17
――頭が痛い。
何だかくらくらする。
それにイライラだって、なかなか消えてくれない……。
「ボーっとしてる」
急に至近距離に潤の顔が現れて、ハッと我に返る。
あまりの近さに、咄嗟に追いやるように軽く肩を押す。
「近過ぎっ!」
「だって。妙にボーっとしてるから寝てんのかと思った」
昨日。
潤が帰って来ない事に心配とイライラで寝れなかったから。
だから……きっと頭痛がして眩暈までするんだ。
「寝てないし!」
あたしが寝ないで潤の事を待っていたのを見透かされた気分になって、思わず思い切り否定した。
待ってたなんて分かる訳ないのに。
そんなあたしを見て、面白いモノを見るように潤はククっと笑った。
「閉店作業終わったよ。葵はまだ終わんない?」
「丁度終わった。潤、タイミングいーね」
そう言って椅子から立ち上がると、目の前がぐにゃりと歪んだ。
身体の感覚も一瞬無くなって、頭の中も靄が掛ったように白くなる。
「葵!?」
その声が頭の中に響いたと思ったら、あたしは潤に支えられていた。
「あー……ごめ……」
「オマエ、熱い!」
「……え?」
「熱あんだろ!?」
熱?
その疑問符が浮かんだと同時に、額に冷やりとした感触がした。
潤の掌。
冷たくて気持ちイイ。
「何で無理すんだよ!」
「え……。無理ってゆーか……気付いてなかった……。
へーき、だよ」
ぱっと、額の掌を払い除けた。
だって、動悸がさ。凄い。熱があるって自覚させられたせいで。
潤に触られると余計にドキドキが増すんだもん。
そうかと思うと、急に身体がふわりと宙に浮いた。
今度こそ倒れたのかと思ったけど、全然違った。
潤がお姫様抱っこしてる!
「ちょ、ちょ、ちょっとっ!!」
「ゴメン、全然気が付かなかった。あんなに雨に濡れたてたのに。
早く帰ろ」
「帰ろ……って、降ろしてよっ!」
「ちょー…おまっ、暴れんなよ!」
「だってっ!ヤダ!重いからっ!降ろして恥ずかしいっ!」
「大人しくしろよ!熱凄いクセに!」
「だってヤダ!」
「歩けないだろ!?」
「絶対ヤダ!」
「ダメだっつのっ」
「じゃあ、せめておんぶにしてっ!」
大きな声が出て、息が切れた。
あたし、具合悪いのに何やってんだろ?
大声を出したせいで余計にくらくらする。
だって、暴れても絶対放してくれないんだもん。
急に静かになったな、と思ったら、潤は上から眺めて口元を上げて笑いを含んでいた。
な?何で笑ってる!?
黙ったまま床に降ろされると、くるりと背中が向けられ、潤の身体は目の前でみるみるあたしより低くなる。
「ハイ。乗って」
「ん」と。顔が見えない状態で、背後に手が伸びて、背中に乗れ、と促される。
何か。やられたな、と思いながらも、あたしは黙って目の前の背中に乗った。
潤が立ち上がると、身体がふわりと浮いて、急激に普段よりも視界が高くなった。
「帰ろ?」
肩越しに振り返って、あたしを見上げる。
「……うん」
あんなに激しかった雨は止んでいた。
アスファルトのあちこちに、置き土産の水溜まりが、夜の街の光を反射して揺らしていた。
電線に付着したままの雨水は、風が吹く度にぽたぽたと大きな粒を落とす。
雨上がり特有の浄化されたような湿気を含んだ空気は冷えていて、熱のあるあたしの肌を心地良く撫でていく。
背中にあたしを乗せて、黙ったまま歩いていた潤は、途中でぽつりと言った。
「ゴメンな」
「……何で?」
「気付かなくて」
「別に潤は悪くないじゃん」
「………。
明日は店休めよ。
オマエ、頑張り過ぎだし」
え?頑張り過ぎ?
「別に普通だよ、こんなの。
お店休めるワケないじゃん」
あたしの言葉に呆れたように、ふう。と。潤は長い息を吐き出す。
「何の為に仕事取ってきたと思ってんの?
大変にはなるけど、定休日くらい作って身体休めたほうがいい。
金銭面では前より余裕も出るだろ?
葵さ、休まないで朝早くから夜遅くまで働いてんじゃん。
これで無理したらマジで倒れっからな。とにかく休め。
ライフスターの仕事も明後日からだろ」
「………。
分かった」
「つか。家に着くまでもう黙って目ぇ瞑ってろ」
「………」
ホント、口悪い……
でも。
あったかい……。
あたしは潤の肩の上に頭を凭せて瞼を閉じた。
潤の匂いがして、温かくて。
歩く震動がふわふわふわふわして。
熱のせいもあってか、雲の上にいるみたい。
「帰ったらお粥作ってやっからな」
潤の肩に触れている耳から入り込む、揺れて響く声。
あまりにも近過ぎて、ちょっぴり不思議。
あたしは「うん」と、目を瞑ったまま答えた。
まだ眠ったままの思考回路が、どこかでゆるりと動き出す。
何だか良い匂いがする……。
そう思った時には瞼が開いた。
一瞬、あれ?と思う。
いつもと違う木目の天井。雨戸が引かれた薄暗い部屋。
その雨戸の細長い隙間から、辺りが見渡せるくらいの黄色い光が差し込んでいる。
まだ動きの鈍い頭が、そこでほんの少し動き出す。
……そっか。昨日は一階の和室で寝たんだっけ?
潤はあたしの部屋には絶対入らないって約束があったから……。
久しぶりに良く寝たな、と思い首を捩ると、頭の下でたぷんと小さく水音がした。
すっかり冷たさを失った水枕だ。昨日、潤が用意してくれた。
今、微かに香る出汁の匂いは、キッチンで潤が朝ご飯を作ってくれているんだろう。
身体を起こした。
昨日と違って随分身が軽い。
熱も大分下がったみたい。
キッチンを覗くと、ガスレンジに向かう潤の後姿があった。
そこからは柔らかく白い湯気が上がり、隣の部屋にいたよりずっと濃い香りが漂う。
長身に、がっちりした広い背中。
そんな男っぽい後ろ姿の腰の部分には、あたしのピンクのエプロンの紐がリボン結びされていて。
ミスマッチなところが、何だか可愛くって、思わず含み笑いをしてしまった。
今度、潤専用のエプロンを買ってあげよう。
「おはよ」
声を掛けると、即座にその背中はこちらを向く。
「起きた?良く寝れた?」
「うん」
「どう体調は?」
「大分良くなった」
「どれ?」
そう言うと鍋の火を止めて、あたしの方へと近づく。
目の前に立つと、すぐに額に手が当てられた。
キッチンで水を使っているせいか、その手は凄く冷たい。指先が芯まで冷えている。
「うーん……」
眉を寄せて考え込んだ顔をする。
「熱、下がったと思うよ」
「手が冷た過ぎて分かんねー」
潤がそう答えた次の瞬間には、額がくっついていた。
ええっ!?
数センチ先に潤の顔があって、あたしをその距離から覗き込んでいる。
思わず目を瞑りたくなる衝動に駆られたのを、必死で我慢する。
心臓は急激に早鐘を打ち出した。
「まだちょっと熱っぽいな」
形の良い唇が間近でそう言葉を紡いで、すぐにあたしから離れていった。
心臓がバクバクなあたしと違って、潤は全く何ともない顔つき。
誰にでも平気でこんな風におでこくつけたり出来るの?
一瞬、そう思ったけど、それはすぐに打ち消された。
違う。
あたしの事なんて、多分、本当に家族としか思ってないんだ。
だから平気でこういう事するんだ。
――何だか打ち付ける動悸が痛い。
「野菜がたっぷりの栄養満点おじや作ったからなー」
潤は満面の笑みをあたしに向けながら土鍋を指差した。
さっきから漂う美味しそうな出汁の香り。
あたしの目を覚まさせたモトは、どうやらソレらしい。
土鍋なんて、母が最後に使った以来の活躍。
あたしが熱を出すと、こうやっていつも土鍋でお粥を作ってくれたっけ。
ふうっと、蘇る浅い記憶。
胸の奥で、何か小さな音がした。
「お腹空いたかも」
「そ?良かった、食欲出てきたなら。
食べよーぜ?」
「うん」
潤の作ってくれたおじやは、やっぱり温かくて、何処か懐かしくて。
最高に美味しかった。
朝食を食べた後、和室の雨戸を開け、障子を引き、薄日が差す部屋の中で、あたしはまた布団へ横になった。
キッチンから小さく水が流れる音がする。
潤が洗い物をしているようだ。
薬を飲んでいるせいで、頭は少しぼんやりとして、その音が一定のリズムを刻むように心地良く耳に入ってくる。
瞼を閉じると、さわさわと聞こえてくるその水音を子守唄にして、あたしはまたウトウトとし始めた。
次に瞼を開いた時には時計の針は13時を回っていた。
随分寝たな、と、身体を起こす。
寝過ぎた頭の中は、ぼんやりとしている中に妙に澄み切ったものがある。
いつもはあまり取れない睡眠を、こんなに取るのは本当に久しぶりだ。
リビングに向かうと、庭に面した掃出し窓を大きく開け放ち、縁側に座り込んで足をぶらぶらと降ろしている潤の姿が見えた。
ぼんやりと庭を眺めているみたいだ。
「潤?」
あたしの声に、すぐに振り向く。
下からあたしを見上げる顔は、降り注ぐ陽光でキラキラと輝いて見えた。
「あー。起きた?
どう?調子」
「もう、ダイジョブ……」
横に行って、あたしも腰を下ろした。
今日は家で寝ているのが勿体無いくらいの良い天気だ。
気温も高めで暖かい。
「何でこんな所に座り込んでるの?」
「ん?日向ぼっこ」
「日向ぼっこ?」
「そ。気持ちイイよ?」
そう言ったかと思うと、急に両肩を引き寄せられ、あっと言う間にあたしの頭は潤の膝の上に乗っていた。
えええ!?
「ちょっ…潤?何っ?」
「何って膝枕」
「何で膝枕っ!?」
「家族ならやるっしょ?」
「普通、家族でもやらないっ!」
「えー?ほら、オレ家族いないから分かんねーし。
オレ達はオレ達の家族のカタチでいいじゃん?」
………。
「何?それ……」
「いいから、前向いてみ?」
潤の言葉に促されて、渋々庭の方を向く。
飛び込んでくる情景とあまりの眩しさに、一瞬目を細めた。
手入れをする暇も無く放りっぱなしの庭は、何時の間にかハナミズキもオオデマリも満開を迎えていた。
中心に黄緑の小さな花弁が集まり、そこに近づくほど淡い紅色に染められた4枚の大きな総苞を広げたハナミズキは凛としていて。
オオデマリは、幾つも重なり合った小さな白い花を手毬のように形作り、葉の緑を覆い込む程枝に咲き誇らせ、風で重たげにその花を揺らしている。
植込みの木々は柔らかな緑が芽吹き、まだ夏の色になり切らない芝生が所々土を覗かせる。
綿菓子のような雲を浮かべた空は、何処までも高く、青くて。
太陽は細い光を無数に伸ばし、空気に舞う埃を宝石のようにきらきらと輝かせる。
「凄い……綺麗……」
言葉が零れ落ちて、あたしは瞼を閉じた。
柔らかな風が緑と土の匂いを運び、目を瞑っていても自然を感じさせる。
頬から伝わってくる潤の膝の体温が、あたしに生きてる実感を与えてくる。
緩やかに流れていく時間。
あんなにイライラしていた気持ちは嘘のように静かで。
何もせずに、ただこうして寝転がっているだけなのに、自然と満たされる気持ちと幸福感。
――あまりにも贅沢な平日の午後。
ずっとこうしていたい……
――『オレ達はオレ達の家族のカタチでいいじゃん?』
……うん。
たったひとりになったあたしの元に転がり込んできた、生意気な年下の男……
あたしは今、この関係を崩したくないと思った。