30

また、冷たい雨が細く降っていた。

一番心地の良い陽気を持つ季節の筈なのに、既に梅雨入りでもしたのかと思える程、今年の5月は雨が多い。

雨の日特有の湿気を含む空気も、薄暗い空の色も、アスファルトの水を弾く足音も。
重たげに纏って、あたしの緊張感をより高めさせる。



「何か、顔、怖いんだけど」


病院のロビーの自動ドアが開いて、そこに足を踏み入れると、潤は眉を顰めながら隣のあたしを覗き込むように見た。


「怖いとか言うかな。
ただ緊張してるだけだもん!」


鉄筋造りの広いロビーは、診察外の時間のせいもあって人が少なく、思わず出た大きな声にエコーがかかる。


「緊張するほどのコト?」

「……別にっ」


ぶすくれて、ふん、と。顔を逸らした。


紹介する――って。
きっと、ただ、『今、お世話になってる人』――そのくらいのものなんだろうけど。
それでも、潤を小さな時から知っている人で。
親代わりとは言わなくても、それに近い特別な存在なんだろうし。
緊張くらい、するよ。そんな風に感じちゃうのっておかしいかな……?


「もっと、緊張させてやろうか?」

「は?」


言われた意味が分からず、逸らしたばかりの顔を結局すぐに戻して見上げる。
それと同時に――手を取られた。

潤の顔から瞬時に、繋がれた手に視線を移し変える。


「ちょ……っ、なん――」

「彼女の振りして」

「はあっ!?」


あたしが言い掛けたのを遮った潤の言葉に、また驚いて再度潤の顔を見る。
訳が分からないまま見つめた顔は、ニッと、悪戯っぽく笑う。


「今から、葵はオレの彼女―」

「な、何っ!?」


大きく心臓が跳ねて、顔は血が上って火を噴いたように熱い。

多分――真っ赤で、間抜けな顔してる。
鏡を見なくても、分かる。絶対そう。


どういうこと? と、訊き返す間もなく、潤が言った。


「園長、安心させてやりたいんだ」

「安心……?」

「もう、長くはないんだ」

「えっ……」

「オレ――ずっとフラフラしてたから、心配掛けてばっかで。
最後くらい、安心させたいんだ。
こんなこと頼めるの、葵だけだから」


葵だけ……


ズキリと、胸が痛んだ。


それって……
頼めるのは、って……
それは、矢沢カンナは――仕事が忙しくて来られないから?
それとも……


「あたしだけって……。
だって、いいの? 本当に好きな人じゃなくて」


あたしのその言葉に、潤の表情が硬く変わった。


何でそんな顔するのよ……。


口を噤んだまま前を向く潤を見上げ、もう一度訊く。


「嘘吐いて、いいの……?」


自分でそう訊きながら、また胸が痛む。


「頼めるのは葵しかいない、って言ってんじゃん」

「―――」


それは――嘘吐いてもいい、って、こと?


物凄く。複雑な気分……。


振りでも、潤にとって大事な人に、彼女として紹介されるのは嬉しいけど。

それは。
嘘に、しか。ならない。


前を向き直し、繋がれた手に力を込めた。


「――うん」







病室は、東棟の三階。
迷いなく進む潤に手を引かれたまま、エレベーターを降りてナースステーションを過ぎた二つ目の病室の前で、「ココ」と、足が止められる。
入り口の横には、六つ中五つの名前が入っているプレートがあり、六名用の部屋だと分かった。
ドアが開いたままになっている部屋の入り口を潜ると、入院患者は皆ベッドのカーテンを閉めずに横になって寛いでいた。面会時間になったばかりのせいか、あたし達以外には、まだ面会者はいないようだ。
「こんにちは」と二人で軽く頭を下げながら、一番奥の窓側のベッドへと近づく。


「ちっす」


潤が声を掛けると、その人物は横にしていた身体をハッとしたように起こした。


「潤……。
来るなと言っただろ……」


怪訝な顔で潤を見た後、隣にいるあたしに視線は移り、目が合った。

白髪交じりの薄いグレーの髪に、面長な顔のラインは頬がこけていて、顔色も良いとは言えない。
だけど、細めの目は目尻が下がっていて優しそうで、落ち着いた雰囲気だ。


この人が、園長……。
潤を昔から知っている人……。


繋がれていた潤の手をするりと離し、あたしは緊張しながらも頭を下げた。


「初めまして。穂積葵です」


顔を上げると、目の前の顔は、驚いたように目を丸くする。


「あなたが葵さん……」


あれ? あたしの事、知ってるの?


「はい」

「愛清園という養護施設の施設長の、牧野修造(まきのしゅうぞう)です」

「はい、伺ってます」

「私も潤からあなたのことは、よく伺ってますよ」


柔らかく微笑みながらそう言われて、ドキリとする。


潤ってば、説明してたんだ……。
よく、って。何て言ったんだろ……?
彼女の振りして、って言ってるんだから、彼女だって前もって言ってたわけ?
いつ?
だって、その前に病院に行ったのって――手術の日じゃ……?


横にいる潤を見上げる。
だけど、そんなのは気にしていないのか気付いていないのか。
あたしの方を見る事なく、持っていた花のアレンジメントを「ハイ」と、園長の前へぶっきらぼうに突き出した。


「コレ。オレが作ったんだ」


――そう。お見舞いの花のアレンジメントは、来る前に潤が作った。
アドバイスはしたけれど、籠も花も、全て潤が選んだ。
レモンエクレアという品種の小振りなヒマワリに、紫陽花、バラ、アンスリュームにクレマチス。イエローにオレンジ、グリーン、ホワイト。絶妙な色のバランスでセンス良く作られている。


園長は、さっきあたしを見て驚いた時のように、また目を丸くする。


「潤が?」

「そう。結構上手いだろ?」

「……ああ、驚いた。そうか……」


園長はそう言いながら、受け取ったアレンジメントを抱き締めるようにして、嬉しそうに微笑んだ。


「有難う。凄く嬉しいよ」


子供の成長を喜ぶ親――そんな顔つきだ。
潤も褒められた事に嬉しさを隠せないような笑顔を見せた。


「今日、まだ幸子さん来てないの?」


潤は園長にそう言うと、すぐにあたしに「あ、幸子さんて、奥さんのことな」と、付け加えて説明を入れる。


「ああ、何だかやっぱり体調が優れないみたいで。
もしかしたら今日は来ないかもしれない」

「そっか……」

「潤は気にしなくていい。
園には人もいるんだ。何かあったらすぐに連絡もくる筈だし」

「分かってる……」

「それより、潤がこんな風に女性を連れてきてくれるようになるとはな。
葵さん、あなたが初めてですよ。是非、お会いしたかった」


えっ……初めて?


驚いてまた潤を見る。


「あんまり余計なこと言うなっつーの」


潤は気恥かしそうな顔をして、拗ねたように言った。


嘘……。何か、顔、赤くない……?


いつもはあまり表情を崩さない潤。
こんな風に照れたような顔、初めて見たかも……。

演技、には到底見えない。

彼女の振りしてって……
だって……まさか……



「何だよ、驚いた。潤、お姉さん連れて来たワケ?」


急に入り込んだ聞き覚えのある声に、皆、一斉に振り向いた。

そこには彰くんが立っていて、柔らかかった空気は一転して緊迫感があるものに変わった。
彼は意味を含んだように、唇の端を上げてニヤリと笑った。


「コンチハ。
どう? 園長、調子は?」

「彰……来てくれたのか。
まぁまぁだよ……」

「んー、ならいいよ。
つか。何? 潤、園長にお姉さん会わせるなんて、どーゆーコト?」


彰くんは嫌みのある笑みを帯びた口元でそう言った。

潤はただ彰くんの方を睨みつける。

一気にまた緊張感が高まって、空気がピリピリとする。
あたしはどうしていいのか分からずにいると、その空気を和らげるように園長が言った。


「潤が彼女を紹介したいって、連れて来たんだよ」

「彼女?」

「ああ。話に訊いていた通りのイメージの人で。
潤にこんな素敵な人が出来たのかと、安心したところだよ」


笑顔でそう言う園長の言葉に、彰くんは一度顔を歪めてから、クッと笑みを漏らす。


「笑っちゃうな。彼女?
潤のコト何も知らないのに?
マジで呆れるよ」

「オイ!」


制するように潤が声を上げると、彰くんは両手を上げてわざと大げさなジェスチャーをして見せる。


「怖っえー顔」

「―――」

「大体、オマエ、こんなことやってる場合じゃないんじゃん?」

「彰!」


潤の手が拳を作ったのを見て、手が出るんじゃないかと心配した矢先、今度は園長の声がそれを抑えた。

その声に何事かと、同室の患者達の視線が一瞬集まる。

彰くんは、「ハイハイ」と、苦笑いをした。


「ま、確かにココじゃなんだし。
ちょっと、オマエと話したいと思ってたんだ。来いよ」


彰くんは親指を立てて入り口の方を指し、潤が返事もしないうちに、当然のごとく歩き出す。

潤はその後ろ姿を見つめながら小さく息を漏らす。


「葵、ちょっとゴメン」

「う、ん……」


すぐに彰くんの後を追う。
そんな潤の背中を、あたしは心配で見つめた。


「すみませんね、葵さん。
驚いたでしょう?」


後ろから掛けられた声にベッドの方へと振り向くと、園長はこんなことには慣れたような――そんな表情をしていた。


「あ……いえ……」

「彰は――ちょっと色々あってね、潤の事を良くは思ってないんですが……。
悪い奴じゃないんですよ。昔は潤とも凄く仲が良かったんです」

「仲が良かった……んですか?」

「彰と潤の環境はね、ほぼ同じなんです。
彰も、赤んぼうの時に両親を事故で亡くしまして。
乳児園からうちに来たのは2歳の時で……。
それからずっと、二人は一緒に育ってきたんです」


赤ちゃんの時に事故――……
彰くんも……


「養護施設には、色んな子供たちがいます。
潤や彰のように災害や事故で両親を亡くしただけでなく、両親の離婚や病気で養育が困難になった子……。最近では、虐待や育児放棄等の不適切な養育によって施設入所してくる子も多いんですよ」

「………」

「だからね、本当の親がどちらかでもいる、というケースが多いんです。
あの二人がいたころ、両親共に死別したのは、彰と潤以外に二人でした。
年も同じで、同じ環境にいる二人は、愛情に飢えた気持ちも同じで。二人でいるのは自然だったんです」


園長はそこで一度言葉を区切るように、少し視線を落とした。


「ただ、育った環境が同じでも、性格は全く違う。目指すものも欲しいものも違った。
彰が目指したものを、潤は簡単に手に入れてしまった」

「……えっ」

「でも、潤は、意図してそれを手に入れたわけじゃないんです。
本当は……彼自身は、それを望んでいなかった」


望んでない――?
それは……俳優にはなりたくなかったってこと……?
じゃあ、何で――?


「何で、って、顔、してますね」


園長はあたしを見て、ふっと笑う。
だけどそれはまたすぐに真剣なものに変わった。


「結局、したくもない事を彼にさせてしまったのは――私なんですよ」

「えっ?」

「当時、色々あって……金銭面から、施設閉鎖まで考えなくてはならなかったんです。
それを、潤の契約金で助けられたんです」

「契約金……ですか……?」

「あなたには、きちんとまだ話していない事も聞いています。話さないで欲しいとも」

「あの……っ!」

「これ以上、今は詳しくは言えません。
だけど、あなたに知っておいて貰いたかった」

「―――」

「今の潤は、凄く幸せそうです。
昔は、全部自分の気持ちを抑え込んで、殻に閉じ込めて。
本心を、感情を、表に出さずにいた。
そんな潤が、あなたの傍なら自然でいられるんです。
初めて、自分でやりたいと思った事を見つけられた。
出来る事ならずっと、花屋を――あなたと続けさせてやりたい」


園長は、真摯で。それでいて苦しそうな顔でそう言った。

形のない何かが喉元で膨らんで、あたしは言葉が出ないまま、目の前の顔を見つめ返した。


あたしの傍なら、自然に……
初めて自分でやりたいと思った事……


あたしに言った言葉は、やっぱり嘘なんかじゃなかった――



「潤を――信じていてもらえますか?」


身体の奥から温かいものが込み上げる。


喉を圧迫してなかなか出ない言葉を、「はい」と押し出そうとした時、園長の顔が、急に強張った。
視線はあたしの後ろに注がれている。
静かな足音と人の気配――後ろへと注がれた園長の視線の方へ、あたしは振り向いた。

園長のベッドに真っ直ぐ向かってきた男性は、振り向いた時にはあたしのほんの数歩前にいた。

そして、その少し後ろを付いて歩く、小柄でスタイルの良い女の人。
大きめのレンズのサングラスを掛けているけれど、それが誰だかすぐに分かった。

――矢沢カンナ

彼女だ……。間違いない。
何でここに?


――『彼女の振りして?』

潤のさっきの言葉が蘇って、それが鋭い針のように、あたしの胸を刺した。


「こんにちは。お身体の方は如何ですか?」


背が高く、ひょろっとしたした体型にスーツ姿の男の人が、あたしの横で足を止めて言った。
表面上は笑みを見せているけれど、それは作られたもののように、心が笑っていないのが分かる。


「何度も言ってますが、ここに潤は来ませんよ」


園長は、表情を変えないまま、そう言った。


瞬時に――この人は潤の事務所の人じゃないか、と思った。


潤を、探してる……?


矢沢カンナはその男の人の横に並ぶと、あたしに気が付いて、驚いた顔をしながらサングラスを外した。


「この間の……」

「カンナ、知ってる方なのか?」


スーツの男の人は、怪訝そうな顔をして言った。

嫌な汗が背中を伝わる。


「丸越のイベントで医務室に行った時、たまたまそこにいた方なんです。
この間は、お花をありがとうございました」

「あ、いえ……」


取りあえずぺこりと軽く頭を下げると、彼女はすぐに園長に向き直った。


「初めまして。突然押し掛けてしまって申し訳ありません。
矢沢カンナと言います。
ご挨拶が遅くなって申し訳ありませんでした。
潤くんから伺っていて、是非、お会いしたいと思ってたんです」


ガツンと、頭に衝撃を受けたみたいだった。


――何で

ついさっき、彼女の振りをして名前を名乗ったばかりなのに……
来る筈のない彼女が何で来るのよ……
何で、会いたかったなんて――

潤がいくら花屋をやりたいと言っても、あたしといると自然でいられても。
それは恋愛感情とは違う。


本当は、あたしは彼女なんかじゃない。


ぎゅっと、胸が締め付けられる。
目の奥が熱くなり、奥歯を噛んで涙を堪える。
握り締めた掌に力を入れると、園長があたしに向かって「花屋さん」と声を掛けた。


「配達、ご苦労様でした」


――行け、と。
そう言う意味。

潤と、鉢会わせさせたくないことは、さっきの言葉からも容易に察せられた。

潤の彼女の筈の矢沢カンナが、何で潤の居場所を知らないのか。
何で、あたしに彼女の振りをさせて、本当の彼女を紹介しないのか。
何で、会わないのか……。

――深い理由があるの?


そう、疑問を感じたけれど、今はそんなことを考えていられない。
潤を連れて帰らなければ。

あたしの元で身を隠している。
ただ、それだけはハッキリしたのは確かだ。


にっこりと微笑んだ園長に、あたしは「お大事になさって下さい」と頭を下げる。

そしてあたしは、足早にその客人を残して病室を出た。

 update : 2008.09.03