21
どうしようもなく、落ち着かない……
イライラする……
鬱屈した気持ちは、あれからずっと続いていた。
一晩経ってもそれは消えてくれない。
「葵、着いたぞー」
潤の手があたしの肩に触れて、起きろと身体を揺さぶる。
車の緩い震動が止まって、エンジンが停止された。
あんまり調子が良くないと言ったあたしに、潤は「着くまで寝てろ」と、言ってくれた。
だけど勿論、調子が良くないなんて、そんなのは嘘で。
家からここまでの間、ただ瞼を閉じて寝た振りをして時間をやり過ごした。
「葵?」
心配そうな潤の声が、真っ暗な視界の向こう側から聞こえる。
もう、起きなきゃ。
分かってるけど……瞼を開けたくなかった。
起き上がってしまったら、潤に対して嫌な事を言ってしまいそうで。
だけど、そんな一時しのぎの時間はもう終わり。
どうにか普通の態度を取らなきゃ。
だって。
これはただの焼きもちで――
潤にとっては、こんなの、迷惑なだけに過ぎない。
「大丈夫か?」
車から降りる瞬間、潤はあたしの腕を取って身体を支えた。
だから……。
何でこういう時にやっぱり優しいのよ?
本当は体調なんて何でもないのに。
罪悪感に、ちくりと胸が痛む。
「平気、だから」
「何だよー。あんまり無理すんなよ?
この間だって、風邪でぶっ倒れてるんだし」
「へーき、だって……」
握られた腕を振り解くように、手を引っ込めた。
なのに、逆に掌を取られる。
えええっ?
「行こ」
ぎゅっと握られた掌。
繋がれたまま、引っ張られて行こうと促される。
なっ、何で、手、繋ぐかな!?
もしかして、あたしがイライラしてるの分かってるんじゃないの?
それが何でか、って――原因も。
今日は――ライフスターの花の交換に行く。
その分の花の買い付けをしなくちゃならないのに。
何をメインにするかさえ、未だにハッキリとは決まっていないままで……。
仕事を一番に優先しなくちゃならない。
そんなのは、当たり前の事。
それが出来ないなら、店の経営なんてやっていける訳がない。
それなのに、頭の中は潤の事が占めていて、そこには到達してくれなかった。
こんなんじゃ、駄目――
そう、分かっているのに。
鮫島さんに呼ばれて逢いに行って。
敬太には女とキスしてたなんて聞かされて。
その上、帰ってきたらお金を渡されて。
正直、あんなお金、突き返したい気持ちでいっぱいだった。
鮫島さんがそこまでしてくれるのは、あたしの為でも、店の為でもない。
潤の為だから。
そうじゃなきゃオカシイ。
始まったばかりのこの仕事――あたしにも、店にも、そこまでする義理なんて何一つない筈だ。
そして、あたしも。
そこまでされる義理なんて、ない。
こんなの、見下されてる気さえする。
だけど、受け取るしかなかった。
断る理由なんて見つからなかった。仕事上の事だし。
借金の返済に、回転資金。
ライフスターの仕事は大きいから、毎回それなりの金額がかかる。
いくら売り上げが伸びているからと言っても、1ヶ月後の報酬の入金があるまでは、相当キツイ事は確かで。
仕事が大きい分、その資金繰りに頭を悩ませ初めていた事も事実だった。
潤はそれも分かっていた。
一緒にいて、一緒に仕事をしているんだから、分からない筈がない。
それでも――そのお金を潤から渡されたくなかったのに。
あたしに、あんな風に花なんてくれないでよ。
余計に好きにさせないでよ。
嬉しいのに。
嬉しくて仕方無かったのに、苦しくさせられる。
気付いてしまった気持ちを。
どうやって封じ込めればいいのよ……。
一歩先を歩く潤を見つめて、あたしは繋がれた掌をぎゅっと強く握り返した。
――ライラック
豊かな香りを放つ丸みを帯びた薄紫の4枚の花びらに、大きなハート型の葉。
フランス語で『リラの咲く頃』とは、一番良い気候を現しているそうだ。
温かく、心地良く過ごせる晩春から初夏を彩る花。
せりが始まって、一目見たとき。
あたしはこの花に決めた。
あんなに昨日、潤の事しか考えられなかったのに。
せりに出た途端、花に集中出来る自分が不思議だった。
白のトルコキキョウにナルコラン……
あとはレースフラワーなんか加えてもいいな……
自然とイメージが湧く。
目を瞑ると浮かぶ、花の城。
あたしって、こんなだっけ?
こんな風に花のイメージを作る事なんて出来たっけ?
瞼を開く。
そこに飛び込んでくる、潤の笑顔。
隣に座る潤は、あたしを間近で覗き込んで、嬉しそうに微笑んでいる。
胸が、きゅっとする。
あたしの傍にある、この笑顔――。
「イメージ膨らませてた?」
「う、ん。そう」
「楽しみだな、今日の夜。
どんな風に生けられて出来上がるか」
「うん」
「オレ、葵の花、ホントに好きだよ」
「――……」
「だから、色んな人に見て貰いたいと思う」
「う、ん……」
だから……
何でそんなコト、言ってくれちゃうの?
あんなにイライラしていた気持ちは薄れて。
ただ、純粋に胸を甘く締め上げる。
……訊いてみよう。敬太が言っていたコト。
女の人とキスしてた、なんて……敬太の見間違いだよ、きっと。
そうであって欲しい。
疑って、こんな鬱々とした気持ちでいるのは嫌だ。
潤の事を信用したい。
「潤」
「ん?」
「この間……、香織を送った日、誰かに会った?」
「えっ……?」
きょとんとした顔。
何を言われてるのか分からないといったような感じだ。
そんな潤の顔つきに、ホッとする。
「香織を送った後に、誰かと」
「誰とも会ってなんかないけど……何で?」
「敬太が……潤に似た人を見かけたって言ってたから。
飲み会の帰り、女の人といたのを見た……って」
だけどそう言うと、思っていたよりも、潤はずっと驚いた顔をした。
えっ。嘘。何で?
何でそんな顔するの? まさか……
急激にまた不安感が高まって、台の下で両手を組み合わせてぎゅっと握って、潤の返答を待った。
潤はほんの少し黙り込んだかと思うと、眉を寄せて言った。
「……他人のそら似だろ?」
そら似……?
「じゃあ、やっぱり潤じゃないの?」
「だから、何でオレなの? 知らないし」
「そー……だよね」
前へと向き直し、安堵の息を吐き出したいのを抑えて、心の中で胸を撫で下ろす。
いくらなんでも……オカシイもんね。
訊いて良かった。
そうだよね。誰かと会う暇なんかないよね?
それに、キスなんて……。
ふ。と。
視線を感じて、隣の方を再度向く。
……て!!
笑ってるし!!
「気になってたんだ?」
「別にっ!!
ただ敬太が言ってたから訊いてみただけだもん」
「葵こそ、敬太にいつ逢ったんだよ?」
「昨日……帰り際に店に寄ってくれて。一緒に家まで帰ってきたから」
「ふぅん」
気に食わないといった顔つきで、今度は潤が前へと向き直る。
双眼鏡を目元に当て、黙ってせりの様子を眺め始めた。
何で敬太の話になると不機嫌になるかな?
敬太も敬太だし……。
殆ど喋ったことさえないのに、仲悪いなぁ……。
いくつも横に並ぶ台とせり時計。
正面の台の上に置かれた段ボールからは、シャクヤクが現れた。
ピンク味掛かった赤い花びらが厚く万重に開く、大輪の花。
……綺麗。
せり時計の花情報と商品見本を見比べ、すばやく手元のボタンを押す。
鮮度が命と言われる花。
今、機械せりは一般的で効率が良いけど、昔は手やりという指の動きと掛け声でせりが行われていたっていうんだから、あたしには想像がつかない。
「いいね。シャクヤク。
そろそろ時期の花だよな?」
隣でさらりと潤が言う。
名前だけじゃなくて、ちゃんと時期まで把握してるんだ?
「うん。白も欲しいなぁ。八重のがいいかなー」
「そーだな。今のが万重だし」
「でもさー。ホント、短期間でよくこんなに花の事、色々覚えたね。
潤は凄いよ」
「花屋になりたいって言ってんじゃん」
「だって。それは本気じゃないでしょ?
香織とかおばちゃんに怪しまれないように適当に言っただけじゃん」
「本気だよ」
――え?
今言われた言葉に、目を凝らして前の商品の花を見つめていたあたしは、簡単に潤の方へと向き変える。
「トラック買えるまで頑張ろうって言ったじゃん。
オレ、ずっとココにいちゃ駄目?」
ずっと、って。
だって――……
目の前の顔は、真剣なもので。
とても冗談や気まぐれで言っているようなものには見えない。
驚いてただ見つめるあたしに、潤は続ける。
「オレ、こんな風に仕事が楽しいって思うのも、何かをやりたいって思うのも、初めてなんだ。
それを教えてくれたのは葵だから。
だから葵の傍でやりたいんだ」
周りの音がその時だけ切り取られたように。
会場の雑音の中で、ハッキリと聞こえた言葉――
真っ直ぐにあたしを見つめる瞳と一緒に。
――違うよ。
あたしだって、本当は花屋の仕事が好きだった訳じゃない。
潤が教えてくれたんだよ。
今、仕事が楽しいってキモチを。
潤に出逢わなければ。
一緒に仕事をしなければ、きっとこんな気持ちにはならなかった。
それなのに、何をこれ以上望むの?
鮫島さんと潤の関係がどうであれ、潤がこうやってあたしを前向きにさせてくれるのは変わりない。
ずっと傍にいて欲しいのは、あたしの方――
「いてもいいに決まってるじゃん」
あたしは一言だけ答えて、また前を向いた。
それ以上、言葉が出せなかった。
だって。
涙が出そうだったから……。