潤は黙ったままだった。
唇の形が、歪んだのが見えた。
「ふーん……。
で。今のまんま、中途半端でずっとおねーさんトコにいるつもりなのかよ?
一体いつまでいるワケ?」
「オレは――」
潤は言い掛けて、そこで言葉を詰まらせた。
彰くんはそれを見て、分かっているような顔つきで唇の端を上げた。
「昔っから変わんないのな。ヒモみたいな生活。
施設にいた時は――色んな女のトコを泊まり歩いてたもんな、帰りたくなくて」
「―――」
「で。今度はあのおねーさん? 上手く利用して身を隠してるつもり?
笑っちゃうよな、ホント。オマエが花屋?
店手伝ってご機嫌取って、って……。
あー……店だけじゃないか、ご機嫌取り。そーゆーの得意だしなぁオマエ」
「オイッ!!」
潤は怒声と共に、彰くんの胸ぐらを掴んだ。
彰くんは、その事も当然想定していたのか、それともわざと挑発して仕向けたのか。
そんな潤の態度にさえ楽しそうに唇の端を上げた。
「本当のコトだろ?」
「葵はそんなんじゃねぇ! そーゆー目で見んじゃねーよ!
アイツにはちゃんと好きな人がいて――
そーゆー気持ちがないから、オレだっていられんだよ!」
雨の中、潤の声が通った。
その言葉が、鋭く胸を刺す。
ぐっと息を呑み、唇を引き結んだ。
――分かってる。
そんな気持ちがないのなんて。分かってるのに。
それに、あたしが馬鹿にされたようなこと言われて、こんなに怒るなんて。
それだけでも十分じゃん。十分、大切に思われてるじゃん。
それでも――
胸は握り潰されたように、痛い。苦しい。
彰くんは、鼻を鳴らして笑った。
「ふぅん?
オマエっていつもはポーカーフェイスのクセに、こーゆー時は分かりやすいよな。
全く、笑っちまうな」
彰くんはそう言いながら、胸ぐらを掴んでいる潤の手首を取り、ゆっくりと外す。
潤の腕を掴んだまま、顔を傾けて覗き込むように近づける。
「でも、今は昔と状況が違うだろ。
ソレ、あのおねーさんにどれだけ迷惑掛けるか知ってる?」
「―――」
「その事も覚悟の上っつーか?
それともおねーさんに何があろうがどうでもいいって?」
潤は押し黙った。
「答えらんないの?」
彰くんは、わざとまた挑発するように言う。
だけど――あたしはそんな風に思っていない。
どうでもいいなんて、潤が思ってる筈がない。
それに、あたしに迷惑が掛かるなんて本気で思って出て行ってしまう方が、よっぽど嫌だ――!
「潤! 彰くん!」
如何にもたった今この場に来たように、ほんの少し笑みを浮かべて大きな声で呼んだ。
潤が答えられないのは、自分を責めているから。
彰くんが言っている事は、潤にとって半分は的を射ていて。
そうなって欲しくないから。あたしに迷惑を掛けたくないから。
だからだって、今なら分かる。
それに、いつまでも二人の話を盗み聞きするような真似もしたくない。
二人とも、あたしの声に即座に振り向いた。
噂の当人が急に目の前に現れたせいか、驚いた顔を見せる。
あたしは何でもないように、極普通の態度で二人の前に歩み出た。
「ゴメンね、話の途中にー。
二人とも雨の中こんなトコにいるから探しちゃったよ。
あー、もう、濡れてんじゃん!」
「あー、うん……」
「潤、帰ろう」
「え……何で――……」
「何だかね、昔の大事なお友達がいらっしゃって。
だからおいとましてきちゃった。気を遣わせちゃったら悪いし」
こんな風にスラスラと嘘が口をつく事に自分自身驚きながら、更にまた笑顔を作った。
「また、日を改めてゆっくり来ようよ。ね?」
「ハイ」と。行くのを促すように、閉じられている傘を潤に手渡す。
傘も差さずにいた潤は、しっとりと髪は水分を含み、霧のような小さな雨粒を無数に乗せている。
「彰くんは、傘は? 持ってきてないの?」
「………。
オレ、今日は車だから。家まで送ろーか?」
さっきまでの嫌味な様子は全くない調子で彰くんは言った。
そんな態度に、ほんの少し戸惑ったけれど、それを感じさせないようにまた笑顔を作る。
「近いから大丈夫。ありがとう」
「葵、行こ」
返事をしている途中にも、潤はさっと傘を差し、背を向けて歩き出した。
あたしも慌てて彰くんに「じゃあ、また」とだけ言って軽く頭を下げ、潤の後を追った。
ひたひたと、アスファルトに薄く張った水の膜が音を立てる。
すこぶる――機嫌は悪いらしい。
背中が。身体に纏う空気が。そう言っている。
あんな事を言われたら当然だろうけど。
ただ、あたしが二人の話を聞いていた事に気付いていないような態度で、それについてはホッとした。
追いついた背中。それに気付いたように、潤は歩く速度を緩める。
横に並ぶと、潤は一言だけ言った。
「ごめんな」
真っ直ぐ前を向いたままだった。
こういう時。
潤はいつも一言こうやって謝るな、と思う。
何が、とか言わず。
ただ一言、そう言うだけ。
「ううん。また、一緒に連れてきて」
「――ん」
潤はそう答えると、それっきり口を噤んだ。
それ以上何も喋らず何かを考え込んだ様子の潤に、あたしは危惧の念を抱いた。
すぐにいなくなってしまうような気がして。
今。隣にいるのに。
……怖かった。
それでも。
たとえ一緒にいられる時間があと少しだとしても。
潤がココにいたいと望んでいるのだから。
帰る、と。潤本人が言うまでは――
あたしがそれを守りたい。
守ろう、と。
そう強く思った。