24
……気持ち悪い……
頭がぐらぐらする……
身体中から冷たい汗が滲み出る。
喉が干上がるくらいカラカラに乾いて――立っていられない程、力が出ない。
「葵!」
「葵ちゃん、大丈夫!?」
敬太と香織の声がする。
目の前に心配そうな、顔。
「ごめ……、へい、き……貧血……」
この感覚を知ってる。
そう。あの時も。
父と母の事故を聞いた時も――こんな感覚に襲われた。
周囲が騒然とする。
ステージの音は聞こえなくなった。
だけど気にする程の余裕も無くて。
口元を手で覆って瞼を閉じると、ふうっと更に力が抜けていく。
あたしの身体を支える敬太の腕に、なされるがまま寄り掛かる。
「マネージャー! 友人が貧血で……!」
「大丈夫ですか!? すぐに医務室に運んで! 担架持ってきて!」
「今、連絡しましたから!」
色んな人の声が入り混じって、通り過ぎる。
「オレが運びます」
――耳鳴りと一緒に、敬太の声が入ってきた。
身体がふわっと浮く。
どうやら背中に乗せられたみたいだ。
恥ずかしい――とか、そんな事よりも。
何で? とか。どういう事? とか。潤の事の方が頭を占めていて、もうそれどころじゃなくて。
鈍く痛む頭――
何で映画のチラシに潤が写ってるの?
潤は芸能人だったの?
それって、何?
じゃあ何でウチになんているの?
何で花屋になりたい、とか、ずっといていいか、なんて言うの?
分かんない。
分かんないよ……。
バラバラになったジグソーパズルのピースが埋まり始めて、全体が見え出す。
だけどまだ。足りないピースも多過ぎて……。
心配そうに覗き込む香織の上には、見慣れない白い天井に細長い蛍光灯が並ぶ。
そこから床へと伸びるクリーム色のカーテンが、ぐるりとベッドを取り囲む。
天井に嵌めこまれた空調の風で、重たげな布地がほんのり揺れている。
そのカーテンと壁の隙間の向こう側には、薬や消毒液らしき物が並べられた戸棚が見えた。
「葵ちゃん、大丈夫?」
「うん。ゴメンね、少し落ち着いた……」
どのくらいここで横になっていたのかな……
敬太の背中に乗せられて医務室に運ばれ、ベッドに横になったら、いつの間にか眠ってしまった。
まだ少し気分は悪いけれど、お陰で大分良くなった。
「葵、起きたのか? 開けるぞ?」
敬太の声がしたかと思うと、カーテンが開かれる。
圧迫感のあった狭い空間が、一気に広がった気がした。
「大丈夫か?」
「うん……ゴメン……。もう、平気」
「今、車回してくる。ビルの前まで来たら電話するから、そしたら降りて来いよ。
香織、頼むな」
香織が「うん」と答えると、敬太は医務員さんに「有難うございました」と頭を下げて、医務室を後にした。
扉が閉まる音が聞こえると、白衣を纏った女性の医務員さんが、こちらにやってきた。
安心させるような、優しい笑顔が向けられる。
「ご気分いかがですか? もう一度血圧計りましょうね?」
「はい……。すみません」
「あ、どうぞ横になってて下さいね」
言われたまま、あたしは一度起こした身体を再度ベッドに倒した。
身体を横にすると、ベッドの横の小さなテーブルはちょうど目の位置にあった。そこにはあたしの荷物が載せられている。
さっき手の中から落ちたホワイトスターとチラシが、嫌でも目に入り込んだ。
腕に巻かれた血圧計が、機械音を立てながら膨らみ始め、加圧されていく感覚がする。
だけどそんなのは目に入らず、ただテーブルの上を見つめていた。
「残念でしたね」
医務員さんの高い声が優しくそう言った。
何の意味か、最初は分からなかった。
「丁度、イベント見てたんですよね?」
――ああ、その事……
あたしの目線の先のチラシに気が付いたみたいだ。
「……そうですね」
話を流すように適当に相槌を打った。
今のあたしにどう答えろと言うのだろう。
それなのに、医務員さんはそんな事には気付かずに続ける。
「カンナちゃんのファンなんですか? 可愛いですよねぇ」
「え。あ、はい……」
「朝から凄い沢山の人が並んでたんですよ。
先着で映画のポスター配るっていうんで、ジュンのファンの子も凄くて」
屈託なく、笑顔が向けられる。
香織はバツが悪そうに、少し俯いた。
ジュン?
映画の――……
彰くんが言っていたのはこの事だった。
イベントに来れば、必然的に潤が芸能人だと分かるのを知っていたから。
香織も――少なくとも今日、この事は知っていたんだ。潤の事も気付いていた。
だからさっき会った時に、あたしがいて驚いたんだ。
様子がおかしかったのも、納得がいく。
あんなに知りたかった筈なのに……
知りたくなんてなかった。
だって、よりによって芸能人なんて。
確かに、潤がどれだけ売れているかなんて分からない。
だけど映画の主演をするくらいだ。それなりには売れているんだろう。
潤の帰る場所は、ちゃんとある。
それどころか、そのうち帰らないといけないというのも分かる。
必ず、あたしの元からいなくなる――
ドクン、と。また心臓が不穏な動きをした。
脈拍が上がるのが、自分でも分かるくらいで……。
「あれ?」と、医務員さんが眉を顰めた。
「エラーになっちゃったわ。もう一回計ってもいいですか?」
「いいです。もう、大丈夫ですから」
「えっ? でも……」
「本当に平気です!」
思わず口調が強くなる。
医務員さんも、そこにいる香織も、驚いたような顔をしてあたしを見つめた。
「あっ……ごめんなさい。本当に平気ですから。
あの、有難うございます」
身体をさっと起こして軽く頭を下げた。
「そう、ですか……? まぁ、ご本人がそう言うなら……」
苦笑いをしながら医務員さんがそう言うと、コンコンと、ドアをノックする音がした。
医務員さんは「はい」と答えて立ち上がり、ドアの元へ向かう。
そこに辿り着く前に、「失礼します」と引き戸は開かれて、スーツ姿の男性が現れた。
胸にはネームプレートと、金色の小さなバッジが付いている。ここの百貨店の社員みたいだ。
「茨木さん、ちょっとだけいいかな」
茨木さんとは、医務員さんの名前のようで。
男性はドアの向こう側であたし達に会釈をしてから、医務員さんに何かそっと耳打ちした。
「えっと、お友達の方は確かウチの社員って言ったわよね?
申し訳ないんだけど、ほんの数分だけ空けてもいいかしら? すぐ戻ってきますから」
医務員さんは、振り向いて香織にそう言ってから、あたしに「申し訳ございません」と、きっちり頭を下げた。
カラカラと音を立てて、引き戸が閉まる。
二人きりになった医務室は、急にシンと空気が張った気がした。
立ったままでいた香織は、ベッドの横にある背凭れのない小さなパイプ椅子に、ゆっくりと腰掛けた。
ぎしり、と。それが小さく音を立てる。
香織は黙ったまま、顔を俯けていた。
「香織は……知ってたの?」
「………」
訊かれる事を想定していたようで。
「何が?」とも言わず、香織は顔を上げた。
「ごめんね……」
「ごめんね、って……。いつから知ってたの?」
「最初にショッピングモールで会った時……。
葵ちゃんと敬太くんが何か話をしてた間に……。似てるね、って話から……。
葵ちゃんは……知らないから、黙っててくれって言われて……」
黙ってて……?
「潤がそう言ったの?」
「……うん。知らないならその方がいいって」
「待ってよ! 香織はどこまで知ってるの!?」
思わず身を乗り出し、香織の腕を掴んだ。
香織は困惑したような瞳であたしを見上げる。
「ごめんね、あたしもただ彼が芸能人って事しか知らないの。
売れてるから知ってただけで……」
掴んだ腕を離して、宙に浮いた腰をストンと下ろした。
「ゴメン……。そうだよね……」
「………」
「潤は……そんなに人気とか、あるの?」
「……元、モデルで。そのころから人気はあったんだけど。
二年くらい前からかな? ドラマとかに出始めて……。今は若手俳優として人気あるよ。
葵ちゃんはそういうの……テレビとかあまり見ないから知らないかもしれないけど。
若い女の子なら知ってる子が殆どじゃないかな……。雑誌の好きな芸能人でこの間一位だった」
元モデル……?
若手俳優……?
若い女の子なら殆ど知ってる……?
そんなの。
知らないよ、あたしは全然。
「敬太は? 知ってたの?」
もしかして――だから、あんなに反対したの?
そう思ったけど、香織はかぶりを振った。
「敬太くんは知らないよ。そういうの……芸能人とか疎いし。
今日の映画の話の事も、あたし知らなくて。
同じ店内にいても、階も担当も全く違うと、イベントがある事は知ってても、内容まで細かくは知らない事が殆どなの。今日の朝、店に来て知ったから……。
敬太くんにも、ユウキくんの事は言うつもりなかったし……」
「そう……」
「それに……敬太くんが知ったら――……」
言葉が詰まったかと思うと、香織の瞳は水の膜を張り始めた。
目の前の顔は、堪えるように唇をへの字に引き結んだ。
え? 何で香織が――?
「香織……?」
涙を浮かべ始めた香織に疑問を抱いて声を掛けると、廊下で人の話し声が聞こえてきた。
あたしも思わずそこで口を噤んだ。
「じゃあ、茨木さん、よろしくお願いしますね」
「はい」
「ホントに大したことないんですけど……。ちょっと、紙で指を切っちゃったんで。
一応、消毒して薬だけ塗ってもらいたくて」
男性の声に、医務員さんの声。
それに、何か聞き覚えのある女の人の声だと思った。
それもその筈だった。
さっき、声まで特別なんだ、なんて思ったばかりなんだから。
扉がガラリと開くと、医務員さんの横に矢沢カンナが立っていた。
あたしだけじゃなく、香織も驚いてぴたりと動きが止まった。
医務員さんはドアの所で、あたし達に向かって笑顔で軽く頭を下げた。
「矢沢カンナちゃんが、ちょっと指を切っちゃったそうなんです。驚きました?」
ふふふ、と。微笑んで入り口を潜る。
あたしも香織もただ驚いて、「はい」と答えるだけだった。
「失礼します」と、彼女は小さな声で言って医務員さんに続いて室内へと足を踏み入れた。
間近で見ると……本当に綺麗な子だ。
普通の子とは、やっぱり違う……。
視線が、外せなかった。
歩く動作さえ、綺麗で。
ひとつひとつの何気ない仕草も様になっている。
潤は――こういう世界にいるんだ……
あたしの視線に気が付いたのか、ばちりと目が合った。
目線を外したら逆に失礼かもしれないと思い、咄嗟に小さく頭を下げた。
すると、彼女も同じように会釈をして返してくる。
「ごめんなさい。具合悪くて寝てらっしゃるんですよね」
「い、え……。もう、大丈夫なんです……」
「あ、もしかして……。さっきイベント中に倒れた方……ですか?
大丈夫なんですか?」
その言葉にハッとする。
謝らなくちゃならないのはあたしの方だ。
イベントの最中に騒ぎを起こして、中断させたのに。
それなのに、自分の事ばかり考えていて、せっかくの盛り上がっていた会場の雰囲気を壊したことにさえ気付いてなかった。
――恥ずかしい……。
最低だ、あたし……
迷惑を掛けたことにさえ気付けないなんて――!
「あの……っ、すみませんっ! あたし、せっかくのイベントを途中で中断させちゃって――!
ホントにすみませんっ!」
急いでベッドから降り、頭を下げた。
「ええっ!? そんな……! 全然大丈夫ですから! ちゃんと無事に終わりましたし!
体調悪くなっちゃったら仕方無いじゃないですか!
かえって気を遣わせちゃって、こっちこそごめんなさい……!」
慌てた声が返ってくる。
それどころか、あたしに駆け寄ってきて、頭を上げるように、と、腕に彼女の手が触れた。
「気にしないほうがいいですよ。イベントの方は無事に終わったんですから。
それに、ほら。こんな間近でカンナちゃんと逢えて得しちゃった、って思った方が」
と、医務員さんが微笑んで言う。
香織も、
「お店の方は、お客様が第一だから大丈夫」
と、あたしを気遣うように言った。
「カンナちゃん。彼女、カンナちゃんのファンなんですって。
さっき、見られなくて残念って話をしてたんですよー」
医務員さんがニコニコしながら彼女に言う。
ええ!? そうじゃないんだけど――!
でも……
「本当ですか? 女性の方にそう言って貰えると嬉しい!」
目の前の顔は、凄く嬉しそうに笑った。
なんて――綺麗なんだろう……
眩しいような、笑顔。
ぎゅっと。
握り潰されたように、胸が痛い――。
腕に触れていた手が離れ、あたしの右の掌を両手で包み込むように握られる。
3Dの花のネイルアートが施されたピンク色の爪。
ネイルピアスに、ラインストーン、パール……
どのくらいの時間を掛けて手入れがなされているのか――
真っ白で、柔らかくて、絹のように滑らかな肌の、美しい手……。
紙で切った小さな傷でも、わざわざ消毒にくるくらい、な。
それに比べて――あたしの手は……ボロボロだ。
カサカサに荒れていて、小さな傷なんて数えられない程。
爪だって、指先だって、葉と茎の色に染まって黒ずんで。
違いを。まざまざと突き付けられたように感じさせられる。
恥ずかしい……。
こんな、女の手じゃないような汚い手。
それを――潤にも、させている。
潤の手も、もう、とっくに荒れている。
ウチに来てから――……
そんな手に、させるような人じゃないのに――
ぎゅーっと。何かできつく絞られたように、胸が痛む。
「手が……」
「えっ……?」
「手……。働いてる人の手、ですね。
美容師さんとか……?」
彼女は荒れたあたしの手に気が付いて、ぱっと、握られた掌は離される。
あたしが――思わず変な顔をしたせいかもしれない。
綺麗な手を、恨めしそうに見ていたせいかもしれない。
「……いえ。花屋、なんです……」
「わ! 花屋さん? 素敵ですね!
あ、だからあそこにホワイトスターが置いてあるんですか?」
彼女はテーブルの上のホワイトスターへと顔を向けた。
「えっ……。まぁ……」
「あたし、ブルースターが好きなんです。
ほら、名前の通り、小さな青い星みたいで!
でも、お花屋さんって、ブルースターは結構置いてあるけど、ホワイトスターは滅多に置いてないんですよね。
だから、テーブルの上にあったのが目に入ったら、気になっちゃって」
「そういえばそうね、あまり見ないわね。
でも、カンナちゃんには、ブルースターもホワイトスターも似合う花よね。
スターって、名前もね。ふふふっ。ベタ過ぎかしら?」
医務員さんが楽しそうにそう言うと、彼女は笑って流さず、急に真剣な顔つきをした。
「いいえ! 本当にそうなんです!
だからそんな風に言ってもらえると嬉しいです!」
「え?」と、その反応に、皆、目を瞠った。
「あたし……昔から女優になるのは夢で……。
でも、最初の頃は全然売れなくて。仕方なく、グラビアで顔を売って。
いつか本当にスターになってやる、って、ずっと思ってましたから。
この花の名前みたいに。揺るぎないものに」
力強い瞳だった。
夢を語る彼女。
ううん。夢を叶えた彼女――。
潤も――そんな気持ちで芸能人になったの?
宇宙の膨大な星の中から、たったひとつだけ名も無い小さな星を探し出すくらいの確率の。
選ばれた人のみが。
ほんの一握りの人が上れる階段。
だけどそこに辿り着くのには、才能だけじゃなくて。
あたしには到底考えられないくらいの、努力も必要なんだろう。
――小さな星。
あたしなんかよりも、ずっとずっと、彼女の方が似合う花。
その名前に、相応しい。
あたしは、テーブルの上のホワイトスターに手を伸ばした。
「もし良かったら、どうぞ」
そして矢沢カンナにそれを差し出した。
彼女はほんの少し驚いた顔をしてみせる。
「え……だって……。いいんですか?
誰かにプレゼント、とかじゃ……?」
あたしは微笑んで小さく首を振った。
「家に飾ろうと思っただけだから」
――ほんの数時間前に、願いを込めた花……
あたしは夢を掴んだ彼女の凛とした手に、ホワイトスターを渡して握らせた。