25
車内には、ワイパーが雨を押し退ける音だけが響いていた。
敬太の車に乗り込んでから、あたしの身体を気遣う声だけは掛けてくれるけど、会話なんてただそれだけで。
敬太だって、潤が芸能人だって気が付いている筈なのに。
それなのに、何も言わないし、訊いてこない。
香織も。
助手席で、黙ったまま窓の外を見ている。
それはあたしも同じで。
ただぼんやりと、窓の向う側で流れていく景色を目で追いながら、家に着くまでの時間をやり過ごしていた。
そんな時間は長いようで短い。
いつの間にか、車は家までの道のりの最後の角を曲がった。
あたしの家と敬太の家が並んで見え始める。
車が停車すると、敬太はすぐに運転席のドアを開けて外に出る。
あたしが後部座席のドアに手を掛けると同時に、そのドアは敬太によって開かれた。
「部屋まで送るから」
さっと、あたしのバッグを手にする。
「え? いいよ。だってもう平気だよ」
「そんな重たい荷物持って、青い顔しやがって」
「………。そこまで重たくないもん。
それに、家、目の前なんですけど……」
確かにスケッチブックや色鉛筆、花はさみも入ってるから、中身は決して軽くはないけど……。
でも……。
ちらりと、香織に目をやった。
こういうの……香織は気にするんじゃないかな……。
さっきも、涙ぐんでたし……。
来る時の、車での敬太の言葉も気になる……。
「部屋まで、ちゃんと送ってもらった方がいいよ。
敬太くんの言うように、顔、まだ青いよ……?」
「え……。あー……うん……」
香織の言葉に、仕方なく頷いた。
敬太は――
潤の事でまたあたしに何か話したいのかな……?
香織の前だと話しにくいとか……
だから部屋まで送るなんて言うの……?
家にはまだ、潤が帰っていないのは分かっていた。
手術は時間がかかると言っていたし。
もし、仮に手術が終わっていても、すぐに帰ってこれるような軽い病状でもない。
それでも、緊張でバクバクと心臓が音を立てる。
敬太が――何かを言うだろうから、じゃ、ない。
あたし自身が。潤が芸能人と知ってしまった今。
対面したら、どんな顔をしていいのか分からない。
玄関のドアの鍵を開ける。
家の中は、誰もいない気配を見せていた。
あたしはそんな様子に、思わずほっと小さく安堵の息を吐いた。
敬太はバッグを肩に掛けたまま、いつもと同じように遠慮することなく、あたしよりも先に家の中に上がり、リビングへ向かった。
あたしはすぐ後ろをついて、同じようにリビングに足を踏み入れると、敬太の足はソファーの前でピタリと止まってこちらへ振り返った。
「……葵」
「……え?」
「………」
いつになく、真剣な顔。
一度ぐっと唇を横に伸ばすように結んで、あたしを見つめる。
「大丈夫、か?」
「えっ? ああ……うん。平気だってば」
「うん……」
敬太は一言答えて、顔を歪めて黙り込んだ。
沈黙が流れる。
敬太は黙ったまま、ソファーの上にあたしのバッグを置いた。
「葵」
「う、ん?」
「オマエは、知ってたのか……? アイツのコト」
「――……」
訊かれる事は想定していた。
だけど実際、何て答えたらいいんだろう。
親戚の筈なのにそんな事さえ知らないってことも。
本当は芸能人のくせに、花屋になりたくてウチにいるって言っていることも。
敬太がオカシイと思うのは、当然だろう。
言った方がいいのか――敬太に。
どう答えるべきなのか、頭を巡らせる。
だけど、やっぱりどうしたら良いか分からなくて。
あたしはただ俯いて黙り込んだ。
また沈黙が流れて、重たげな空気が漂う。
敬太がひとつ、小さな溜め息を落とした。
「知らなかったから、ショックだったんだろ?」
「………」
「遠い……親戚なんかじゃないだろ……?」
「………」
「ダンマリ、かよ……」
「敬――……」
「―――」
ソファーの前で動かなかった敬太は、口を噤んで入り口へと歩き出した。
すれ違いざまにあたしの頭の上で、ぽんと、大きな掌が跳ねた。
「………」
あたしは黙って敬太の背中を見つめた。
その背中が、入口で一度止まる。
「葵……」
掠れたような、切なげな声。
「な、に……?」
そう訊くと、敬太は振り返らないまま、少しだけ顔を伏せた。
「オレ――香織とは駄目なんだ」
――えっ?
言葉の意味が、すぐに理解出来なかった。
それを理解するより先に、敬太が続けて言った。
「葵には、ちゃんと言っておかないと、と思って」
「ちょ……っ、待って? それ、どういう――」
上手く頭が回らないままのあたしの言葉を遮るように、敬太が言う。
「葵、ゴメンな」
「ごめんな、って、何!? 駄目って――」
駄目って、そういう意味だよね?
もう、香織とは付き合えないって――
自分の事で一杯一杯だったけど。
――敬太も香織も、確かに様子はおかしかった。
だけど、それでも――急にどうして!?
RRRRRRRR
急に電話の着信音が、けたたましく鳴り出した。
敬太は黙ったままで。
二人の間に、繰り返し機械的な電子音だけが響く。
敬太はあたしに返答しないまま再び足を進めた。
「敬太!」
あたしも急いで後を追う。
玄関で靴を履こうとする敬太の腕を掴んだ。
それと同時に電話の着信音が途切れる。
「何で――……」
シンと張り詰めた中に、あたしの声が小さく響いた。
香織との事は、確かに当人同士の問題。
敬太がハッキリと香織と別れる事を決めたのならば、そこに口を出す事は出来ない。
だけど――……
敬太が振り返る。
あがり框の上のあたしと、玄関のたたきの敬太は、ほぼ目線は同じだった。
間近のその瞳は、悲しみを含んでいるように、ゆらりと揺れた。
雨に濡らされた髪がしっとりと光って、よりその雰囲気を濃く感じさせ、胸がぎしりと痛んだ。
敬太もあたしも言葉を発する前に、また電話が背中の向こうで鳴り始めた。
「ちゃんと、アイツに話、訊くんだぞ?
押し込め過ぎるなよ。そんなのオマエらしくないからな」
「敬太……」
こんな時まであたしの心配しないでよ……。
言い掛けた言葉を飲み込み、唇を結び直す。
腕を掴んでいた手が自然と緩んだ。
「電話。何か急用じゃねーの?」
敬太は、ふっと、あたしよりも向う側に一度目をやってから、玄関を出ていった。
あたしはただそこで立って、その様を見ているだけだった。
電話は未だにコール音をそこに響かせている。
出る気力はあまりなかったけれど、鳴り続ける電話へと仕方無しに向かった。
だけど急ぐ気もなくて。
足取りはゆっくりだったのに、コール音は途切れる事はない。
誰だろう……?
訝しく思いながら、受話器を上げた。
「……はい」
『葵?』
えっ!?
ドキリと心臓が跳ね上がる。
「潤?」
名前を聞き直してみるけど、そんな事しなくたって、分かる。
あたしの名前を呼ぶ、低い声。
それは思ってもみなかった相手で。
あたしの頭を占めている人物で。
訊きたい事はありすぎて。
色んな感情が混ざり合いすぎて、どうしていいのか分からなくなる。
今、向き合って話す心の準備は出来ていない。
心の内が波立って、緊張が走る。
『ゴメン、忙しかった?』
「え。あ――……そうじゃ、ないんだけど……」
『……うん』
声が――軽いものじゃ、ない。
重ささえ感じる一言に、不安が過った。
今、自分の事を考えている場合じゃない。
ぎゅっと、受話器を握り締める。
「手術、どうだった? 無事に終わったの?」
『うん。終わった』
「そう、良かったね。
潤も……お疲れ様」
『………』
潤は電話の向こうで黙り込む。
何か――良くない事でもあった!?
時間がかかると言っていた手術が早く終わっているのならば、それ以上の手術は出来ないから、という意味かもしれない。
また不安になり、ごくりと息を飲んだ。
『葵……』
「うん?」
『今日、帰れないんだ。
悪いんだけど……明日の朝、市場に行けないけど大丈夫か?』
「何か……あったの?」
『あった、つーよりは……なんつーか……。
とにかく、手術は終わったけど、良いとは言えない状態で……。
奥さんまで倒れちゃって』
「えっ!?」
『園の経営の方も大変らしくて……色々あるんだ。
その上、園長がこんな状態だろ?
色々折り重なって、心労気味なんだ。
今日くらいは付いていようと思って……』
「それは……勿論……」
『ごめんな。一人で、家、大丈夫か?
色々あったばかりだから心配なんだけど。
ちゃんと、戸締まりしろよ』
「馬鹿ね、あたしの方はそんな心配いらないし。イイ大人なんだから。
それより、大事にしてあげて……。潤が、ずっとお世話になった人達でしょ……?」
そう言いながら、自分の言葉に、胸を力尽くで絞ったみたいにぎゅーっと痛めつけられる。
じゃあね、と電話が途切れた後も、受話器を置くことが酷く遠い感じがして、暫く手の中に握り締めたままでいた。
あたしは。
何も知らない。
少しずつ知れば知るほど、余計に苦しくなる。
本人から何も訊かされない、苦しさ――
彰くんも、鮫島さんも、園長も、園長の奥さんも。矢沢カンナでさえ――
あたしよりもずっと、潤の本当を知っている。
彰くんの……売られたようなモンなのにという言葉は……
それは経営の事にも関与しているの……?
大変らしいって、そういう事……?
それに、そんな風にされても、潤が園長のことを大切に思っているのは――そこにはそれほどの絆があるんだろう。
あたしには、分からない何か……深いモノが……
大切な、人。
潤はあたしの事を家族と言ったけれど。
あたしは潤にとって、どれだけのモノなんだろう。
何も言えないレベルの――そこまでは、信用出来ない人間なのかな。
どんな気持ちでそう言ったのか――
好きな気持ちと比例して、不安が募っていく。
――『ちゃんと、アイツに話、訊くんだぞ? 押し込め過ぎるなよ。そんなのオマエらしくないからな』
ほんの少し前、敬太に言われた言葉が蘇る。
訊きたいよ。
あたしだって、訊きたい。
潤の全てだけじゃなくて。
何で芸能人のクセにあたしのところにいるのかだって。
その気持ちだって訊きたい。
だけど、今は……潤にとっても、それどころじゃないだろう……。
それも分かっているから、余計に苦しいんだ。
何も聞かされない事が。
あたしに――潤はいつ本当の事を話してくれるのかな……
そして、それを話す時は――きっと潤が元の世界に戻る時なんだろう……
潤がウチに来て、約4週間。
短いようで、長い時間――
きっと、潤はもうすぐあたしの元からいなくなる。
そんなに長い間、本当の仕事を休む訳はないだろう。
少しでも、傍にいて欲しい。
1秒でも、長く――
潤の事を知り始めた今、そう願う事は、罪だろうか――