20
何?それ……
キス?
突然の思いもよらない言葉に、上手く頭は働かなくて。
数秒遅れて、それを理解する。
「そんなの……っ」
そんなの、何?
自分で言い掛けた言葉さえ、何だか分からなくて。
そこで言葉を詰まらせ、目の前の敬太を見上げる。
敬太は、ふう。と。また小さな溜息を吐き出した。
「だから。アイツはそういうヤツだろ?」
「………」
敬太の言葉に、ぐっと唇を噛み締める。
――違う、と言いたい。
だけど、それはただあたしが望んでる事であって、本当の事なんて全く分からなくて。
あたしにキスした事も――本当に大した意味なんてなかった?
誰とでもそういうの、出来ちゃうの?
それとも、敬太の言っている女の人は、潤にとっての特別?
鮫島さんとも――本当はどんな関係なの――?
得体の知れない大きな黒い影が、胸をぐっと圧迫する。
……苦しい。
関係を壊したくないのに。
潤の言う家族とは違う存在になれない事が、酷く重く圧し掛かる。
「これ以上、深みにハマる前に止めておけよ」
「だから……っ! あたしがアイツの事に口出す関係でも無いし!
それに、敬太には関係無いじゃん!!」
「オレは――……!!」
敬太は声を荒げたけど、そこで一度言葉を飲み込み、また小さな息を落とす。
そして、唇を歪めて続けた。
「おじさんとおばさんが亡くなって、葵が一人になって。
辛い中でも気丈に頑張って……。
だけどさ、忘れらんねぇ。あの日、オマエが見せた顔。
もう、オマエに辛い顔なんかさせたくねぇ」
苦しそうに眉を寄せて、あたしを見つめる。
薄く開いた唇からは、噛み締めた白い歯がほんの少し覗けて。
そんな真剣な敬太に、どきりとした。
「……敬太……?」
「帰ろう」
「………」
あたしは黙って小さく頷いた。
敬太はずっと黙ったまんまだ。
あたしも――何かを話す気分にもなれなかった。
頭の中は、潤の事で占めていて――……
ただでさえ、鮫島さんのところに行ってしまって苦しいのに。
それなのに、敬太があんな事言うから、余計。
――キス……
してたのかな。ホントに……
店からたった5分の距離が、さっきからずっとずっと長く感じて仕方無い。
最後の角を曲がる。
ほんの少しの期待。
――潤が、家に戻っているコトへの。
だけど、それは簡単に裏切られる。
敬太の家の玄関からは、薄いオレンジ色の温かみのある灯りが点されているのに。
そのすぐ隣のあたしの家は、真っ暗なままで、主がいない事を一目で示している。
電柱に付いた青白い蛍光灯が、建物を薄っすらと照らして、寂しさを増長させているようだった。
「じゃあな」
抑揚の無い低い声で、敬太が言った。
敬太の家の方が手前なのに。
ちゃんとわざわざウチの家の前まで足を延ばしてくれる。
必ずあたしが家に入るまで見守ってくれるし。いつも。
さりげない、敬太の優しさ。
ぶっきらぼうだけど。
こういうヤツなんだよね。
ふとしたところで、何気に女の子扱いもしてくれて。
「ありがと」
だからあたしも。こういう時は素直にお礼を言う。
この間も昨日も、あんな事があって、正直一人で夜道を歩くのが怖かったし。
一緒に帰ってくれるのは有難いから。
ドアに鍵を差す。
シンと張った空気の中に、ぎぎっと、金属の音が響く。
「葵」
「……ん?」
後ろから声を掛けられて、振り向く。
「………」
声を掛けたクセに、敬太は口を噤んだまま。
だけど、顔付きは真剣なもので、あたしを真っ直ぐに見つめる。
普段の様子とは、何だか雰囲気が違う。
さっきから、ずっと――。
「何?」
「……やっぱ……何でもない」
「は?何よ、気になるじゃん」
「だから、何でもねーよ」
ふい、と。顔を背けて視線を外される。
――何……?
「もー。何よ。この間から、敬太は変!
もういいよ。オヤスミっ」
膨れて背を向け、ドアに手を掛ける。
すると頭の天辺に、ふわりとした感触がした。
敬太の掌が、柔らかく、あたしの頭で跳ねた。
「オヤスミ」
もう一度振り向いた時には、敬太は既にあたしに背を向けて歩き出していた。
もー……。
ホントにワケ分かんないなぁ、敬太は……。
妙に潤に対して突っかかるし、気にするし。
この間も。今日も。
それに。
あたしのコトだって、あんな風に心配するなんて……。
玄関のドアを開ける。
冷えて、暗いまま迎えられる大きな箱。
潤がまだ帰っていないのなんて、分かり切っている事なのに。
それなのに実際家の中に入ると、それを知らしめられたかのように、胸の辺りが重くなり、溜息が零れ落ちる。
まだ、鮫島さんといるの?
二人っきりで――?
考えるだけ馬鹿だと思う。
それも、分かり切っている事。
考えれば考えるだけ、苦しくなるだけなのに。
潤がココに来てからというもの。
一人でこんな風に家に帰るのは初めてだ。
一緒に家に帰る――
そんな事が、どれだけ温かくて安心できるのか。
今、身に沁みて分かる。
貴宏とだって別れたばかりだっていうのに。
潤と暮らしだして、まだ1か月さえ経ってないのに。
それなのに、胸を締める想い。
それは多分、潤が温かいから。
一緒にいる事が当たり前のようで、落ち着く。
潤があたしを家族みたいと言うのも、分かる。
温かいから。
他の人とは違うから。
だから――……
静まり返った廊下に、あたしの足音だけがペタペタと響く。
リビングのドアを開けると、部屋の中の輪郭を、カーテンから透けて入り込む月明かりと防犯灯が照らしている。
何だか電気さえ、付ける気になれなくて。
あたしはリビングの入口にバックを落とし、そのままソファーへと傾れ込んだ。
父がお気に入りだった革張りのソファーは、冷たくて。
あたしの体温を、一気に奪うみたいだ。
傾れ込んだと同時に瞑った瞼を、溜息を吐き出すのと同時に、今度は開く。
――え?
目の端に、白くてふわふわした物が見えて、あたしはすぐにそこに視線を走らせる。
薄暗い部屋の中で、ぼんやりと浮き立つ、白い花――
嘘……
あたしは反射的に飛び起きて、そこに向かう。
ダイニングテーブルの上。
テーブルの上で横たわるソレを、抱き上げて、目の前に掲げた。
ホワイトスター、プラドミント、フリージア……スプレーバラはローズユミ……
レモンリーフにグリーンストライク……
さっきあたしが結び直したリボン……
紛れも無く、潤の作った花束。
何で!?
鮫島さんに持って行ったんじゃなかったの!?
だって、だって……『自分の金じゃないと意味無いから』って、そう言ってたじゃん……!
ふと。視界の中のテーブルの上に、白いものが見えた。
――メモ?
手紙?
『初めて作った花束は、大好きな葵へ』
手に取ると、薄暗い中なのに、その文字はハッキリ見えて。
窓から入る光が、まるでそこだけを照らすように、目に飛び込む。
――信じらんない……。
大好きって、何よ……。
もう!!
ホントに信じらんない!!
込み上げる疼痛と嬉しさ。
それと比例して、締め付けられる胸。
苦しい。
決して、恋愛感情じゃ無い、『大好き』という言葉。
瞼が熱く痺れる。
自然と浮かんでくる涙は。
嬉しさのせいなのか、苦しさのせいなのか……
どっちだか分かんないよ――
固く瞼を閉じて、花束を抱き締める。
甘い香りが、余計にあたしの胸を締め上げて仕方無い。
かち。と。
小さな音がした。
玄関の鍵の音。
潤!?
急いで滲んだ涙を拭って、玄関へ向かった。
廊下に出ると、ドアが開いて、そこから潤の姿が見えた。
潤はあたしを見つけると、驚いた顔を見せた。
「葵!?帰ってたんだ、良かった!」
そう言うと、ほーっと、長い息を吐き出して、あたしに笑顔を見せる。
「え……?良かった……って?」
「店寄ったらいなかったからさ。
あんな事ばっかあって、一人で夜道歩かせるの嫌だったし。
帰ってて良かった。いなかったら探しに行こうかと思ってた」
良かった――って。
探しに――って。
だから。
そんな事言わないでよ、もう。
「つか。何で電気ついてねーの?」
怪訝な顔つきをしながら、潤は玄関先の照明のスイッチを入れた。
パッと、急激に明るく照らされ、眩しくて目を細める。
「あたしも……帰ってきたばっかだもん」
「あれ?入れ違いだった?」
少し首を傾げながら微笑む潤の顔を見て、目の端が痺れ始める。
もう。
また涙が出そうじゃん!!
「ねぇ、潤」
「ん?」
「お腹空いた」
「え?」
「お腹空いたっ!」
込み上げそうな涙を、強がって可愛くない振りをして、堪える。
甘えたい衝動を、強い口調で言って抑えるしか出来なくて。
「子供みてぇ」
潤はそう言って、くしゃくしゃの顔で笑った。
今日のメニューは、スパゲッティーのボロネーゼ。
時間を掛けて煮込まなくても、潤曰く「短時間で簡単に美味しく作れるコツがある」らしい。
てっきり、こんな時間に帰ってきてるんだから、鮫島さんと美味しいモノでも食べてきてるのかと思ったのに。
潤はあたしと一緒に、ぺろりと一人前を平らげた。
そんな様子にも、少しホッとする。
「花……ありがと、ね?」
対面で、ガラスの花瓶に活けた花を挟んで、食後のコーヒーを飲みながら、あたしはようやくその言葉を口にした。
だって。何だか正面切ってそう言うのって照れくさくて!
「うん。
結構、嬉しかったりした?」
「べっ、別にっ。
帰ったらあったから、ちょっと驚いたけどっ」
「驚いた?」
「……鮫島さんにプレゼントするのかと思ってたから」
「まさか。
初めて作ったんだし。やっぱ葵にあげたいじゃん?」
当然のように、当然の顔つきで言う。
それは勿論、お世話になってるから――って、意味だよね……?
それでも。嬉しいと思う。
一番にあたしの事を考えてくれたってコトだし。
「ちゃんと。コレ、葵のイメージだよ」
潤は微笑みながら、あたし達の間にある花を見つめる。
――だから。
分かってんのかなぁ……花の意味。
勿論、分かってないよね?
愛の意味ばかりを持つ、花達だって……。
「やっぱね。白くて清楚なイメージなんだよね?あたし」
「……あっそ」
「あっ!そーゆー流し方しないでよっ!もっと突っ込んでよっ!」
「やー……。清楚で可憐な葵ちゃんにはやっぱり白い花ですねっ?」
「そうでしょっ?」
「……ぶぶっ」
「キタナイなー!コーヒー吹き出さないでよー!」
二人でお腹を抱えて笑い合う。
いいんだ。
今は。一番傍にいられれば。
こんな風に、一緒にいて、楽しければ。
それで、幸せ。
いつか……ちゃんと。
潤の口から、色んな事――話してくれるのを、気長に待つよ……
話して……くれるよね……?
潤がテーブルに吹き出したコーヒーを、「もう」と悪態をつきながら台布巾で拭う。
笑いを止めた潤は、急に立ち上がった。
「葵」
「ん?何?」
「コレ」
潤はテーブルの上に、厚みのある白い封筒を差し出した。
「何?」
「樹さんから」
――いつ、き、さん……?
潤の唇から流れ出た名前。
あたしのコトだって、最初から『葵』って、名前で呼ぶ。
香織のコトだって、おばちゃんだって。
なのに――何故か。
鮫島さんの名前は、違うもののように感じる。
あたしは唇をぎゅっと引き結び、何でもない振りをして、差し出された封筒を手に取った。
だけど、その封筒の中身を見て、驚いて思わず声を上げた。
「何、コレ……」
封筒の中身は、一万円札の、束――。
多分、百万円はある。
潤から貰った時と、ほぼ、同じ厚みだ。
「当面の資金。
葵の花が凄く好評だって。
で、結構、金掛かるだろ?
心配して、先に準備金として渡してくれたんだ」
「――……」
心配して、って――
こんな大金。
準備金で先にくれるなんて――……
普通だったら、絶対に有り得ない。
それはやっぱり、潤と鮫島さんの、深い何かの関係を示すもの。
どうして――?
潤と鮫島さんは、どういう関係なの?
あたしは言葉が出ず、ただ封筒を握り締めた。