26

香織からは何の連絡もなかった。

敬太は――あれから本当に香織に別れを告げたのか。
それすらも分からない。

香織がどれだけ敬太の事を好きだったか知っている分。
敬太の事は幼馴染みとして、仲が良い分。
……こういうのは、辛い。

初めから二人を合わせなければ良かったのか、とか。
そんな事も考えてしまう。


今日は色んな事がありすぎる。

一人の家は――こんなに広かった?
こんなに静かだった?

気持ちはずっと、ざわざわと音が立っているように落ち着かない。

布団に入って瞼を閉じても頭の中は冴えていて、色んな想いが巡る。
ぐるぐると、ずっと。

とても寝付ける状態じゃない。

天井に灯るオレンジ色の小さな豆電球は、瞼の裏を染めるように妙に明るく感じさせる。
さっきからずっと態勢は変わらないままで。あたしは仕方無く瞼だけ開いた。


潤は――元モデルって、若手俳優って……一体どんな仕事をしてたのかな……?
香織は人気があるとか言ってたけど。

あたしが知っているのは、そう聞いたことと、もうすぐ公開する映画の主演をしているということだけ。

確かに格好良いし、初めて見た時は見とれちゃったけど。
あの潤が……。
あたしの目の前で生意気な口をきいたり、馬鹿なことやったりする潤が。
普通だったら手の届かない人、なんて……。


結局、ベッドから身体を起こした。
普段はあまり使う事のないデスクの上のノートパソコンを開く。
片手で頬杖をつきながら、暗い中で青く光るディスプレイを見つめ、立ち上がるのを待つ。

小さく機械音が鳴る。
ランチャーが映し出されていく。

立ち上がるのを待つのは、今日は特別に長く感じる。


調べることは、簡単。
だけど――……

あたし……こんなことしていいの……?
見ることは――潤に対して失礼じゃないの……?
話してくれるまで待つ、って決めたのに。


見たいけど。
本当は怖い。


心臓の速さも、音も。
次第に速まり大きくなっていく。

震える掌同士を重ね合わせ、指を組む。
顔をそこに伏せては、上げる。
短い時間に、何度そうして息を吐き出したかも分からない。

それ以上に――あたしはどうしたいのか――……



――『ジュン』

カタカナの文字を、検索の枠内に入れる。


本当に、いいの?


指が、迷ってなかなかそれ以上進まない。


だけど――……


ENTERを押した次の瞬間には、ズラリと縦に検索結果が現れて、目を見張った。

漢字でもないし。ただの短いカタカナのこの文字が。
違う検索結果ではなくて、芸能人の『ジュン』をあたしにどうだと言わんばかりに見せつけてくる。

クリックすると現れるのは――紛れも無く、潤だ。

誕生日、血液型、趣味、身長、体重……はたまた靴のサイズまで。
探すという程でもなく、簡単に何でも分かってしまう。
モデル時代の事……デビュー作や、出演した作品についてだって。

何だって、分かる。


どうして……。
どうしてこんなに凄いのよ……。

何でよりによって潤なの?

駆け出しの新人とか――仕事もなかなか貰えないようなくらいだったら良かったのに。
そうしたら、ずっと一緒にいられたかもしれないのに。

潤の言葉を信じるって決めたのは、ついこの間なのに。

潤が本当のことをあたしに言えないのは、尤もなのかな……。


見なければ、良かった――。


映し出される画像は、いつもの潤とは違うクールな顔つき。
作られたような綺麗なスタイル。

いつもは人懐っこく笑うクセに。
こんな顔、見せないクセに。


どれも、違う。いつもと。
こんな顔、知らない。


あたしの知ってる潤は、すぐ手の届く位置にある筈なのに。
目の前の『ジュン』は、同じようで、全く違う。

潤なのに。
潤には変わりないのに、遠い人物にしか感じられない。
触れる事さえ出来ない、ずっとずっと遠い向こうにある――手は届かない場所、の。


ずきり、と。胸が痛む。


仕事の、顔。

芸能人の、潤の顔――











殆ど眠る事は出来なかった。
夢に入り込みそうになると、それを拒絶するように、思い出されて目が覚まさせられる。

急にまた一人になる――怖さ。

もう。慣れた筈なのに、そんなの。
一人でいることなんて。
あのときの孤独感を、どうして今更また思い出すんだろう。



溜め息を吐き出すのと一緒に、ガラスケースの扉を閉めた。
市場で買い付けた花の水揚げとディスプレイが、ようやく終わる。
朝の店での仕事は、潤がいないせいだけじゃなく、なかなか捗らない。


駄目! こんなの……! しっかりしなきゃ!
潤が帰ってきたら、普通にしなきゃ。
今、大変なのは、あたしじゃない。



「オハヨー、お姉さん」


急に後ろから掛けられた声に、ドキリとした。
少し鼻に掛かったような、気だるい特徴のある声。
振り向かなくても、その声の主はすぐに誰だか分かった。
あたしの中の警戒心が強まって、身体を少し固くしながら振り向いた。


「おはよう、彰くん」


無理に作ったあたしの笑顔に応えるように、彼はニッと笑みを見せた。


「また、花作ってくれる?
今日は女性用に、ね」

「……ご予算と、色味はどんな風にしますか?」

「三千円で。あとは任せるよー。
園長の奥さんに、だから。女性つっても、バーサンだけど。
オレ、昨日は夜仕事だったからさぁ。あの後、潤に任せちゃったんだよね。
だからそのお詫びにでも持っていこうと思ってー」

「じゃあ……落ち着いた感じのピンクとパープル系で纏めるね?」

「んー、いいよー」

「………」


あたしは返事をせずにガラスケースを開け、そこからピンクのカラーと、アスチルベを抜き取った。


――好きじゃ、ない。


彼がいると、神経がピリピリする。
何かの危険信号を察知したように、胸の奥もざわめき出す。

またわざわざウチの店に寄ったのも、きっとあたしの顔色を窺う為だ。


ガタガタと音を響かせて、彰くんは昨日と同じように、カウンターの前のスツールに腰を下ろした。


しんと、張り詰めた空気が流れる。
花束を作る音だけが店内に小さく響いていて、いつもは聞きなれた筈の葉擦れの音やハサミの音がより緊張感を高めていて、耳障りだ。

彼はカウンターに片手で頬杖をついて、ただじっとあたしの事を見つめている。
何かを言いに来たのかと思ったけど、ずっと黙ったままだ。

だけど――絡み付くような視線が、怖い。
あたしの心の奥まで、全て見透かしているようで。

あたしは不安や緊張を見せないように、必死に花づくりに集中した。


ようやく出来上がった花束を、彼に見せる。


「こんな感じでどうかな?」

「うん。いいんじゃない?」


彰くんはにっこりと素直な笑顔を見せて、ポケットに手を突っ込むと、そこからお札を何枚か取り出した。
それをあたしに「はい」と差し出す。

花の代金を受け取る。
彼はまたニッと、黙ったまま笑って見せる。


何事も無かったことに、思わず心の中で胸を撫で下ろした。


「ありがとうございます」


あたしはお礼を言って、出来上がった花束を差し出した。


――えっ!?


だけど――伸びてきた掌は、花束じゃなく、あたしの手首を掴んだ。
ぐっと強引に引き寄せられて、間近で顔を覗き込まれる。


「ちょ……っ!!」

「目、赤いね?」

「―――!!」

「昨日、やっぱり行ったんだ?」

「―――」

「バレバレの、顔だね?
ホントにアイツのコト何も知らなかったんだなぁー」

「手、は…なしてっ」


掴まれた手を振り解こうと、腕に力を入れた。
だけど、そんなことは無駄な抵抗で、更に彼の掌に力がこもる。
顔も叛けた筈なのに、そこに合わせるようにまた彼の身体は近まり、同じ高さの目線で覗き込んでくる。


「もっと教えてあげようか?」

「―――」

「アイツはー、こんな風に女のトコ泊まり渡るのなんて普通だったから。
オレが知ってるのはモデル時代までだけど。
ヒモみたいな生活、ずっと続けてたんだよ?」


あたしの手は、急に解放された。
触れる程近かった身体は離れて、勢いから足元が少しふらついた。

腕は軽くなった筈なのに、掴まれていた部分は、酷く重い――。


「な……によ、ソレ……っ」

「お姉さん、アイツの言う事なんて信じない方がいいよ? マジで騙されちゃった?
なんせ、ほら。そーゆー演技なんて得意だからさ?」


ヒモって何?
騙されちゃった、って――……


「っハッ! そーの顔! ほーんと可愛いねー?」


彰くんは言葉の出ないあたしを見て、馬鹿にしたようにくしゃっとした顔で笑って続ける。


「どーゆーつもりでアイツが仕事休んでんのかは知らないけどさ。
お姉さんのところにいるのは利用してんだよ? ソレ、分かってる?」

「利用って――そんなコトあるわけない」


だって、潤は。
花屋の仕事だって手伝ってくれるし。
家のことだってするし、ご飯だって作ってくれる。
それに、仕事まで取ってきてくれて――……


「みんなそう思ってるんだよ。今までもね。
フツーのOLから、金持ちのお嬢様まで。
あー、若い女社長ってのもいたな」

「女……社長……?」


――それは……まさか……


「なんだか、生命保険みたいな名前の会社だったな」

「ライフ、スター……?」

「何だ。知ってんじゃん」


彰くんは少し驚いたような顔をしてから、またクッと、唇を歪めて楽しそうな笑顔を見せる。

さっきから渡たせずに持ったままだった花束が、ばさりと音を立てて、あたしの手の中から床に落ちた。


――『昔の知り合いだよ』
――『騙されてもいいと思ってるの』

それは……
そういう意味……?


「信用なんかすんなよ、おねーさん」


そう言うと彰くんは、腰を屈めて床に手を伸ばし、花束を拾い上げた。

コンクリートの床に、バラの花びらが数枚散っている。
ハート型の、ピンク色の花びら。


「じゃー、またね?」


胸に抱えた花束に不釣り合いな笑顔を添えてから、彰くんは店を後にした。

あたしは暫くそこから一歩も動く事は出来ずに、ただその背中が遠退くのを見つめた。

 update : 2008.07.29