23

カタン、と。小さな音が立ち、ハッとその音の方へと視線を落とした。

カウンターの上から転がり落ちた水色の色鉛筆。
それを拾い上げて、壁の時計を一瞥した。

――11:22

店で花を眺めながら、ライフスターで次に生ける花のイメージを膨らませようと、さっき彰くんが座っていたスツールに腰掛け、スケッチブックを広げていた。
それなのに。結局、1ページも進まないままでいる。


――丸越デパート。

香織の働いている百貨店だ。

今日行って……一体潤の何が分かるんだろう……。


さっきから。ずっと。
彰くんの言葉が、繰り返されている。
鮫島さんの言葉も一緒になって、あたしの頭の中を占領して、他に何かを考えさせてくれる余地を与えてくれない。

あたしは――二人の言うように、本当に潤の事を何も知らなくて……。
それをまた思い知らされたような気がした。


潤がここで花の仕事をする事は、そんなにおかしな事なの?

それに……


――『アイツはいつもオンナにはそう言うんだけど』


あれはどういう意味?
いつもって、何?

最初。潤は『ホストみたいなモン』と言っていた。
それも関係してるの? そんなに色んな女の人と関わりがあるの?


――アイツ、その揉めた女とキスしてたぞ!

――利用されてもいいとさえ、思ってるの。


敬太の言葉も、鮫島さんの言葉も。
その事に全て繋がっているようで――。

ぐるぐるぐるぐる。
頭の中を色んな事が駆け巡り、色んな想いが交錯していく。


潤から話してくれるのを待ちたいという気持ちは、嘘なんかじゃない。
なのに。
どうしようもない不安や、あたしだけがなにも知らないでいる事への焦燥感は大き過ぎて。
潰れてしまいそうな程、それはあたしを圧迫して、飲み込まれそうになる。


深呼吸をするように、大きく息を吸い込んで、細く吐き出した。

こんな自分は嫌で。
それを振り切って気持ちを奮い立たせるように、あたしはスツールから勢いよく立ち上がった。


ガラスケースを開き、中から1本、ホワイトスターを抜き取る。
それを新聞紙で包み、スケッチブックをバッグの中に押し込んで、あたしは店を出た。






雨は朝よりも、ほんの少しだけ強くなっている。
傘を差さずに歩けるくらいだけど。
細い霧雨は肌に纏わりつくような感じがして、不快だ。

手に持つホワイトスターを、ふと、顔の近くで覗き込む。
あたしの不快感とは反対に、雨粒は花びらや葉に小さなビーズを乗せたように煌めいて、店で見るよりもずっと活き活きとして見える。


――ちっちぇー星


潤、そう言ってたな。
……本当に星みたい。

小さな星。
潤から貰った、あたしにとってはトクベツな花。

あの時の花は、もうとっくに枯れてしまったけど。
あたしの心の中には、ちゃんと変わらずに咲き誇っている。

――『信じ合う心』
あたしは何故か、無性に部屋にこの花を飾りたくなった。
さっきから続く、不安のせいからかもしれない。


ずっと傍にいて、潤……。


花を優しく抱き締めて、小さな星に願いを込める。

馬鹿みたいだけど。
本物の星に願いを込めるよりも、ずっとずっと、あたしらしい気がした。



パ、パ、パ、と。車のクラクションが後ろで急に鳴った。
浸っていたあたしは、その音に驚いて顔を上げる。
すぐにその音の元は、あたしの横に停まった。

古い型の黒のチェロキー。
年式にまで拘って探していたのも知っているから、すぐに分かる。敬太の車だ。


「葵。何やってんの?」


ウィーンと機械音が立って、サイドガラスが開くと、そこから敬太が顔を覗かせて言った。


「家に帰るトコ……。
敬太こそ。何処か行くの?」

「帰んの? 
あ。そっか、水曜って定休日にしたんだっけ? お袋が言ってたな。
つか。オマエ、乗れよ。濡れんじゃん」

「え。いいよ。家まですぐだし」

「ばーか。オマエが遠慮すんなんて、らしくねぇっつうの」

「………。
うん。じゃ……」


あたしは助手席側に回り、敬太の隣に乗り込んだ。
ドアを閉めると、敬太はすぐに車を発車させた。

ガラスが曇るのを防ぐせいか、車内はエアコンが効いている。
湿った肌や服が、すうっと冷やされていく。


「今日、あいつは? 一緒じゃねぇの?」

「うん。病院行ってるよ」

「病院?」

「昔お世話になった人の、手術なんだって」

「……ふーん」


敬太は前を向いたまま素気なく答えて、少し合間を置いて続けた。


「オマエ、じゃ、今日暇か?」

「え? あーまぁ」

「今から香織と会うんだよ。オマエも一緒に来いよ」

「香織と? あたしお邪魔じゃない?」

「………。どっちかってといて欲しい……」


いて欲しい? 何、それ……


「何よ。香織と喧嘩でもして気まずいとか?」


あたしがそう訊くと、敬太はほんの少し押し黙る。


「そーじゃ……ないんだけど……」

「じゃ、何で?」

「まぁいいじゃん。
香織もオマエに会いたいだろうし。たまには三人てのも」

「……? うん」


何だろう……? 何か上手くいってないのかなぁ……?


敬太がこんな事を言うのは初めてだ。

だけど、正直。あたしも、香織と敬太が一緒にいてくれる事は嬉しかった。
一人でいたら、堂々めぐりな事ばかり考えてしまうから。
潤の事は、話してくれるまで待ちたいと思っているのに、それとは裏腹に知りたくて仕方のないあたしが、黒く大きく潜んでその領域を侵してくるから。
――なるべく考えないようにしていたい。









ワイパーを動かす程でもない霧雨は相変わらずで。
小さな小さな雨粒が、フロントガラスを埋め尽くしている。
その向こう側の行く手も、雨が街を包んだようにぼんやり霞掛かる。

あたし自身、あまり喋る気にならないというのもあったけれど。
いつもは多弁な敬太も、殆ど喋らなかった。
やっぱり何だか様子はいつもと違う。
ここのところ、敬太はやっぱり少し変だ。

ぼーっとしながらそんな事を思っていると、左にウインカーが出た。
大きな建物の駐車場へと車は入り、明るいとは言えなかった視界が更に薄暗くなる。
クリーム色の壁の天井も煤で汚れていて。年季の入ったビルだと思った。


ここ、どこだろう?


「ねぇ、敬太。何処に着いたの?」

「んぁ? 丸越の近くの駐車場」

「えっ!?」


丸越!?


「何、驚いてんの? 丸越の駐車場だと混んでてなかなか入れないから。
ここも歩いてすぐだし」

「や。そーじゃなくて……! 丸越? 香織んとこの百貨店?」


敬太は怪訝な顔つきで、眉を寄せて一度あたしを見る。
だけど、駐車場の空いている場所を見つけ、すぐに何もない風に、そこに車を駐車し始めた。


「それ以外に丸越ってトコってあった?」

「だから……! そーじゃなくて……!」

「香織と正面玄関で待ち合わせしてんだよ。
何でも今日、午前中どうしても仕事に出なきゃいけないとか。
つーか。葵、マジでどうした?」


簡単に車は枠内に収まり、敬太はそう言うと、ギアをパーキングに入れ、あたしを心配そうな顔つきで覗き込んだ。


「――……」


……気に……し過ぎかな……あたし。

考えてみれば。
ココに来たからって何が分かるというのだろう。
今迄だって、何度も来た事がある。特別に変わったところがあるわけでもないし……。
潤に関わりが深いものがあるとも思えない。

彰くんは、あたしに『好きなんだろ?』とか、言う位だ。
もしかしたらカマをかけただけかもしれない。
あたしの反応を楽しむ為に――……。


「何でもないよ。行こうか?」


そう言って、あたしは助手席のドアを開けた。











平日の昼間だというのに、丸越デパートの正面玄関に着くまでにも、相当の人が賑わっていた。
デパートの中にも、ひっきりなしにお客さんが入って行く。

しかも、百貨店という場所柄にしては、若い子が多い。
制服は着ていないけれど、高校生じゃないかという感じの子達も結構いて、何かがあるのかと思わせられる。


「ね。何か今日、随分人が多くない?」


何も気にしないように隣を歩く敬太のシャツの裾を引っ張った。


「あー。今日、丸越で矢沢カンナのイベントがあるとか言ってた。
だから香織、その準備の手伝いがどうとか。昨日、残業遅くまでやった社員の子の代わりに午前中だけ仕事に入った、とか……」

「矢沢……カンナ……?」

「葵はあんまりテレビ見ないから知らねーよな? 今売れてる女優らしい。
オレも、CMで見るくらいでよく分かんねぇんだ。
何でも、元グラビアアイドルだとか?」


そう言えば、この間香織が言ってたっけ? 今日だったんだ。



「敬太くん!」


敬太の左の向こう側で香織の声がした。
右隣にいたあたしは、寄り掛かっていた壁から身体を離し、顔をひょいと出す。

あたしが一緒にいた事に気が付かなかった香織は、驚いた顔を見せた。


「葵ちゃん……」


だけどそれはあまりにも驚いた顔で。
それ以上、固まって動けないようで。


もしかして、一緒に来たら不味かった……?
何か、変な誤解させたとか……?
さっきの敬太の様子も変だったし……。


「偶然会ったから。オレが一緒に来いよって誘ったんだ」


敬太がそう言うと、あたしも間髪入れず、


「ごめんね。お邪魔だった?」


と、笑みを作った。

香織も苦笑いを零す。どうしていいのか分からないと言った表情だ。


「そんなんじゃ、ないの――……。
あっ、行こうか? お腹空かない? もうお昼だし!
向こうにね、美味しいレストランがあるんだ」


香織はあたしと敬太の腕を取る。
何だかやっぱり様子が変だ。


「何? オマエ、どうかした?
つか。矢沢カンナのイベント、もう始まるだろ?
一緒に見ようって言ったのオマエじゃん。
矢沢カンナ、生で見てみたいって」

「それは――……」


泣きそうな顔で、香織は敬太からあたしへと視線を移した。


意味が――分からなかった。
何で香織がそんな顔をするのか。

敬太との事で変な誤解したんじゃないの?


香織が再度掴んだ腕に力を入れると、店の奥から歓声が上がった。


「始まったみたいだぞ? 行こうぜ?」


敬太は香織に掴まれた反対の手で向かう側を指差し、行こうと促す。

歓声の中から、マイクを通した大きな声が、ここにいても聞こえてくる。


『皆さん、コンニチハー』


高くて澄んだ、可愛い声。
芸能人って、声まで特別なんだ? なんて、思う。

その声に引き寄せられるように、あたしは店内を覗いた。
人垣の向こう側に、頭一つ抜けて女の子が見える。
簡易ステージは低い造りらしく、遠めからだとぎりぎり顔が見えるくらいだ。
それでも、目鼻立ちがハッキリしたお人形みたいに可愛い子だと、ここからでも分かる程、目立ってオーラがある。


「すっごい可愛い……」


思わず漏れる、感嘆の声。
その場に立ち尽くして見とれてしまった。

今迄、全然知らなかったタレントなのに。こういう時ってどうして興味が出るのだろう?
やっぱりそれが一般人と芸能人との差なのだろうか?
何か人を惹き付けて離さないものがある。

初めて間近で芸能人をみたあたしは、得も言えぬ気持ちになった。

彼女は――もうすぐ公開される映画に主演をしているらしく、司会の女性の質問にてきぱきと答えている。


「葵が一番興味あんのかよ?
こんなトコで見てないで、見るなら中に入ろう」


敬太がふっと笑いながらそう言って、ポンと、あたしの肩を押した。
香織は困惑したような面持ちで、一度あたしをちらりと見たけど、敬太に促されてそのまま歩き出した。

入り口のところでは、ブルーの法被を着たスタッフが、チラシを入店する客に配っていた。
多分――ステージで話している、映画のチラシのようだ。

あたしも例外なくそれを手渡され、受け取る。
何の疑いも無く――……


歩きながら、ふとそこに目を落とした。

『only』――掠れた筆記体のタイトル。

恋愛映画のようで。
ゆっくりと写真に視線を移動する。

蒼い海と空をバックに、砂浜で手を繋ぐ二人。
だけどその二人を見たとき――ハッと目を見張った。

足がピタリと止まる。
足だけじゃなく、身体も固まって動かない。
目はそこに釘付けにされたままで。
驚きのあまり、声も奪われたように出ない。


手を繋ぐ二人。
その一人は、今、目の前のステージと同じ笑顔で。
もう一人は、潤と同じ顔で――……


え。嘘……
何? コレ……


主演と印刷された矢沢カンナの文字の横に、カタカナでジュンとある。


――ジュン?

や。だって……まさか――


自分を疑う。

だけど。
いくら小さな写真だからといって、見間違える筈がない。

顔だけじゃない。
手も、腕も、肩も――写真の中の人物が潤だと、示している。
似ている、では済ます事が出来ない。


頭の中は、パニックになったみたいに真っ白に吹き飛んだ。
手の中にある――目の前のこのチラシが持つ意味を、上手く消化出来なくて――


――『今日の昼頃。丸腰デパートに行ってみなよ。少しは潤の事、分かるかもよ?』


笑みを含んだ彰くんの顔が、思い出される。

それだけじゃ、ない。
鮫島さんが、何で花屋なんて合わないと言ったのか――今迄言われた言葉の意味が、繋がり始める。
潤が何故、今迄あたしに何も言わなかったのかも――……


嘘でしょう!?


色んな意味が頭の中で繋がっていく程、まるで意識が遠退くように、身体の現実味が無くなる。
身体が震えて――力が出ない。
目の前の敬太と香織も、天井も、床も、ぐらぐらと視界が歪んで回っているようで――今、どこに立っているかさえ分からなくなってくる。


「葵?」


敬太が、立ち止まったままのあたしに気が付いて振り返った。
その時、勢いよく、誰かが後ろからぶつかってきた。

チラシも、ホワイトスターも、それと同時に手の中から滑り落ちる。
潤が写るその薄い紙は、ゆっくり床へと舞っていく。


不思議そうな顔をした敬太の姿も、驚いて青ざめる様子の香織も。
チラシの中の潤の笑顔も、ホワイトスターも。

大きく歪んで、あたしは膝からその場に崩れ落ちた。

 update : 2008.07.08