28

開演予定時間の10分前に着くと、殆どの席が既に埋め尽くされていた。

若い子に人気があると言っていた香織の言葉から、客層はあたしよりも年下が多いのかと思っていたけど、そんな事はなく、高校生くらいの子から年配の人までとバラバラで幅広い。


「葵ちゃん、こっちみたい」


香織が座席の番号を先に見つけて、振り返った。
先に進む香織の後を、あたしは「うん」と付いて歩いた。

既に席に着いている人の間を「すみません」と頭を下げながら、チケットの座席番号の元へと向かい、ようやく腰を下ろす。
仕事を早く切り上げて慌ただしくココに向かったせいで、席に着くとほっと小さく息を漏らした。


――潤には。嘘を吐いた。
香織に相談に乗って欲しいと言われたからと。
母の日の前で忙しい中、仕事を早く切り上げてまでココに来る理由を作らなきゃいけなかったから。

香織は……相談どころか、あれからあたしに何も言ってこない。

それは敬太も同じで。
二人がどうなっているのか分からないまま。

試写会に付き合って貰ったのは、一人で来るのが怖いという気持ちもないわけじゃないけど。
香織を今日誘ったのは、相談でも愚痴でも何でも、話して欲しいと思ったから。
あたしに話すことで少しでも楽になるのならそうして欲しい。
一人きりで心の中に押し込める事は、とても苦しい事だと分かっているから。
あたしは香織の一番の友達だと思っているから。

香織はずっと口数が少ない。
笑顔も覗かせるけど、あたしには平静を装っているように見える。
たとえ、敬太があの日、別れを告げていなくても。何かあった事には間違いないだろう。
何も聞かされないのは辛くもあって。
吐いた嘘は本当の事に変わるんじゃないかと、心苦しい。

仕事を差し置いてまで……嘘を吐いてまで……。
そんな自分に嫌悪感まで湧いて――

だけど。
来ない訳にはいかなかった。
どうしても見たかった。確かめたかった。
自分の目で。今――


あたしも香織も、席に着いてから黙ったままだ。
言葉も無いあたし達とは違って、会場内は皆開演を心待ちにしてざわめいている。

あたしは落ち着かなさから、会場に入る前にスタッフから手渡されたチラシに目を落とした。
この間貰ったチラシと同じ写真。
手を繋ぎ、微笑む二人はとても綺麗で。
一目で、恋をしていると分かる。


「ねぇ、舞台挨拶ってジュンも来るんだよね?」


その声が急に聞こえて、どきりと心臓が跳ね上がった。


――舞台挨拶!?


顔が上げられない。身体が固まったようだ。
隣から聞こえてくる会話は、妙に大きくあたしの耳から入り込む。


「えー? 来ないんじゃない? だってさー、噂知らないの?」

「噂って何?」

「矢沢カンナとの熱愛報道があったじゃん?
あの後から長期休養取ってるって話」


何……?
矢沢カンナ? 熱愛報道?
長期休養――?


「えー? そーなのー?」

「事務所が認めなくて、揉めてるとか。
で、ジュンが実力行使に出たって」

「嘘っ! マジで!? それって矢沢カンナに本気ってことだよね?
ショックなんだけどっ!」


ガンと、大きく頭を殴られたようだった。
きゃあきゃあと隣ではしゃぐ甲高い声が、耳鳴りのように聞こえる。


家に帰れないのはそういう意味……?
あたしの事を利用してるっていうのも――?


だけど……
だけど……

じゃあ、何で!?

何であの時、あんな事言ったの!?
『恋愛してみない?』なんて――。


小刻みに震え出した手を抑えるように、香織の柔らかい手が握ってきた。
ぎゅっと、力強く握ってくる。


「……葵ちゃん」

「………」

「葵ちゃんはユウキくんが好きなんでしょ……?」

「……っ」

「自分の気持ちよりも、相手の気持ちを優先させて抑えるのって、辛いよね……」

「―――」

「あたしはね。もう、挫けちゃった」

「――え?」

「敬太くんと別れた。
最初から分かってたんだ。彼にずっと好きな人がいることは」


……敬太に?
ずっと好きな人がいる!?


「香織……? 嘘でしょ!?」


俯いていた顔を上げて、香織を見つめた。
香織はこちらを向かず、前を向いたままだ。


「好きになって、告白して、断られて……。
でも、他に好きな人がいても構わないって言ったの。
その人は敬太くんにとって望みがない人だったから、その代わりにしてって。しつこくお願いしたんだ」

「敬太……香織に対してそんな事してたの!?」


香織の掌の下にある自分の拳をぎゅっと握り締める。


「あたしがそうしたかったの……。
それでも傍にいたいと思ったの。あたしが忘れさせたいって」

「―――」


そんなの、聞いた事ない。
そんなの、知らない。

だって、香織と敬太はいつも楽しそうで。
香織は敬太といると幸せそうに笑ってて。
不安になっている事も多かったけど、それは香織が敬太の事を凄く大事に思って好きだからって――。
問題なんて何もないと思ってたのに――。


香織は、泣き笑いのような悲しい横顔で自嘲する。


「でもそんなのやっぱり駄目だった。
一緒にいて楽しかったし、何事もなかったからもしかして……って期待したけど。
駄目だったの。敬太くんはあたしの事は見られないの。
もう、頑張るの、辛くなっちゃった……」

「そんなの――全然知らないよ!
何、それ!? だって――……」


香織はかぶりを振った。
そして、あたしの方へゆっくり振り向いて、真っ直ぐに瞳を見つめてくる。


「あたしは挫折しちゃったけど……。葵ちゃんは、負けないでよ……」

「え……」


ぎゅっと、もう一度強く手が握られる。

香織はふっと儚い笑顔で微笑んでから、スクリーンの方を向いた。
それと同時くらいにパッと照明が落とされ、会場は薄暗くなった。

言葉が出る前にブザーの音が響き渡り、あれほど煩かった会場は、水を打ったように静まり返った。

香織の横顔が、スクリーンに映し出された映像の色に染まり、揺れ動く。
光が映り込んだ瞳は、涙を溜めているようにも見えて。
あたしは一度固く瞼を閉じてから前を向いた。


胸が、痛い……。


人と人とが出会う事は、奇跡のようなもので。
同じ時間、同じ場所で過ごせることの確率の低さ。
そんな中で恋をして。
両思いになれるのは、どのくらいなのか……。

……それが。
どれだけ難しい事なのか……。


スクリーンを眺めながら、あたしは香織の手を強く握り返した。

違う。
握り返したと言うよりも、思わず力が入ったというのが正しいのかもしれない。
目の前に。
スクリーンに描き出された姿が、飛び込んできたから――。


……潤……

瞳の色も。輪郭も。声も。指の長さも。髪の線の細ささえ同じなのに。

目付きも。喋り方も。笑い方も。歩き方も。小さな仕草だって。
――潤じゃない。

あたしの瞳に、今映し出されるているのは――潤じゃ、ない。
全くの、別人だ――。



さっき聞いたばかりの潤の噂話も、香織との会話も飛んで、ただただ、その世界の中に魅了されていった。

演出や色んな技術の凄さや物語の良さは勿論なのかもしれないけれど。
圧倒的な存在感と、人を惹き付ける演技力は、潤自身から滲み出ていた。

潤が画面に出てくるだけで、空気が変わる。
あたしでも知っているベテラン俳優に、引けを取るどころじゃ、ない。
自分の役を持っていて、その姿に、釘付けになる。

引き込まれて、目が離せなくて。
ドキドキして、胸が高鳴って。
顔が綻んでいたり、胸がぎゅっと苦しくなったり、ホッとしたり。
気持ちがそこに飛んでいくように、入り込んでいく。

そして自然と涙が溢れていたのにも、気付く――。


映画が終わるよりも、もっとずっと前に。
――分かってしまった。
鮫島さんの言葉の意味が。

手放したく、なる気持ちが。

もっともっと、誰かに見てもらいたくて。
この感動を伝えたいと思った。


ずるいよ……。


知ってしまったら、あたしの元にいるのは間違ってるなんて思うのは当然だよ。
あたしとは、違う世界の人なんだって――――

才能は、努力だけで手に入るものなんかじゃない。
そう、思い知らされる。

その道を進んで欲しいと――思う。
心から。


なのに――。
手放したい気持ちと同じくらい、手放したくない気持ちもある。

傍にいたい。ずっと。
そんな我儘な気持ちが。

どうしたらいいのか分かんないよ……。

潤は――どうしたいの? どうするつもりなの?

一番望んでるものは、何……?









「何だよ、電話しろって言っただろ。駅まで迎えに行ったのに!」


玄関のドアを開けると、その音に気が付いた潤は、すぐさまあたしの目の前に現れた。
仁王立ちするように腰に手まで当てて一段上からあたしを見下ろす。


「酔い醒ましに、ちょっと一人で歩きたかったの」


あたしはふふっと笑って見せてから、ミュールを脱いで家に上がり潤の横をすり抜けた。


「年頃の娘が一人こんな時間に歩いたら危ないだろ?」

「へーき、へーき。あたしなんか誰も襲わないからー」


後ろから聞こえる声に振り向かないまま、右手をひらひらと振った。


「あのなぁ〜。何もなかったからいいものの。
何かあってからじゃ遅いの分かってんのかよ?」

「一人暮らしだったら、一人で歩いて帰ってくるじゃん?」

「今はオレがいるだろ?」

「―――」


……分かってんの、かな?
いつかいなくなるのに。どうせ一人になるんだから、一緒だよ……。
そんな心配いらないよ。


あたしはそのままリビングに入り、ソファーに荷物ごとドサリと凭れ掛かった。

向こう側で、潤の小さな溜め息が聞こえた。


「コーヒー飲む?」

「……うん」

「香織ちゃん、大丈夫だった?」

「………」


一瞬、言葉が詰まる。

嘘を吐いて試写会に行ったことも。
香織と敬太の事も。
潤の俳優としての仕事の事も。
矢沢カンナと事務所の噂の事も。
鮫島さんと彰くんの言葉も。
色んな葛藤が一気に押し上げてくる。


あたしはソファーに倒した身体を起こして、背凭れの方へと振り返り、潤を見た。


「潤は、好きな人っている?」


キッチンのカウンターに回わろうとした潤は、返事の代わりにしたあたしの質問に驚いて、そこでピタリと足を止めて振り返る。


「はぁ!? 急に何だよ!?」

「訊いてんの」

「何? 葵、酔ってんの!?」

「酔ってないよ」


せめて……それくらい訊きたい。
矢沢カンナが、潤の彼女?
それが大元で、俳優の仕事を休んであたしのところにいるの?


「………」


潤はカウンターには向かわず、身体をあたしへと向き直らせ、真剣な目をした。


「――いるよ」

「―――!!」


急いで酷い顔を見られないように、ソファーの背凭れに乗り出していた身体を戻した。

――手が、震える。


それは……やっぱり矢沢カンナ……?


喉が詰まって、苦しくなって。
呼吸を整えるように、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「そっかー」


顔は見えないと分かっていても、わざと笑顔を作って、明るい声を出した。


「何に代えても守りたいモノが、見つかったんだ」


あたしの心境なんて気付かすに、潤は続けて静かにそう言った。


何に代えても守りたいもの……?


潤の落ち着いた声が、耳に残る。


そんなに大事?
事務所と揉めても? 仕事を休んでも?

ココにいるのは、身を隠すため?
誰も、『ジュン』がこんな所にいて、花屋なんてやってるなんて思わないから……?


苦しくて、息を飲み込む。
ごくり、と。小さく喉が鳴った。

どうにか、また笑顔を作る。


「潤がそう言うなら、きっと凄いイイ女なんだろうね」

「うん」

「あたしとは比べモノにならないんだろうなー」

「……比べようがないし」


ずきり、と――。
その言葉が鋭い刃のように、胸に突き刺さる。


人の気も知らないで、酷い男。

でも……。
あたしも鮫島さんと、同じだ。
利用されてもいいとさえ思ってる。
潤が帰ると言うまで。
その時までココで一緒にいられるだけでも。それでいいって。

愚かだ――……。


「葵こそ……」

「えっ……?」

「葵こそ……もう、元彼の事は吹っ切れた?」


……元彼?


結婚まで夢見た人。
だけどそんな気持ちはとうに消え失せて。
目の前の男に心を奪われてる。


クッと、苦笑いが漏れる。


「とっくだよ」


そう言うと、立ち上がる時に着いた手の重みで、ソファーがギシリと音を立てた。
そして、潤の方へと向き直る。


「気付いちゃった。本当に好きな人。
こんな気持ちは初めてで。
だけど、絶対に叶わない人。
絶対に――手は届かないんだ」


真っ直ぐに、潤を見た。

潤は驚いたような顔をする。
それは心配そうな顔に変わって、眉を歪めてゆっくりとあたしの前に立った。


「そんな辛そうな顔すんなよ」


その言葉と同時に、あたしの腕が掴まれる。

胸が締め付けられた。

好きだと言えない気持ち――。
こんなに近くにいるのに。
今、目の前にいるのに。
掴まれた腕から熱を感じるのに。

――手の届かない人……。


あまりの苦しさに、じわりと涙が滲み始める。
俯いて、ぎゅっと瞼に力を入れた。


「だから……、最近様子がおかしかったのかよ。
今日、帰ってきて辛そうな顔してんのも――」


――え?


顔を上げた。
目の前の潤は、唇を噛むように歯を食い縛ってから言った。


「香織ちゃんの相談、辛かったろ?
よく……頑張ってきたな」


何言って……?


意味が分からなくて、潤を見つめる。


もしかして……敬太の事だと思ってる?
あたしが好きなのは、潤じゃなくて敬太だって。
考えてみたら、そう誤解されてもおかしくない言葉だったかも……。


――『自分の気持ちよりも、相手の気持ちを優先させて抑えるのって、辛いよね……』


香織の言葉が蘇る。


――『葵ちゃんは、負けないでよ……』


……だけど……。


そう思われたなら、そう思ってくれているほうがいい。
あたしの気持ちは伝えられないんだから。

好きだと言ったら、潤はココにいられなくなる。
何よりも守りたいものが、守れなくなるかもしれないんだよね……?



手を、伸ばした。
目の前の、潤に。
ずるいのは分かってるけど、抱きついた。


「よしよしって、して……」


このくらい、許して。
あたしを利用しているのなら。


「………」


潤は黙ったまま、あたしの髪に触れた。

優しく、ゆっくりと。
髪が梳かれていく。

甘いその行為と感触は。
長い指が髪の間をすり抜ける度、同じようにあたしの心を裂いていく。


苦しくて。痛くて。
背中へ回した腕に力を入れた。


「オレは……何があっても葵の味方だからな……」


潤のその言葉に、あたしは瞼を閉じて、目の前の胸に顔を伏せた。

 update : 2008.08.16