19

しんとした中。
潤の息遣いが聞こえる。
抱きついた広い胸から、鼓動も伝わってくる。
時を刻むよりもずっと速い、心臓の音。

触れ合う部分が、熱い。
フローリングが熱を奪って、足裏だけが妙に冷たい。

打ち付ける心臓よりも、もっと奥の。
ずっとずっと奥の方がぎゅうっと痛んで、あたしは瞼を閉じた。

潤は黙ったままで。
あたしもそれ以上何も言わずに、ただ時間だけが流れる。


ぱさり。と。
潤の手の中にあった制服が、床に落ちた小さな音がした。

その音と同時に、あたしの身体は包み込まれる。

しがみつくだけだったあたしの身体に、潤も応えるように腕が回され、小さな空間に閉じ込められる。


また締め付ける胸。
苦しいのに。
それなのに、込み上げて膨らむ愛しさ。


開けたままの潤の部屋の窓から、風が吹き付けてきた。
葉擦れのざわざわとした音と、悲鳴のような風の音が流れ込む。


「……ゴメン」


ぎゅっと、潤の腕に力が込められたと思うと、耳元で呟くようにその声が響く。


――ゴメン?


疑問に思い、瞼を開く。

潤の顔を見上げようと顎を上げると、表情が見える前にあたしの頭には掌が回り、長い指が髪の間に滑り込んできて、くしゃりと緩く掴まれながら、胸に押し戻される。


「ゴメン、な」


消えそうで。
苦しげな、声。


何で――?


潤の腕の力は緩められ、ゆっくりと二人の身体が離れた。


「………。
だから。潤が謝んないで、いつも。
悪くないでしょ?」

「………」

「危ないコト、して欲しくないし。
無事で良かった事が一番だけど、それでも……」


続きの言葉を言うのが何だか恥ずかしくて、気持ちを見透かされそうで。
一度区切る。


「それでも、嬉しかった」


潤を真っ直ぐに見て言った。


一瞬。
潤は苦しそうな顔を見せた。

だけど、すぐに唇の端が上がって、あたしの髪を乱暴に撫でる。

そして、床の上の制服を拾い上げ、あたしの手の中に強引に持たせた。 


「鍵、締めてくる」


言葉だけ残して、潤は自分の部屋に入っていった。

開け放たれた部屋のドアから、あたしは黙ったまま潤の後姿を見つめた。
さっきから風に煽られたままの白いカーテンが大きくはためいて、そこに黒いシルエットの潤が浮き上がる。

月明かりで輪郭が青白く光るそのシルエットは、どこか実体がないように遠く感じる。
布を一枚隔てた影絵のように。


微かな気配程小さな不安の影が、あたしの中に揺らめいた。


まさか……
あたしの気持ち、バレてないよね?
抱きついたり、あんな事言って、気まずいから?

気を付けなきゃ……
潤はあたしの事、家族って言ってるんだもん。
均衡を……壊したくない。


あたしは今触れられたばかりの乱れた髪を、右手で押さえ付けた。









昨日、あんな事があったのが嘘みたいだった。

いつもの時間に起きて二人で朝食を食べて。
いつものように市場に向かい、いつものように店を開ける。

全く変わらない一日。

潤との距離感も、態度も、全く変わらない。
いつもと同じ。
憎まれ口なんかをお互いに叩きながら、笑い合う。

だけど違うのは、あたしの気持ち。
気付いてしまった、潤への気持ち。


あれから――
警察を呼ぶ事はしなかった。
特別に取られた物も無かったし。部屋を荒らされたという程でもなかったし。

とにかく、あたしは一気に疲労が押し寄せてしまって。
「怖いだろうから葵が寝付くまで傍にいる」と言ってくれたのに。
潤がお風呂に入っている間に、自分でも気付かないうちに、リビングのソファーで寝ていたようで。

いつもと違う目覚まし時計の音で目覚めると、そこは一階の和室で。
この間、熱を出した時と同じように、潤が布団を敷いて寝かせてくれたらしい。




「花束、作ってみる?」


客足が遠退き始めた夕方、ふと思い付いて、潤に提案を投げ掛ける。

あたしの言葉に潤は、え?と。
一瞬ぴたりと動きを止めた。


「いーの?」

「うん。だってさ、徐々に覚えてもらわないと。
店番出来ないじゃん?」

「やるっ!」


潤は目を輝かせて、身を乗り出す。


あー。ヤバい。可愛いんだけど!
何か、餌を目の前にした子犬みたいっ。


むずむずと笑みが零れそうなのを、顔の筋肉に力を入れて堪えながら、花達が連なる水桶の前に立った。


「じゃあね。まずは、何の花を入れたいか……決めるの。
お客様に訊くんだ。潤は何がいい?」

「コレ」


即答。

潤の人差し指の先は、ホワイトスターだった。


「ホワイトスター?」

「うん。この間見て、気に入ったから!
ちっちぇー星みたいのが何かイイ」


節のある長い指が、水桶からその花を数本抜き取る。
潤は顔の前に掲げて花弁を覗き込み、満足そうに微笑んだ。



小さな星。
信じ合う心。

……うん。


「じゃ、色味は?何色のイメージ?
それに合わせてバランス良く花を選んでくの。
ホワイトスターは小さい花だから、少し大ぶりの花を選んでみて」

「じゃー、やっぱコレ」


グリーンのカーネーション――プラドミント


「うん。いいね。ホワイトスターに合うよ。
それを、取りあえず2、3本組み合わせて。見栄えが良いように。
で、頭の中では、1本取り出すごとに、金額の計算もしてくの」

「うえー。計算かぁー」

「そーだよ?お客様にはちゃんと予算があるんだもん。
その範囲内で、どれだけ綺麗で望んでいるものを作ってあげられるかなんだから。
一応、今回は3千円で作ってみて。
ちょっとくらいのオーバーは許されるからね。
潤の好きなモノっていうか、センスで選んでみて」

「……オッケー」


わざと笑いながら、一度渋い顔をしてみせる。
だけど、それはすぐに真剣なモノに変わった。

花を見つめる眼差しは真っ直ぐで。
澄んだ瞳は未来を見据えるみたいで。


……勘違い、しそう。

本気で、潤が花屋を続ける訳でもないのに。


だけど。
ずっと――ここにいて欲しい。
一緒に、花屋の仕事……やっていきたい。

そんな風に、思ったら駄目かな……


白のスプレーバラにフリージア、差し色のグリーンはレモンリーフとグリーンストライク……


潤ってば、センスだってある。


「うん。いい感じだよ!
あーでも、レモンリーフはまわりに囲うように入れるといいかな?」


「こんな感じ?」と、潤は葉の位置を動かしてみせる。


「もうちょっと左かなぁ」

「こう?」

「んー……」


じれったくて、思わず手が伸びる。

水に浸したばかりの潤の手は冷たくて、触れた瞬間、その温度にびくりと身体が反応する。

ふと、気が付いてみれば、手に持つ花を覗き込む潤とは、息がかかる位、顔が近い。


気付いた途端、心臓はばくばくと動き始めて。
触れた指先は、冷たかった筈なのに、焦げそうに熱い。


あたし、意識し過ぎだ――



「あー。マジで、こっちのがいい。
さすが葵」


聞こえちゃうんじゃないかっていうくらい、心臓は激しく音を立てているのに。
潤は気付く様子も無く、楽しそうに目の前で微笑む。


「でしょ?それで、茎、落とすの。
長さはバランスみてね。このタイプだと、短めのブーケが良いけど、分かる?
それから輪ゴムで留めて」


あたしも、懸命に何でもない素振りを作って次の説明をする。


あーでも。顔、赤いかも!


「ん」と答えて、潤はさくさくと茎を纏めて切り落とす。

手際の良い、潤。
あたしの指示に従って、徐々に花束は出来上がりに近づいていく。


潤の本当の気持ちなんて分かんないけど……
だけど。
何かイイ感じ。こんなのって。

……楽しい。凄く。

一緒に出来て、同じ感覚を分かち合えるコト――


潤も、そう思ってくれてる?



RRRRRR


店の中に、急に電子音が響き出す。


「電話だ。注文かな?」


花束をカラーペーパーで包むのに苦戦している潤を尻目に、あたしは鳴り続ける電話の受話器を上げた。


「有難うございます。pure greenです」

『お世話になってます。鮫島です』


落ち着いたアルトが耳に当てた受話器から流れ込む。


鮫島さん――……


何故か、どきりとした。


「いつもお世話になっております。穂積です……」


緊張しながら挨拶をする。

すると、ふっ。と。声の無い笑みが漏れてきた。


『そんなに堅苦しくなくていいわよ。
ね、潤いる?』


潤?


また、どきりとする。
嫌な、動き。
嫌な、予感。


「今、替わります」

受話器を耳から外そうとすると、「待って」と呼び止められる。


「えっ?」

『わざわざ替わらなくてもいいわ。
いるなら今から潤に会社へ来て欲しいの。いいかしら?』


いいかしら、って――……

本人じゃなく、わざわざあたしに言って、了承を得ようとするなんて……


きゅっと、受話器を持つ手に力が入る。


「……分かりました」

『じゃあ、待ってるわ』


――意地悪だ――

鮫島さんは、絶対、分かってるんだ。
分かっていて、わざとあたしに言ったんだ。

あたしから潤に、行け、と言うコト。

これは女の、勘。


電話を切って、カウンターの上で花束とリボンで格闘する潤の方を向く。


「潤。鮫島さんが、今から来て、って」

「………」


一瞬、手を止めて黙り込む。


「分かった」


潤はそう答えて、花束からあたしへと顔を上げる。


胸が、締め付けられる。

断る訳が無いのも、当然。

大切な、クライアント。
それ以上に、潤にとっては深く関わりのある人。
きっと、あたしなんかよりもずっと。


……ねぇ。今日はちゃんと、帰ってきてくれるの?


「葵」

「な、に?」

「オレにさ、給料払うって言ってたじゃん?」

「え、あ。うん」

「いらないって思ってたけど、ちょっと貰っていい?」

「それは勿論……」

「じゃあ、この花、そこから差し引いて」


え……?


「そんな。練習なんだし、お金なんて別にいいよ」

「自分の金じゃないと意味無いから」

「―――!」


それは鮫島さんに、自分の働いたお金でプレゼントしたいから、って意味!?


「……う、ん。分かった……」

「じゃ、行ってくるから」


出来上がった花束を抱えて、潤はあたしに向かって微笑んだ。


何でそんな笑顔見せるの?
見たく、ないよ。


ホワイトスター、カーネーション、バラ、フリージア……


初めて潤の手で作った花束……


信じ合う心、熱愛、愛情、純潔……


そんな意味を持つ花達。
好きな人が、その意味の花を贈ってくれたらどれだけ嬉しいだろう。


潤は。
ちゃんと、その意味知ってるの?



「待って」


入り口に向かおうとした潤に、手を伸ばした。


「ん?」と、不思議そうな顔で振り向く。


そんな顔つきも可愛い。
――スキ。


胸が、締め付けられる。

何も知らないで、そんな気持ちにさえさせる潤が、酷く憎らしい。


「リボン……曲がってる、よ」


初めて作った割には、器用な潤らしく、褒められるくらい良く出来ている。
だけど最後のリボンだけは、それらしからぬ出来で。

あたしはソレを、きゅっと、結び直した。










待つ時間は、どうしてこんなに長く感じられるのか。
一緒にいる時間は楽しくて、あっと言う間に過ぎてしまうのに。


――帰ってこない……


さっきから何度も確認する時計は、そろそろ21時を指し示そうと、微かな音を立てながら長い針が準備をしている。

シャッターが半分閉まる入り口の向こう側は、とっくに空の色も街並みも暗く変化していて。
潤が戻ってくれさえすれば、すぐに店を出られるように、片付けだって全て終わっているのに。


家……帰ろ、もう。


一つだけ大きく溜息を吐き出して、カウンターのスツールから立ち上がった時だった。


「葵―?」


シャッターの隙間から、長い身体を折り曲げた敬太がこちらを覗き込む。


「敬太?」

「入るぞ」


敬太はその言葉の前に、既に自分でシャッターを押し上げる。
ガラガラと、大きな金属の音が店中に鳴り渡る。


「どうしたの?」

「………。
アイツ、いないの?」


あたしの質問には答えず、敬太は小さな店内を奥まで見渡す。


「う、ん。クライアントに呼ばれて……」

「クライアント?」

「うん」

「いないんだ?
じゃー、丁度いい」


そう言うと敬太は一瞬押し黙って、あたしをじっと見つめた。


「な、に?」

「葵、アイツはやめとけ」

「は?」


何!?急に。


訳が分からないまま、あたしも眉を顰めて敬太を見つめた。


「どうせ、女だろ?」

「えっ?」

「その、クライアントってのも」


――――!!


「何で……」

分かるのよ……?


「オマエに、そんな顔させる男なんてやめとけ」

「だ、だから、何で……?
何でそんな事、敬太が言うの?」


敬太は少し黙りこんで、顔を逸らすと大きな溜息を漏らした。
そしてすぐにまたあたしを鋭い目つきで見据える。


「昨日、見たぞ?」

「え?」

「飲み会の帰り。
アイツ、何だか分かんねーけど、道端で女と揉めてた」


え……?何?それ……
昨日?女?


「ちょっと遠めからだったけど、アイツだって分かったよ。声もそうだったし。
まぁ、アッチはそれどころじゃなくて、オレには気付かなかったみたいだけど」

「そんな訳ないじゃん」


だって、敬太の飲み会の帰りってことは……
潤が香織を送った後の事で……車で送った筈だし。
外に出たのは、その後泥棒を追いかけた時だけだし……


「あれは見間違いなんかじゃない!」


あたしの否定の言葉にも曲げる様子もなく、敬太は声を張り上げて言い切る。


見間違いじゃない?
じゃあ、どういう事?もしそれが本当に潤なら。
香織を送ってから一度車を置いて、他の女と会ったって事?
それとも、泥棒を追い掛けた後に会ったって事?


「だけど……っ」


反論しようとするあたしに、敬太は「オマエな」と、また大きな溜息を吐き出す。


「信用し過ぎだろ、アイツの事。
ホントは親戚なんかじゃないだろ!?」

「―――!」


何て答えていいか分からなくて、敬太を見上げる。
敬太は怒りにもつかない感情を込めた瞳で、あたしをすぐ近くから射すくめる。


「とにかく、あんなヤツ、やめろ!
そんな風に信用なんかするな!オマエがまた傷付くだけだ!」

「だ……っ、だから、っ。何で!?」

「アイツ、その揉めた女とキスしてたぞ!」


敬太の怒声が、大きな衝撃と一緒に、あたしの頭に響いた。

 update : 2008.06.10