16
――一晩……
ぐらりと視界が歪んだ気がした。
昨日帰ってこなかったのは、この人とずっと一緒にいたから――……
あたしは言葉が何も出てこなくて。
二人の間に、張り詰めた不穏な沈黙が流れた。
そんな空気の中で、自分の心臓の音だけが、耳にこびり付くように大きな音で響いて煩い。
ふっ。と。
彼女が声の無い笑みを漏らした。
「アナタ、潤の彼女な訳じゃないでしょ?
そんな顔、しないで」
綺麗に巻かれた髪を耳に掛けながら、見透かしたように、あたしに向かって目を細め口元を上げてみせる。
――ソンナカオ?
あたし。今、どんな顔してる?
言われた通り、あたしは彼女でも何でもない。
だけど。
潤は……昨日あたしにキスしておいて、あんな事を言って。
その当日に他の女の人と一晩過ごせるの?
「どうぞこちらに座って。
時間もあまりないの。打ち合わせをしましょう」
彼女は、勝ち誇ったような微笑みを浮かび上がらせながら、あたしをソファーに座るように促した。
キリキリと、胃が捩じれるように痛む。
そことは違う場所も、何だか痛い。
それを悟られないように、あたしは背筋を伸ばした。
打ち合わせは30分程度だった。
ロビーを飾る大きなアレンジメントと、各部、応接室に置く花の手入れと交換。
会社の式典や、イベントパーティ時のアレンジメントと贈呈用花束の用意。
近隣に建てられるマンションのモデルルームに飾る花まで任せてくれる、という事だった。
ウチみたいな小さくてコネもないような店にとっては、夢のような大きな仕事。
売り上げは飛躍的に伸びることだろう。
大変だけど、やりがいだってある。
取り敢えず、契約期間は3か月。
それ以降も使ってくれるかは分からない。仕事振りを見てからになる。
潤が掴んでくれたチャンスを、生かすも殺すもあたし次第なのだ。
ビルを出ようとすると、ロビーの向う側は、何時の間にか窓ガラスを大粒の雨が叩いていた。
大きな水玉が、ガラスにひっきりなしに模様を作っては消され、流れていく。
それなのに、見た目の力強さよりもずっと、静かに厳かにさわさわと優しく聞こえる雨音。
ビルもガラスも最新の造りと厚さのせいで、本当の雨の音が聞こえない。
まるで強さを隠しているみたいだ。
生憎、傘なんて持ち合わせていないあたしは、目先の駐車場に停めた車までの距離だけで、濡れ鼠になった。
だけど、何でか。
濡れる事が嫌だとか、感じなかった。
むしろ、この得体の知れない黒っぽく靄が掛ったような気持ちを、強い雨で洗い流して欲しいくらいで。
ホントに何で。
あたしはこんな気持ちになっちゃうの……
店に戻って、入口から覗き込むと、潤はすぐにあたしに気が付いて駆け寄ってきた。
朝は見せなかった笑顔を添えて。
「おかえりっ」
「……ただいま」
「うわ。つか。びしょ濡れじゃん!」
「雨、酷いから」
「ちょっと待ってろよ」
潤はすぐに、店の奥にある小さなスタッフルームへと入り、タオルを持ってくる。
そしてあたしの頭にふわりとそれを掛ける。
そういう小さな優しさに、胸がくすぐったい感じがする。
それに何だか、じんわりとするっていうか。
「風邪引くぞ?」
「……うん」
「何で一旦、家帰って着替えて来なかったんだよ?」
「だって。早く帰らないと、潤一人って心配だったし」
「それってオレが?店が?」
「……店に決まってるでしょっ」
あたしが力一杯そう言うと、潤は鼻の頭をくしゅっとして笑った。
そしてあたしの頭を、乗せたタオルでぐしゃぐしゃと撫で回すように拭いた。
「髪、ぐしゃぐしゃになっちゃうじゃん!」
反抗してみると、今度は、頭の上で掌がぽんぽんと二回弾む。
「こんな雨じゃお客も殆ど来ないって。
一応はちゃんと言われた通りに、頑張ってみたけど?」
そう自慢げに言ってまた笑顔を見せる。
あたしは「もう!」と不貞腐れて、頭を押さえながら店内を見回した。
昨日、帰る時には割れたままだったガラスケースは、ピカピカの新しいガラスが嵌められていて。
ケースの中の水桶に入る花達は、思っていたよりもずっとセンス良くディスプレイされている。
「……まぁまぁだね」
「だろ?」
「うん」
「葵は?仕事の件、どーだった?上手くいった?」
どきっとした。
彼女の言った事を思い出す。
――『昨日は一晩、潤の事、お借りしました』
それはどういう意味なのか。
だけど……あたしの……
ううん。店の為に。潤が仕事を取ってきてくれた事は変わりのない事。
身体の中で複雑に絡み合う感情を見せないように、あたしは極力笑顔を作って答えた。
「うん。明後日から任される事になった。
ビックリした。あんなに大きな仕事貰えるなんて凄いよ」
「そう。少しは役に立った?」
ニッ。と。
屈託のない笑顔。
あたしが気にしてる、なんて、きっと微塵も思っていない。
「……うん。知り合いって言ったって、普通はあんな仕事貰えないよ。
潤ってば凄い」
あたしは少し探るような言い方をした。
何か。言って欲しかった。
どうしてこんな仕事を貰えたのか。
理由を。訊きたかった。
「これで少し売り上げ伸びるよな?
頑張ろーな?」
だけど、望んでいた答えは返ってこなかった。
代わりに言われた『頑張ろうな』は、あたしの胸の内側を軽く突く。
「……うん。
あー。あたし、着替えに一度帰るね」
そう言って背中を向けると、すぐに「葵」と呼びとめられた。
「何?」とあたしも振り返る。
「ちょっと待って。そーいや、コレ」
潤はパンツのポケットに手を突っ込み、そこから何かを取り出した。
そしてあたしの手を取り、そこにソレを握らせた。
――何?
掌を開くと出てきたモノは、家の鍵だった。
「敬太がさっき持ってきた。葵に返しといて、って」
「ああ、うん……」
渡された掌の上の鍵を見つめる。
……鍵
一緒に住み始めて10日程度。
潤にはまだ合い鍵を渡していない。
なんやかんや言ってもあたしは。
潤との同居生活を、悪くないと思ってる。
仕事が楽しいと思い始めたのも、潤が一緒に頑張ってくれるから。
昨日香織の作ってくれたご飯に違和感を覚えたのも、帰ってこなかった事にイライラしたのも、一緒に暮らす事に慣れ始めたせい。
――きっと、そう。
あたしは一度キュッと掌の中で渡された鍵を握った。
そして潤の手を取り、両手で包み込むようにその掌の中に握らせる。
潤は視線を落とし、不思議そうな顔をした。
「コレ……?」
「あげる」
「え?」
「不便でしょ?持ってないと。
ソレ、スペアキーだから」
「……嘘、マジで?いいの?」
「うん」
あたしがそう答えると、潤は掌の上の鍵をじっと見つめた。
そしてきゅっと握り締めると、そこで顔を上げてあたしを真っ直ぐに見る。
「葵」
「ん?」
「昨日はゴメン。アレ、忘れて」
「え?」
「葵の言うように、確かにあんなのルール違反。言われたって困るよな?
でも安心しろよ。もうあんな事言わないし。そういう感情もないから」
「え……」
今、何て?
言われた言葉の意味が、少し遅れて頭の中に届く。
――そういう感情も、ない?
それって……
「ただ、葵といると安心するんだ。自分でいられるっつーか。
葵との関係はさ、そんなんじゃなくて、オレにとっては大切な新しい家族つーか」
潤は鍵を握り締めたまま柔らかな笑顔で言った。
――大切?
――家族?
――『ユウキくんは、葵ちゃんの事、大事に想ってるよね?』
朝の香織の言葉が頭を掠めた。
大事って、大切って。
そうだ。そういう意味……
決して恋愛感情なんかじゃない。
潤が『大切』って言い切ったのはきっと本当だ。
だって、あたしにいつも前向きな気持ちをくれる。
――ココにいたくて、関係を崩したくない事も……
「――う、ん……」
背の高い潤を見上げて、そう一言答えた。
だけど、自分の唇の形が歪むのを感じて、すぐに背中を向けた。
「戻るまで、店、よろしくね」
ごく自然に見えるように、あたしは店を後にした。
雨はさっきよりも少し弱まっていた。
傘を差せばこれ以上濡れる事もないくらいの強さだ。
それでも今、差す気にはなれなかった。
早足で歩くと、肌に雨粒が弾いて痛い。
瞳の中にも入ってくるのを避ける為に、あたしは目を細めて眉間に力を入れた。
頬を伝わって顎から滴り落ちる雨水は、まるで涙のようだと思った。
――あんな言葉、本気じゃないって分かってた。
ただのその場で慰める為に使った言葉。
誰かに必要とされる事は心地良くて、安心出来るから。
だからあんな事言ったんだ。
本気であたしと恋愛したいと思ってたワケじゃない。
それにあたしだって、恋愛沙汰なんて、もうまっぴら。
潤にあんな事を言われたり、そういう目で見られるのも困るし。
そんな感情持ってないってハッキリ言われた方が全然いい。
それなのに。
頭ではそう思っているのに。
思いのほか、せり上がってくる感情は違うもので。
嘘吐き。
嘘吐き。
否定するくらいなら最初から言わないでよ。
そんな気持ちばかりで。
こんな風に。
裏切られたように、胸が痛むのは何でなんだろう――――……