18
「この色がね、今すっごく人気で。
あとこっちも可愛いよ。葵ちゃんに似合いそう。
これなんてサンプルなのに、凝ってて可愛いよね」
香織は、ダイニングテーブルの上に広げた化粧品のサンプルを、少し興奮気味にあたしに説明して見せる。
百貨店勤めの香織は、化粧品メーカーの美容部員の友人が何人かいて、こうして新作が出る度にサンプルを持ってきてくれる。
今日も仕事帰りにわざわざ家に寄ってくれた。
なかなか出掛ける事もままならないあたしは、こうして香織が来てくれることが、新作のコスメを貰うより嬉しかったりする。
本人にそう言うのは恥ずかしいから、秘密だけどね。
1回分の使いきりのものもあるけど、香織が言うように、最近のコスメのサンプルって凄く可愛く出来ている。
プラスチックのお洒落な入れ物に入っていたり、パッケージが凝っていたり。
サンプルとは思えないものも結構ある。
「あ、コレ、可愛い」
あたしはテーブルの上に並べられたうちの一つを手に取った。
商品をそのまま小さくしたようなグロス。
ラメの入ったシルバーのキャップの下は透明の細長い入れ物で、シャーベットオレンジ色のグロスが透けて見えて、如何にも春夏っぽくて可愛い。
「あ。これ、ほら。矢沢カンナがCMやってるやつだよ」
「矢沢カンナ?」
「葵ちゃん知らない?
元グラビアアイドルで、最近ドラマとかにもよく出てるけど」
「んー……ゴメン、分かんないや。
ほら、あたしテレビ見る暇って殆どないし。最近の若い子って疎いんだよね。
見るのって、朝早くやってるニュースくらいだもん。
ファッション誌くらいは見たりするけど……」
「でも見れば分かるかも。あたし雑誌持ってるよ」
香織はそう言うと、バッグの中からファッション誌を取り出し、パラパラとそのページを探し出した。
数十秒後、「あった」と小さく言って、あたしに雑誌を差し出しながら、開いたページを指差した。
見開きいっぱいの大きな顔写真。
透明感のある白い肌に、カールした長い睫と大きな瞳。
厚みのある唇にジューシーな色味のグロスが愛らしい。
ハーフかな?と思わせるハッキリとした目鼻立ちは、誰が見ても「綺麗なコ」だろう。
「見たことない?」
「うーん、分かんない。
でも、すっごく綺麗な子だね。
最近のタレントってホント可愛いよね」
「来週ね、ウチの百貨店のイベントに来るんだよ」
「え?そうなの?」
「そう。だから葵ちゃんも来るかなぁって思って。
なかなか生で見れる事ないでしょ?
矢沢カンナが来るなんて凄いんだから!」
「うーん……。
確かに、芸能人って生で見れる事ってあんまりないけど、知らない子だしなぁ……。
あ。ねぇ、潤、せっかくだから行ってきたら?」
カウンターの向こうでコーヒーを淹れている潤に振った。
あ。いい匂い。
丁度、コーヒー豆にお湯を落としているところで、芳ばしい香りがふわりと漂ってきた。
潤は料理だけじゃなくて、こういうのも得意。
あたしが淹れるよりも潤が淹れる方が、何故かずっとずっと美味しいんだよね。
だからコレも潤の担当になってる。
潤は一度こちらをちらりと見ると、またすぐに淹れかけのコーヒーに目を転じた。
「……オレも、遠慮しとく」
「えー?何で?だってグラビアアイドルって、男だったら興味無い?
生で見たいモンじゃないの?」
「男だったらって……」
「行ってくればいいのに。お店はあたし一人でも大丈夫だから」
「や……オレは……」
潤が言葉を濁したところで、香織が急に大きな声を上げた。
「あっ!そう言えば!
新しい仕事どうなの?」
テーブルの向いで身を乗り出した香織の方へと、あたしは潤の方に捩っていた首を戻した。
「え……?あー、うん。
まだ始まったばかりだから慣れないし、大変だし、どんな評価か分からないんだけど。
でもね、凄く楽しいんだ。
あんなに大きな花を活ける事なんてなかったし、凄く遣り甲斐があるの」
「そうなんだ、良かったね」
「この間、熱出して休んだ日にね、縁側で潤と日向ぼっこして、ふっと思ったの。
自然とか季節の感覚とか……会社の中で感じて欲しいなって、そういう花を活けたいって。
仕事が忙しいと、そういう季節のモノって、見過ごしがちでしょ?
だからね、少しでもそれを味わってもらって、見て癒されてホッとして欲しいんだ。
今回はね、ロビーはハナミズキをメインにしたんだ」
桜と入れ替わりに咲くハナミズキ。
ロビーの花は薄紅、ピンク、白の三色をグラデーションのようにバランスよく組み合わせて、コデマリを添えた。
各部に置くものは、白のハナミズキに朱のタナシツツジを組み合わせた。
初夏を迎える前の、春の、花。
「ハナミズキかぁ。いいね、あたしも好きな花。
でも、凄いよね、葵ちゃん。
ご両親が亡くなって、それから急にお店継いだでしょ?
右も左も分からないような世界でよく頑張ってる」
「そ……かな?」
「何か葵ちゃん、顔つき変わったよね?」
香織はにっこりと笑って、ゆっくりとテーブルの上で指を組んだ。
「え?変わった……?」
「何かね、花が好きなんだ、って顔。仕事が楽しいって言うか。
今迄は無理してた感じがちょっとあったから」
花が好き?
仕事が楽しい?
――そんな風に見える?
そう見えるなら、やっぱりそれは潤のお陰かもしれない。
素人に毛が生えた程度のあたしが、こんな事を任されて大丈夫なのだろうかという不安もあった。
だけど、潤が「葵が好きな花を活ければいいんだよ」と言ってくれて。
その言葉もあったから、今回の仕事も余計に頑張れた気がする。
――そうやって、潤はいつもあたしに力をくれるんだ。
胸のずっとずっと奥の方が、きゅっとした。
「うん……」
あたしが一言答えると、目の前のテーブルの上に、コトリと静かにコーヒーが置かれた。
反射的に見上げると、潤はにこりとあたしに向かって微笑んだ。
「ホントに。葵は頑張ってるよな」
「………」
ほら。
いつもは生意気なクセに、こういう時にこんな風に言う。
だから。何か。
恥ずかしくなるっていうか。くすぐったくて。
あたしはコーヒーを飲む振りをして、顔を逸らした。
「でもユウキくん、凄いね。
そんな大きな会社の社長と知り合いなの?」
「ちょっとした、ですよ」
潤はいつものように香織に笑顔を向けて答えた。調子良くさらりと。
……嘘。
ちょっとした、って、何?
温かいような不思議な感覚は、急に冷たいものに変わった。
ちょっとの知り合いであんな仕事くれる訳無い。
香織は鮫島さんが女の人だって知らないから……。
一晩帰って来なくて、おまけに『お借りしました』なんて言われて。
嫌でも邪推してしまう。
それを思い出すたびに、ギリギリと胃の辺りが痛い。
潤が何しようが本人の勝手でしょ、とか。
店の為に一晩付き合ったのか、とか。
あたしに『そういう気持ちはない』って言ったのも、鮫島さんの事があったから、とか。
ぐるぐるぐるぐる。
色んな考えが巡って胃が痛くなるんだ。
だって。潤は何も言わないし。
鮫島さんもあれ以上、潤の事には触れないから、あたしは何があったのかもどういう関係なのかも分からないままで。
――訊く事も出来ない事が、酷くもどかしくて、苛立つ。
こんな煮え切らない気持ち、自分でも嫌だ。
香織が「そろそろ帰るね」と言うと、潤はすかさず「遅いから送っていきます」と、半ば強引に香織を家まで送りに行った。
敬太の役目じゃん、とか思ったけど。
香織が言うには、敬太は今日は飲み会で遅く、まだ帰っていないらしい。
夜遅くに女の子一人帰すのは心配だから、香織にそうしてくれるのは有難いんだけど。
ホント、調子良いっていうか。
こういうところが優しいっていうか何て言うか……。
だから……。
何で、こんな風に胸がもやもやしちゃうんだろう。
胃がぐるぐるするんだろう。
あたしってば、最近、ホントおかしい。
「お風呂に入ってスッキリしよ」
一人になったリビングで呟いてみる。
香織の家は車で片道20分程度。
丁度、お風呂から上がる頃には潤も帰ってくるだろう。
――あれ?まだ帰ってない?
お風呂から上がっても、リビングには潤の姿はなかった。
まぁ。もうそろそろ帰ってくるよね?
帰ってくるまで起きて待ってよう。
冷たい麦茶を飲もうと、キッチンのカウンターを回り、冷蔵庫を開いた。
一人の時は買っていたミネラルウォーターも、潤がココに来てからというもの、めっきり買わなくなった。
勿体無い、と。麦茶を沸かしてくれるから。
麦茶ってお湯でちゃんと煮立たせると美味しいんだよね。
飽きないし。それに懐かしい味。
風呂上りで喉が渇いていたあたしは、コップの中身を一気に飲み干した。
そして、その空になったコップをカウンターの上に置くと、コトンという音と共に、何か微かに音が聞こえた気がした。
あれ?
多分、上から。
思わず天井を見上げる。
もしかして帰ってきてる?二階にいるの?
帰ってきたなら声くらい掛けてくれればいいのに……。
もう……しょうがないなぁ……
「潤―?」
あたしはリビングを出ながら声を上げた。
………
返事がない。
気のせいかな?
そう思って、リビングに戻ろうと踵を返すと、二階からガタガタっと物音が聞こえた。
あれ?やっぱりいる?
踏み出した足を戻して、階段をゆっくり上がっていった。
上る途中、二階で小さな物音がする。
何だ。やっぱり帰ってきてたんじゃん。
呼んだの、気が付かなかったのかな?
階段を上がり切ると、二階全体が暗いままだった。
潤の部屋のドアの隙間からは、灯りが漏れていない。
それなのに、中から微かに物音がする。
何で?
バクンと、心臓が大きく音を立てた。
身体中が粟立つ。
――嫌な予感。
――多分、潤じゃない。
どうしよう……!!
何でまたこんな事……!!
この間の出来事がフラッシュバックする。
身体全体が震え出し、力が抜け落ちて、へたりとその場に座り込む。
恐怖でそこから逃げたくても凍り付いたように動けない。力が出ない
――潤!!
ぎゅっと固く目を瞑って、祈るように心の中で名前を呼んだ。
その時、玄関のドアが開く音がした。
あたしはぱっと目を開け、階段の上から目を転じた。
そこには、今、あたしがいて欲しい人が立っていて――……
潤は階段の上で座り込むあたしにすぐに気が付いて、玄関のたたきから二階を覗き込むように見上げる。
「葵?」
何も言わず、ただ茫然とそこに座り込むあたしがおかしいと感じたのか、潤の顔色が変わった。
「葵っ!」
凄い形相をした潤がバタバタと勢いよく階段を駆け上がってきた。
その音に気が付いたのか、潤の部屋のドアの向こうは、慌ただしくガタガタと音を立てた。
「葵!下がってろ!」
潤は何が起こっているのかすぐに察して、あたしの横をそのままのスピードで走り抜け、自分の部屋のドアを開けた。
まるでスローモーションで何かの映像を見ているような不思議な感覚だった。
開かれたドアの先は、薄暗い部屋が月明かりで照らされていて、放たれた窓の端で白いカーテンが風に大きくはためいている。
――――その窓枠に黒い人影
――――手に握られている、白と黒の布地
何?花屋の制服?
何で!?
「何やってんだよっ!!」
潤が飛びかかろうとして――――その瞬間、窓から人影が飛び出した。
「ちっくしょっ」
潤のその言葉を聞いた瞬間、絶対に後を追いかけると思った。
動けなかった筈のあたしの身体は、頭で考える前に、咄嗟に立ち上がって駆け出していた。
「潤、駄目っ!!」
窓に手を掛けた潤の身体に手を伸ばした。
「あれはオマエの親父の形見だっ!」
そう言った潤はその言葉と同時に窓からするりと飛び出していて、あたしの指先は空を切り、そこに届かなかった。
嘘っ!!
だって、ここ、二階――――
「潤っ!!」
窓枠に手を掛けて、階下を覗いた。
静まり返った夜の住宅街の中に、バンッと、潤がアスファルトに着地した音が響いた。
耳の中に波音のようにその音が広がってこびりつく。
あたしはまたふっと力が抜け落ちた。
窓枠に掛けた手がずずっと渇いた音を立てて滑り落ち、その場にへたり込んだ。
サッシの冷たい感触が、掌に残る。
――ヤダ。何で……
何で追いかけるのよ。
何で危ないコトするの……
何かあったらどうするのよ。相手が刃物でも持ってたら……
潤。
ヤダ。
早く帰ってきて。
心配と不安で心臓が潰れそうに痛む。
瞳からは勝手に涙が膨れ上がる。
大きな粒がフローリングにぽたぽたと滴り落ちて、窓から入る月の明かりで光った。
潤のが大事。
いない人の残した物よりも、生きてる人の方がずっと大事。
潤に何かあったら。
――いなくなったらどうしたらいいの?
あたしは暗い部屋の中で、そこに座り込んだまま動けなかった。
どうしていいのかも分からなくて、ただ潤の無事を祈るしか出来なくて。
冷たい夜風が音を立てて、窓から身体に吹き付ける。
風に揺らされるカーテンが青白く浮き立って大きくはためいて。
鈍い波のようなその動きと音が、あたしの不安を余計に煽る。
どのくらい、その暗闇の中にいたのか。
時間の感覚はなくて。
玄関のドアが開く音でハッとする。
――潤!?
階段をゆっくり上ってくる音が響く。
特徴のある音。
潤の、足音。
あたしは壁につかまりながら立ち上がった。
ふらふらと廊下に出ると、丁度階段を上がり切った潤と鉢合わせる。
「……取り返してきた」
そう言って、潤はあたしに制服を差し出した。
ぎゅっと、布地を握り締めて。
苦しそうに、眉も口元も歪めて。
そんな潤の姿を見た瞬間、身体の何所か奥の方で何かが弾けた。
弾けたものは、熱く痺れるように、一気に身体中に広がり溢れ出す。
安堵と。
だけどそれ以上の狂おしい程の何か。
「……か…」
「え?」
「馬鹿っ!そんなのよりずっと潤のが大事だよっ!
危ない事しないでよっ!」
そう叫んだ時には、あたしは潤に抱きついていた。
しがみつくように、ぎゅっと、強く。
「ゴメン……犯人は逃げ……」
「潤が無事ならいいっ」
潤の言い掛けた言葉を強い口調で遮る。
「潤が何でもなければそれでいいの……」
そう言って、背中に回した掌で、そこに触れる潤のシャツをぎゅっと掴んだ。
良かった……
潤が無事ならそれでいい―――
だけど。
その安堵と隣り合わせて込み上げた気持ち。
薄々気が付いていたのに。
押し込めて気付かない振りをしていたかったのに。
一緒に暮らしだして、同じ事に感動して、笑って、怒って。
生意気なのに、優しくて。
出逢ってからの、まだ短い時間の中で。
色んなところに触れる度、少しずつ折り重なるようにそれは積み上がっていって。
嘘も吐くし、調子も良くて。
自分のコトなんて、殆ど言ってくれない。
だけど、あたしに対する優しさは、ホンモノで。
鮫島さんと一晩過ごした事にイライラしたり。
ふとした事にドキドキしたり、きゅっとさせられたり。
一言ひとことに嬉しくなったり、切なくなったり、悩んだり、傷ついたり。
キスされたコトも、言われたあの言葉にも胸が痛むのは、あたしの事が好きじゃないから。
だから――だった。
もう、止められない。これ以上。
ハッキリと、ソレが何なのか分かってしまった。
あたしは、潤が好きだ――――