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普通の。
何でもない態度を取ることが出来る自分に驚いた。
実際、帰ってきた潤に、何かを言ったり訊いたりするようなことが、今の状態で出来るわけもないというのもあったけど。
目の前でちゃんと顔を見たら、ホッとした。
今、――ココに。潤はいる。
「おかえり」って。
思わず笑顔になったそんな自分にも、ホッとした。
「ハイ」
コトリ、と。テーブルに小さな音を立てて、水色のマグカップを差し出した。
珍しく、あたしが淹れてあげたコーヒー。
あたしも潤も、取りあえずそのコーヒーで一息つく。
潤は口からカップを離すと、テーブルには置かずに両手でそれを包み込んだ。
そしてあたしに向かって渋い顔をしてみせる。
「……葵」
「ん?」
「コレ、薄いんだけど……」
「……やっぱり?」
豆の量が少なかった?
だって分量ってよく分かんないんだよね。
いつもは潤がやってくれるし。
「今迄一人だった時って、どーしてたんだよ?」
「インスタント。だってちゃんと瓶に分量書いてあるし」
「………」
潤は呆れたような顔をして少しの間黙ったかと思うと、急にくしゃっと、顔を崩して笑う。
「おちおち外泊も出来ねーじゃん。
どーせ昨日もマトモなモノ食ってねーんだろー?
オレがいないと駄目だなー」
きゅうっと。
胸が締め付けられる。
ずっと。
ココにいるかと錯覚させるような言葉。
いつかいなくなるのに……。
「平気だよ……」
「え?」
「別に一人だって平気だもん」
……嫌な奴。あたしって。
自分で口にしたクセに。
そのたった今出した言葉に、どうしようもない後悔と不快感が込み上げ、胃の辺りを重石を乗せたように圧迫する。
子供だ。こんなの。イイ歳して。
結局は『そんな事言うなよ』って言って欲しいだけ。
強がる自分が情けない。
潤がいないと駄目って。
いて欲しいって素直に言えない。
そんな風に本心を言ってしまったら、全てが止まらなくなりそうで。
今、まだ訊いていいかも分からないことを、問い詰めてしまいそうで……。
マグカップを握り締めて、言葉を飲み込むように息を飲む。
一瞬だけ瞑った瞼を開くと、目の前には穏やかな潤の顔があった。
あたしの強がりを。まるで見透かしているような、顔。
「―――」
「葵」
「ん?」
「来週の定休日って空けといて」
「……いいけど。どうかした?」
「園長に一緒に会いに行ってくんない?」
「えっ……?」
園長に――?
だって、昨日は……
「いいの?」
「いいのって? 何で?」
潤は不思議そうな顔で返す。
「だって。昨日病院まで一緒に行くって言ったら嫌そうだったから……
そういうの、嫌なのかと思ってた」
「それは――……」
「え?」
「や。嫌だったわけじゃないよ。
とにかくさ、園長に葵の事紹介したいんだ」
「紹介……?」
「うん」
にっこりと柔らかく微笑む潤。
紹介したいって……。
そんな風に言ってくれるなんて。
潤にとっては大切な人。
その人に紹介してくれるって言うことは、あたしのコト、信用してくれてるからだよね?
潤にとって、少しは特別ってことだよね?
それが『家族』としてでも。
『利用してる』なんて。
やっぱりそんなことあるわけないよ。
――母の日。
それは花屋が一年間で一番忙しいと言われる時期で。
あたしは花屋を継いでから初めてその時期を迎える。
母の日を迎える前の週はとにかくめまぐるしく忙しい。
いつもの何倍もの花束やアレンジメントの予約の数が入っていて。
潤の手がなければどうなっていたのかと思える程、やることは沢山あった。
仕事中は休む暇もないくらいで。潤とゆっくりと話をする暇もなかった。
帰宅時間もいつもよりも遅いし、帰ってからもご飯を食べてお風呂に入って寝るだけといった感じだ。
向き合って会話をしたら、何か言ってしまいそうな気もしたし。
仕事に集中していれば、色んな事を深く考えずに済んで、今のあたしには忙しい事が有り難かった。
そんな忙しい中でも、ライフスターの仕事も勿論あって。
鮫島さんの存在は気になって仕方無いけど。
それでも、仕事はベツモノで楽しい。
「わー。次はカーネーションなんですか?」
その声に振り向くと、残業が終わって帰るところなのか、社員の若い女の子が二人立っていた。
綺麗に巻いた髪と、完璧なメイク。
制服ではないオン服は、二人とも女性らしくきっちりしていて。
何ヶ月か前の自分を思い起こさせる。あたしも同じように会社で働いていた事を。
今、こうしている事が不思議なくらい。
「もうすぐ母の日ですから。
働いていると忙しくて忘れがちでしょう?
ご両親の事、少しでも思い出してもらえるといいなと思ったんで」
たとえプレゼントをしなくても。
母親への感謝の気持ちを少しでも思い出してもらえたらいい。
あたしは――母が生きていた頃、仕事が忙しくてそんなこと自体忘れていた。
お店の事だってちゃんと手伝ってあげれば良かったのに。
もっともっと、大切にしてあげれば良かった。
だけど、もう何かをしてあげる事は出来ない。
「母の日かぁ。そうですねー。
カーネーションって沢山種類あるんですねー?
コレもカーネーション? 何だかバラみたーい」
「これはラフィーって海外の品種なんですよ」
「へぇー可愛いー。
最近ね、楽しみにしてるんですよー。花が変わるの」
「ホントですか?」
「凄く綺麗でお洒落な感じで。
会社にいてもココの花で季節を楽しめるし。
見ると何だか元気になるんですー」
二人は「ねー」と、顔を見合わせて微笑む。
「ありがとうございます!」
頭を思い切り下げると、隣で潤も頭を下げた。
そんな潤の姿は、あたしと同じ気持ちでいてくれているんだと感じられた。
一緒に仕事をしているという実感と喜びが湧き上がる。
「頑張って下さいね」と言いながらロビーを出ていく二人を見送ると、自然と潤と顔を見合わせて笑みが零れた。
「良かったなっ」
「うん! すっごく嬉しい!」
「オレのお陰だろー?」
「うん!」
本当に潤のお陰。
潤がこの仕事を取ってきてくれたから、色んな人に自分の生けた花を見てもらえる。
何かを感じてもらえる。
それに今迄、こんな風に大きな花を生けることもなかったし。
それなのに、潤は「え?」と、表情を固める。
「うん、とか本気で言うなよー」
続けてぶぶぶっと、吹き出す。
「ええっ? 何で?」
「だって、葵の実力だろー?」
……実力。
いつか。本当に自分の手で、力で。仕事を取れるようにしなくちゃ。
潤に頼ってばかりじゃ、駄目。
あたしはこれから先、一人でやっていかなきゃならないんだから。
「ホントに、この仕事は潤のお陰だよ」
鮫島さんと潤の関係は分からないけど。
あたしの為に貰ってきてくれた仕事――。
この仕事をしなければ得られなかった気持ちも、潤はくれたんだ。
「だから、頑張れるんだよ」
あたしが笑って見せると、潤も同じようにはにかんだ。
眩しいくらいの、笑顔。
その表情に、何だかあたしが照れ臭くなる。
……何か。
反則だよ、その笑顔……。
仕事に集中するためにその笑顔から顔を逸らして、道具の入った段ボール箱を開いた。
……あれ?
花器に合わせた大きさの剣山を取り出したところで、あるものが無い事に気付く。
「延命剤忘れたかも……」
「延命剤?」
潤もすぐに手を止めてこちらを覗く。
「新しいボトル出しておいたのに……。
あーもう、あたしって馬鹿」
水を清潔に保ち、栄養を補う花の延命剤は、手入れのあまり出来ないこういった生け花には必需品だ。
コレがあるとないのとでは、花の鮮度と持ち具合が格段に違うのだ。
「じゃ、オレ買ってくるよ。
確かここの近くのスーパーって24時間営業だったし。
葵は作業続けてて」
潤は当然のように立ち上がり、着けていた軍手を外した。
「うん。ゴメンね」
「いーよ。葵の使いっぱですからー」
ニッと笑うと、すぐに潤は小走りで自動ドアを潜って行ってしまった。
あっと言う間だ。
こういう気を遣ってくれるところも、あたしにとっては凄く仕事がやりやすい。
初めの頃は心配していたけど。本当に、真面目に仕事をやってくれる。
潤がいなくなると、正面玄関の自動ドアはまだ開いているとはいえ、就業時間をとうに過ぎたロビーは人気が無く、急にしんと静まり返った。
ロビーと廊下の照明は半分は消灯されているせいか、余計に広々と寂しく感じる。
昼間は活気さえ感じられる会社も、夜になるとひとたび姿を変えるように、雰囲気ががらりと変わる。
大きな薄暗いスペースに一人きりというのは、何故こんなに不安にさせられるのだろう。
一息吐き出してから、さっき女の子が可愛いと言っていた、ラフィーを取り出す。
カーネーションは種類がとても多い。
花束やアレンジメントにはよく使われ、合わせやすい花だけど。
ひとつひとつ見ると形も大きさも個性的で。色も同じようでも全く違う。
メインにするのに引き立つように。カーネーション以外も、当たり前過ぎない花合わせにするための花材を選んだ。
花台の上の花器に合わせた高さの脚立に上がり、一本一本、バランスと構成を見ながら差していく。
集中力が高まる。
微かに聞こえていた外の雑音さえ、耳に入らなくなる。
こうして花と向き合ううちに、周りが見えなくなったように、その世界に入り込んでいく。
そんな静寂を破るように、ポーンと高い電子音が向こう側で鳴った。
エレベーターが到着したようだ。
こちらに向かってくるヒールの音が二人分。
近くで足音が止まったのに気が付いて、あたしも手を止めてそちらに顔を向けた。
「こんばんは」
「……鮫島さん」
急いで脚立から降り、鮫島さんとその横に立つ秘書らしき女性に頭を下げた。
「集中してたのに途切らせちゃったわね。ごめんなさい」
鮫島さんは、にっこりと口元だけを上げ、余裕があるような微笑みを見せる。
やっぱり綺麗な人だ。
高級そうなスーツに身を包み、長い髪は綺麗にセットされていて。
背筋が良く、すらりとしたスタイルは、彼女の中の自信が滲み出ているようにさえ見える。
「いえ。大丈夫です」
「今日、潤は?」
「あ……今、花の延命剤を買いに行ってくれてます」
「……そう」
笑みを見せていた顔は、みるみる曇って不快感を露わにした顔つきに変わった。
あからさまな不快を表す溜め息を吐き出すと、隣の女性に目配せするようにちらりと視線を送る。
秘書の女性は、言葉が無くてもそれが何を意味するか察し、「お先に失礼します」とすぐに入り口へと向かった。
重い沈黙の中に、立ち去る女性のヒールの音がこだまするように規則的にコツコツと鳴っている。
自動ドアが開く低い音が響いて、また同じ音が作られて閉まったのが分かる。
ヒールの音が消え去ると、それに合わせたように鮫島さんはもう一度溜め息を吐き出した。
まるであたしへ見せつけるように。
「不愉快だわ……」
ポツリと言った言葉は、最初、何て言ったのか分からなかった。
「え……?」
「潤に、そんなことまでやらせるのね」
「そんな――」
言葉が詰まったあたしを、彼女はまるで蔑んで見下ろすように見た。
「あたしはね、この間も言ったけど、あなたの仕事自体は好きよ。
だけど、潤にこんな事をさせるくらいなら。それを見るくらいなら、こんな仕事、あげなきゃ良かった」
「―――」
「あたしの気持ちなんてアナタには分からないでしょうね」
――分からない?
「それは……潤が好きだから、ですか……?
それとも、俳優としての潤が好きだから……?」
あたしの言葉に、鮫島さんは驚いた顔をして眉の形を歪めた。
「俳優って……。
潤が……言ったの!?」
「……いえ。
先日……偶然知りました。
潤は……あたしがその事を知っている事も知りません」
「……そう」
「………」
「なら、あたしが言いたいことって分かってるんじゃない」
言いたいこと?
それは、潤に花屋を辞めさせて、すぐにでも元の世界に戻らせろってこと?
だけど……
だけど――
「潤は――花屋をやりたいって言ったんです!」
あたしのハッキリした口調に、鮫島さんは口を噤んだ。
そして睨むように鋭い瞳であたしを見据える。
あたしも目を逸らさないで、彼女の瞳をただ見つめ返す。
彼女は、ふうっと小さく息を漏らすと、あたしからようやく視線を外し、持っていたバッグを開けた。
「両方よ」
そう言ったかと思うと、あたしの手に何かを握らせた。
――チケット……?
掌を開くと、そこには見覚えのあるタイトルが書かれたチケットがあった。
チケットから、すぐに彼女へと視線を戻す。
「これって……」
「さっきの答え」
「―――」
「試写会、行ってくるといいわ。
そこできちんと潤のコト、見てくるといい。
そうすれば、あなただって分かるわよ。必然的に」
分かる――?
言葉も出ず、見つめた鮫島さんの顔は、口元が少しだけ上がった。
「手放したく、なるわよ?」
一言。
捨て台詞のようにその言葉を言い残して、彼女はあたしに背中を向けた。