29
伝わってくる胸の鼓動の速さも。
触れた部分から感じる温もりも。
回した腕の中の背中の広さも。
あたしの髪を梳く手つきも。
目が覚めたら、それは夢だったんじゃないかと思った。
二人の間に何があったわけでもない。
潤は、ただあたしを抱き締めて髪を撫でてくれただけ。
たったそれだけの、コト。
それでも。
今のあたしにとっては、十分夢みたいな出来事で。
この手に感じたものは全部本物だったのに……。
どんな顔をしていいのだろうと思っていたけど、潤はいつもと変わりない態度で、深くは訊いてもこない。
母の日を控えて、朝から晩までずっと慌ただしく、仕事以外の会話も少ないというのもあったけれど。
お互いに何事もなかったかのようで。
それは自然なようで、不自然さを感じた。
だけど……。
あたし自身もいつもの関係を望んでいた。
あとどのくらい潤がここにいるか分からないから。
せめて一緒にいる間は、楽しく過ごしたい。
ギクシャクした関係なんて、時間が勿体無くて……。
「潤、今のうちにお昼行ってきたら?」
床を箒で掃き始めた潤に、あたしはもう一本の箒を手に取って言った。
ようやくお客様がいなくなった店内は、床にアレンジメント制作の残骸とも言える花の屑が散らばっている。
今日は市場がないとはいえ、母の日当日とあって、朝から休む暇も無いくらい忙しい。
元々、お客様が多いお店とは言えないけれど、それでもさすがに今日はひっきりなしに来店客がある。
「ん。じゃ、先に行ってくるよ。
裏で食べてるから、忙しくなったら呼んで」
「うん」
一言答えると、潤はニッと笑顔を見せた。
そしてエプロンを外して肩に無造作に掛け、スタッフルームに向かおうと、あたしに背を向けた。
その姿を見てから、手に持った箒を動かし始めると、すぐに店のドアが開いて、女の子が入って来た。
あれ……?
何故か、見た事がある人だと思った。
「いらっしゃいませ」と挨拶をしながら、頭の中を巡らせる。
硬い表情のままのその人は、あたしに向かって申し訳程度に軽く頭を下げる。
前に来て下さったお客様かな……?
そう思うと、あたしのすぐ後ろに人の気配がした。
振り返ると、それは今スタッフルームに向かった筈の潤だった。
不思議な顔をしたあたしの横を、潤は通り過ぎていく。
「ちょっと、出てくる」
えっ……何……?
あたしが呆気に取られている間に、潤はその女の子と一緒に店を出て行く。
訳が分からないまま、あたしはただ二人の後姿を見つめた。
潤のすぐ後ろを歩く彼女の、ストレートの長い髪がしなやかに揺れた。
それを見て、ハッとした。
――あの時の。
髪型も服装も全く違うから、すぐに分からなかったけど。
いつだか……友達の結婚祝いにプレゼントするって――ホワイトスターの入った花束を喜んでくれたお客様だ……!
あの時、潤を見て驚いたような顔をしていた彼女。
その事を潤に言ったら、『知らない』って言ってたのに。
やっぱり知り合いだったの……?
「うっす」
固まったままの身体は、よく知った声に反応した。
潤たちと入れ違いのように、敬太が店の中に入ってきた。
「敬太……」
「今、アイツとすれ違ったけど……一緒にいた子って……」
「えっ? 敬太知ってる人?」
「や。何か見たことあるとか思ったんだけど。気のせいかも」
「そう……」
あたしの落胆したような声に、敬太は何も答えず、カウンターのスツールに腰を下ろした。
「花束作ってくれる?」
「おばちゃんに?」
「うん、そう」
「じゃ、大きいのにしようよ。あたしも半分払うから」
「えー? いいよ、そんなの」
「おばちゃんはあたしにとって特別だし、何かしたいと思ってたんだ」
「――ん」
少し照れ臭そうに微笑む敬太に、あたしも微笑み返した。
生まれたときからずっと、あたしのことも娘のように可愛がってくれたお隣のおばちゃん。
親戚とは疎遠な我が家にとっては、肉親にも近い存在だ。
母が亡くなった今となっては、特にそう思うようになった。
おばちゃんには……スタンダードだけど、赤のカーネーションがいいな。
水桶からカーネーションを取り出し、手を動かし始めるあたしを、敬太はカウンターに片手で頬杖をついて眺めている。
「敬太……。
香織から、訊いたよ」
花を合わせながらそう言うと、敬太は言葉を失ったようにほんの少しの間黙りこんであたしを見つめる。
そして小さく「うん」と答えた。
「好きな人がいるのに、香織と付き合ったって本当なの?」
「……ああ」
「ああ、って――……
ねぇ、何で……? 何でそんなことしたの!?」
敬太が本当にいい加減な奴だなんて思ってない。
それは長い付き合いで分かってるつもりだ。
だけど、香織はあたしの親友で。
敬太だって、それを重々承知で付き合い出した筈なのに……。
敬太はまた少し押し黙ると、頬杖をついていた腕をカウンターから下ろし、スツールを回転させてあたしへと正対した。
「香織ってさ……」
「………」
「イイ女だと思う。オレには勿体無いくらい。
可愛いし、素直だし、優しいし。すっげーイイ奴。非の打ちどころがないっつーか。
フツー、男ならコロッといっちゃうよな?」
敬太はふっと、苦笑いをしてみせる。
あたしは一度手を止めて、黙って敬太のことを見つめた。
「だから、好きになれると思った。つーか、好きになろうとした。
本気で好きになりたいと思って付き合ったんだ。
いい加減と思うかもしれないけど、いい加減なつもりで付き合う気なんてなかった」
「――……」
「でも、駄目だったんだ」
「………」
「もうこれ以上自分の気持ちは誤魔化せなかったし、こんなんじゃ、余計に香織を傷付けるだけだって――……」
言葉が詰まったように、敬太の声は掠れた。
「香織は……本当に良い子。
敬太の事、凄く大切に想ってるよ、今でも。
そんな香織をあんな風に傷付けたのは、いくら敬太でも……許せないよ」
あたしの言葉に、敬太は唇の形を歪ませて、こくりと小さく頷いた。
「サイテーだよな。分かってる。
それに葵にとっちゃ、大事な友達なんだし……オマエが怒るのも無理ない」
行き場のない気持ちを当てるように、敬太はガシガシと髪を掻き毟る。
「だけど……敬太は敬太で苦しんでたんだね……」
「そんなのは……」
「やり切れない、こんなの……。
あたしにとっては二人とも大切な人だもん。
だから……こんなのって……」
「ゴメン……」
「敬太の好きな人、って……誰なの?
香織に気持ちが向かないほど好きな人って……あたしの知らない人?」
「………」
敬太は答えないまま、あたしを真っ直ぐに見つめた。
悲しみを含んだようなその瞳。
あたしも目を逸らせなかった。
「言えない人?」
訊き直すと、敬太は少し瞳を伏せた。
「今は……言えない」
「そう……」
「葵こそ」
「え?」
「葵こそ、アイツが好きなのか?」
伏せた筈の瞳がまたこちらを向く。
今度はあたしが瞳を逸らし、少し俯いた。
「おかしいよね……?」
「………」
「分かってる……」
自嘲して見せると、敬太は小さく息を吐いて、首を振った。
あたしはまた何でもないような振りをして、花束を作る手を動かし始めた。
「潤には……何も言わないで」
「葵……オマエはいいのかよ、それで。
オレは――!」
「絶対、何も言わないで」
「―――」
返事の代わりなのか、呆れたのか。敬太は溜め息を落として、くるりとスツールの向きを変え、またカウンターに頬杖をついた。
あたしもそれ以上は口を噤んで、花束を作っていた。
ほぼそれが出来上がった時、潤が店に戻ってきた。
さっきの女の子はおらず、潤一人だった。
何を話してきたのか。何で嘘を吐いたのか。どういう関係なのか。
気にならない筈はないけど。
コレも訊けない事は、嫌と言うほど分かっている。
だから知らない振りをする。何でもない振りを。
「お帰り」
「あ、うん。ゴメン」
そう答えた潤は、敬太の姿を見つけると、少し驚いたような顔をした。
「こんにちは」
潤は歓迎してるとは言えない表情で、敬太に軽く頭を下げた。
敬太も敬太で、潤に対する態度はいつもと変わらず、睨むような目で「どーも」と返す。
全く……。何でなのかな……?
出来上がったカーネーションの赤い花束。
身体の大きな敬太が抱えても十分立派。
スタンダードな赤いカーネーションを、大人っぽく上品に纏め上げた。
きっと、おばちゃんに似合う。
「サンキュ! お袋喜ぶよ」
「うん。おばちゃんによろしく言ってね!」
「じゃあな」と微笑んだ敬太に、あたしは手を振った。
潤は、花束を持って敬太が店を出る後姿を、あたしの横でただ黙って見つめていた。
「敬太は幸せだよな」
そして、ぽつりとそう言う。
ああ、そっか……。
潤はあんな風にお母さんにプレゼントをしたことがないんだ……。
「今度さ、潤が花束作ってお墓に持って行こうよ、ね?
息子が作った花束なんて、喜ぶよ、きっと」
そう言って隣の潤を見上げると、あたしの方を向いて微笑んだ。
「ん。葵も付き合えよ」
「勿論」
「約束ー」
「うん」
「葵の運転でなー」
「あのね……たまには助手席じゃなくて、運転しなさいよねっ」
「たまに、は、な?」
ケラケラと、そう言って笑う。
だけど……。
何でもないように見えて、潤の内面は、本当は沢山の傷を抱えているんじゃないかと思った。
いつも、あたしを支えてくれる潤。
あたしも――少しでも、潤の心の支えになれないかな……。
「ねぇ、結局お昼食べてないんじゃないの?」
「ゴメン、まだ。ソッコー食ってくる!」
「うん」
「なぁ。後で、葵が飯の時に花作っていい?」
「うん、いいよ。練習?」
「葵のお母さんに。オレも作りたい。母の日の花」
――え……
思わず言葉を失って潤を見上げると、あたしにニッと唇の端を上げて見せる。
「……うん」
あたしが答えたところで、扉が開いてお客様が入って来た。
「いらっしゃいませ」と、二人声を揃えると、潤はそのままくるりと背を向けてスタッフルームに向かった。
ヤバい……なぁ……。
目頭が熱い。
お客様の前だっていうのに。
涙が出ないように、唇をきゅっと引き結んだ。
あたしの事を利用してるなんて、思いたくない。
だって、やっぱりこんな風に大事にしてくれるんだもん。
店も。あたしも。今はいない家族まで。
二人でした約束は、いくつ叶えられるだろう。
今したばかりの伊豆に行く約束も、叶えられないかもしれない。
それでも――
叶えたいと思う。
ひとつでも多く。一緒に。