22

……緊張する。
どうして電話ひとつでこんなに緊張するんだろう……。
ただ、お礼を一言。言えばいいだけなのに。

『気を遣って準備金まで用意して頂いて、有難うございました』

脳内で何度も反芻した言葉。


そう言えばいいだけ。
それだけなのに……。


心臓は大きくドクドクと音を立てる。
受話器を持つ掌には薄っすら汗までかいて。
それなのに指先だけは凍りついたように冷えている。

耳元で響く保留音は『エリーゼのために』で。
高い音がくり返し頭の中に反響して煩い。


『お待たせしました。鮫島です』


急に途切れた保留音。
鮫島さんの落ち着いた声が聞こえてきて、どきっとする。


「こんにちは。お世話になっております。pure greenの穂積です」

『こちらこそ、お世話になってます』


ごくりと、固唾を飲み込む。


「あの……、準備金、受け取りました。
気を遣って頂いて申し訳ありません。有難うございました」


そう言い切ると、少しだけほっと肩の荷が下りる。


『ああ……。わざわざ電話くれなくても良かったのに。
お礼なら潤からちゃんと聞いてるわよ』

「あっ……はい……」

『潤から聞いてるかと思うけど、結構、評判いいのよ。
私もね、あなたの生ける花は好きだわ』


え……。
ホントに……?


「有難うございますっ!」


確かに潤からは聞いたけど。
直接言ってくれるなんて! 嬉しい!


『今、潤はいないの?』

「はい。車で花の移動販売に行ってます」

『移動販売?』


鮫島さんは、驚いたような声を上げた。


『……どういう事?』

「あ……、ミニブーケやアレンジメントをいくつか作って、車で簡易店舗みたいにして、駅前とか路上で売ってるんです」


そういうと、彼女は黙り込んだ。
そして、すぐに受話器の向こう側から、長く息を吐き出す音が聞こえた。
呆れた、とでも言う声が聞こえてくるような音だ。


――何……?


『そういう事を訊いてるんじゃないの。
あなたと潤の関係がどういうものか知らないけど、潤の事、何も知らないのね。
潤にそんな事をやらせるの、止めて欲しいの』

「えっ……」


ずきり、と。大きく心臓に響く痛みが走った。


――何も、知らない……


「あの……っ」

『少し、潤と話し合った方がいいわ。』

「―――!」


きゅっと唇を噛み締めた。

言われているのは本当の事。
あたしは潤の素性は何も知らない。

だけど――


「あたしは――確かに潤の素性は知りません。潤もあたしに何も言いません。
だけど潤は、ココにいて花屋を続けたいと言っているし、初めて仕事が楽しいって
思ったって言ったんです。あたしはその言葉を信じています。
潤が何も言わないのはそれなりの理由があると思うし、言わないならそれでいいんです。」

『――……』


鮫島さんは黙り込む。

受話器の向こうから、小さく息を飲む音が聞こえた。


『穂積さん』

「……はい」

『分かってると思うけど。私は潤が好きなの。
彼の為に何でもしてあげたいと思う』

「………」

『本人がそれを知っているか分からないけど。
利用されてもいいとさえ、思ってるの』


利用って……。
何よ……それ……。
それほどまで、潤が好きなの――?


『潤には花屋なんて向かない。
私は、あなたが憎らしいわ……』

「―――!!」

『失礼します』


彼女の冷めた口調の後には、すぐに無機質な電子音が響き出した。

あたしは耳からそれを離し、強く握り締めた。



――『潤には花屋なんて向かない』


ぎゅっと胸が痛む。

何で鮫島さんはそんな事を言うの!?


彼女の言葉は、声のトーンまでがあたしの頭の中に鮮明に残っていて、何度も繰り返される。

大きな不安と暗影。

だけど。
それを打ち消すように、朝の潤の言葉を思い起こす。


――『オレ、ずっとここにいちゃ駄目?』

――『葵の傍でやりたいんだ』


……うん。


潤が言った言葉を信じたい。
それが潤の本心だって。


本当は。ちゃんと。
潤のコトを知りたい。
今迄、何をしてた、とか。何処からきたのか、とか。
何も知らずにいたくない。

潤の全てを知りたい。


だけどあたしは。
潤の方から全てを話してくれるまで――待ちたい。



受話器を戻すと、今日市場で買ったアジサイの鉢が目に入った。
まだ蕾ばかりで花の色もついていない早咲きのアジサイ。
芽吹いたばかりの若葉は、瑞々しくてそれでいて力強い。

あたしはその葉をそっと指で撫でた。










潤は店に戻ってくるなり、にんまりと嬉しそうな顔をしてみせた。

500円と1000円のミニブーケを15束ずつに、1000円のアレンジメントを20個。
この時間に戻ってきたという事は、その数を全て完売してきたのだろう。


「お疲れ様! もう全部売れたの!?」

「んー、勿論! 凄い?」

「うん。凄い……」

「褒めて、褒めて〜」


冗談で甘えた声を出す潤。
あたしは背伸びして手を伸ばし、「よしよし」と、頭を撫でた。

短いけどサラサラの髪。
指の隙間を通り抜ける。


全く、可愛いヤツ……。


しょうがないわね、という顔つきをしてみせたけど、内心は物凄く嬉しかったりする。
こうして潤に触れるのは、幸せな気分。


だけど。
それと一緒に胸が締め付けられる。

ぎゅーっと、絞るように。強く。
苦しい。

さっきの鮫島さんの言葉が、何度も何度も頭の中を掠めていく。


――潤の事、何も知らないのね。

――私は潤が好きなの。

――利用されてもいいとさえ、思ってるの。

――潤には花屋なんて向かない。


朝、潤は花屋になりたいと言ったばかりなのに。

向かない、って。何で?
そんなの本人が決める事なのに。


それに……

潤にとっての鮫島さんは、どんな存在なの?
気持ちに気付いてるの? 潤はどう想ってるの?


本当は、不安で仕方無い。


そんな不安を閉じ込めるように、掌を力いっぱい握る。


「潤――」

「えっ?」


あたしの声掛けに、潤は少し驚いたように振り向いた。


「あー、何?」


だけど。
いつものように、すぐにあたしに向かって笑顔を作った。


何?


思わず、視線は潤の後ろに走り、見ていたものを確認する。


カレンダー?


「どうか、したの……?」


そのあたしの問い掛けに、潤は少し渋い顔をした。


「やー……。何でもないよ」

「何よ。気になる……」

「ただ……、ここに来て、もう3週間以上も経ったんだな、って……」

「え? うん……」

「楽しい時間って過ぎるのが速いよな……」

「……うん」


楽しい時間……?

じゃあ……何でそんな顔するの?


目の前の顔は笑顔なのに。
それは作られたモノのようで。
あたしには。辛そうに見える。


何故か――また大きく不安が膨れ上がる。


――潤?


「そういえば、さ」

「え?」

「来週の定休日なんだけど……」


潤は神妙な面持ちで、そこで一度口籠もった。


「定休日? どうかした?」


2週間前から、水曜日を定休日と決めた。
あたしが倒れた日に、潤に言われたからそう決めたんだけど。
ライフスターの仕事は、店が終わってから会社に行って遅くまで作業をする。
体力的にも精神的にも、休みも無くずっと働き続けるのは確かに無謀だ。


潤はほんの少し黙り込んだ後、ぽつりと言った。


「園長が手術なんだ」


手術……? 園長の……?


「そうなの……。何時から? 潤、行くんでしょ?」

「うん。10時からなんだけど。時間はかなりかかるだろうって言われてる」

「そう……。
手術、成功するといいね」

「うん。ありがと」


少し。はにかんだように薄く笑って答えた潤。


――『ありがと』

自然とあたしに向かって出たその言葉。
園長は潤にとって、特別な人だからだろう。

――この間。
潤の友達は、『末期の胃癌』と言っていた。
末期というくらいだ。多分、胃だけじゃなく、転移しているんだろうと考えられる。
潤は相当心配しているだろう。



「ところで葵、さっき何か言い掛けたよな? ゴメン、何?」


普段の調子に戻ったような顔つきになる。
そんな様子にほっとするのと同時に、何て答えていいのか慌てる。


不安が膨れ上がって、ただ名前を呼んだだけ、なんて。恥ずかしい……。


「え……。あー……何でもないよ。大した事じゃないし!」

「んん? 何っ?」


怪訝そうな顔をする潤。


えーと、えーと……
あっ!


「夕飯何かなーとか思っただけ」

「夕飯?
今日はライフスターに行くから、車の中で食べられるように、焼肉ライスバーガーにした。
レタスたっぷり入れといたよ」

「さっすが潤! 気が利いてるっ」


パチン、と。顔の前で手を合わせて、あたしは笑顔を作ってみせた。












細い雫は蜘蛛の糸のようだ。
目を凝らさないと見逃しそうな程の弱い霧雨。
道の先はぼんやりとし、雨の独特な匂いがする。
傘を差さずに歩き出したけど、髪も服も次第にしっとりと湿気を含み出す。


「何だか嫌な天気だね」


雨に煙る重たい鉛色の空を見上げながら言った。


何だか……。
朝起きたときからずっと、訳もなく落ち着かない。
神経が尖っているように、ぴりぴりとする。


「……そうだな」


すぐ隣を歩く潤も、あたしと同じように空を見上げた。

潤はいつもよりも、ずっとずっと口数が少ない。
あと2時間もすれば、園長の手術が始まるのだから、気が気で無いのは当たり前の事だ。


「葵は家でゆっくりしてれば良かったのに」

「休みって言っても、習慣で早く起きちゃうんだもん」

「まぁ。そーだよなー」

「それに、店にスケッチブック忘れちゃったから、取りに行かなきゃならなかったし。
どうせなら、潤と一緒に家出てもいいじゃん? 病院と方向一緒なんだから」


あたしがそう言うと、潤は間近で覗き込んできた。


「一人で歩くの寂しいから?」

「それは潤でしょ?」


ちろりと上目遣いで見てから、さっきから触れそうな程近いのに、触れる事のなかった隣の掌を取った。


「不安そうな顔してるよ」

「………」


潤は黙ったまま、あたしの手を握り返してきた。
そこから、潤の波立った心情が伝わってくるようだ。
不安や、心細さが……。

あたしもぎゅっと握り返して言う。


「病院まで一緒に行くよ」


だけどそう言うと、潤は一瞬、表情を固めた。


――え?


なのに、まるでそれを隠すように、すぐに笑顔を作った。


「オレが手術するワケじゃないんだけど?」

「や。そーだけど……」

「へーきだよ。ほら、もう、店着くじゃん」


家からたった5分の店までの距離。それはあっと言う間で。
手を握り合っていたのも、ほんのほんの、僅かな時間。

店の前に着くと、潤からあたしの手を解いた。


「じゃ、行ってくる」

「……うん」


あたしを店の前に残し、真っ直ぐ道を進んでいく潤。
その後ろ姿は雨のせいで、いつもより簡単に霞んで見えなくなった。


病院に着いたらそのまま戻るつもりだったのに……。
病室までなんて付いて行くつもりなんてなかったのに……。
それでも、あたしが一緒に行くのは嫌だったのかな……。


――『売られたようなモンなのに』

この間、彼が言っていた言葉。

園長とは――潤の過去が深く繋がっているんだろうけど……。
やっぱり……あたしには知られたくないんだよね……。


細く長く溜め息を吐き出す。
その長さだけ、胸も圧迫されて息苦しい。


店のシャッターに鍵を差し込み、押し上げようと下から手を掛けた。


「あれ? お姉さん?」


背中越しに聞こえてきた男の人の声。
自分に掛けられたものとも思わず、シャッターを上げると、ガラガラと金属の大きな音に混じって、「潤は?」と聞こえた。

聞き逃す事の出来ない名前。
あたしは驚いて急いで振り向く。


「コンニチハ」

「きみ――……」


――潤の園の友達……


目の前の男は、にっこりとあたしに満面の笑みを向ける。
だけど何か作られたようなその笑顔に、あたしは嫌な予感さえ覚えた。


「潤、もう病院行っちゃったの?」

「あ……うん。つい、ちょっと前まで一緒だったんだけど。
追いかければ追いつくかもしれないよ?」

「いいよ。どうせ病院で会うんだから。
それより、花、買える? 開店前で駄目かな?」

「……ううん。どうぞ、入って」


あたしは急いでガラスのドアの鍵を外して開き、彼を店の中に入るように促した。

彼の後に続いて店に足を踏み入れると、人気の無かった店内は、ひやりと空気が冷えて感じる。


「アレンジメントでいいのかな?」

「お姉さんにお任せします」


彼はまたにこりと笑うと、カウンターの前にある、お客様用のスツールに腰を掛けた。

あたしは小さな籐かごと、花を差すオアシスを取り出し、アレンジメントを作る準備を始めた。

彼はカウンターに片手で頬杖を付き、作業を始めたあたしを黙って眺めていた。


「えーと。そういえば名前、何ていうの? 訊いてなかったね」


ケースからオレンジ味のかかったのカラーを2本抜き出しながら、あたしは彼に訊いた。


「彰(あきら)」

「彰くん……。良い名前だね」


そう言ったあたしを、彼は訝しげに見つめる。


な、何か変だったかな……?
気分悪くさせた……?


張り詰めた空気に飲み込まれ、あたしは口を噤んで手を動かした。

彼も黙ったままあたしの手先を見つめている。


カラー、バラ、シンビジューム、スイトピー……
オレンジ系の花を強過ぎないように、柔らかな雰囲気に仕上げたアレンジメント。
黄・オレンジ系の花は、元気が出る色と言われている。

それをフィルムで包み始めると、彼は身体を動かさないまま口を開いた。


「潤、いつからお姉さんのトコにいるの?」

「えっ……? え、と。4週間くらい前……かな……?」

「ふーん。もうそんなにいるんだ?」

「………」


何だか……。嫌な雰囲気だ。
彰くんは……あまり潤の事を好ましくないみたいだし……。


「いつまでココに置くつもり?」

「いつまで……って……別に……。潤はずっといるって言ってたけど」


あたしの言葉に、彼はぶーっと吹き出した。
そして今度は、くつくつと馬鹿にしたように笑った。


「……なっ、何!?」

「まあ。アイツはいつもオンナにはそう言うんだけど。
でも、今のアイツはそういう状況じゃない筈なのになぁー」


ドクンと、心臓が大きく嫌な音を立てる。


――いつもオンナには?

――そういう状況じゃない?


あたしの知らない潤。
一体、彰くんは何が言いたいの!?


「何? 何なのっ?」

「ハハッ。そんなに怖い顔しないでよ?
やっぱり何も知らないんだなぁ〜おねーさん。そーだと思った。
大体、潤がこんな所で働くなんてさぁ」

「こんな所とか言わないで。
それに潤はココで働きたくているのよ。
確かに潤の詳しい事は何も知らないけど、あたしはそれでもいいの」

「気になって仕方無いクセに。
どうせ、アイツが好きなんだろ? 馬鹿だよなー」


かあっと、頭に血が上った。

もうすぐ完成する筈のアレンジメントは途中のまま、カウンターの上にいつもよりも乱雑に置く。


「あなたに何が分かるのよ!!」


思わず張り上げたあたしの声が店内に響いた。


煽られているのは分かっていた。
それでもこんな風に言われて、何も言わない訳にもいかない。


彰くんは、スツールに腰掛けたままあたしを上目遣いで見上げ、口元を楽しそうに歪める。


「今日の昼頃。丸越デパートに行ってみなよ。少しは潤のコト分かるかもよ?」


彼はそう言ってまた口元を引き上げ、不揃いな白い歯を見せた。

 update : 2008.07.02