15
窓の上から下がる遮光カーテンが、薄っすらと蒼に染まり始めている。
ささやかな光と影が、天井に波のような模様を作り映し出す。
夜が明けてきた事を示す色。
その微かな色が暗い室内の輪郭を浮かび上がらせる。
瞼が、重たい。
殆ど眠れなかったせいで、頭の中がぼんやりとする。
だけど、もう、そろそろ起きる時間。
目覚まし時計が鳴らなくても、身体に沁み付いた感覚で、起床の時間だと分かる。
あたしは同じベッドの中で静かに寝息を立てる香織を、身体の向きを変えて見つめた。
よく眠っているようで、固く瞼が閉じられている。
長くまばらに散る睫さえ、ぴくりとも動かない。
あたしは香織を起こさないようにと、そっとベッドを抜け出した。
なるべく音を立てないようにクローゼットから洋服を取り出し、床に置いたままのいつも使用しているバッグを取り上げて肩に掛けると、すぐに部屋を出ようとした。
「……葵…ちゃん?」
後ろから掠れた声がかかり、振り向くと、香織は体勢を変えぬまま、まだ眠そうな目であたしを見上げていた。
「市場に行くの?」
「うん。ゴメン、起こしちゃったね」
「大丈夫」
香織はそう答えながら、シーツに衣擦れの柔らかな音を立てて、上半身を起こした。
「ユウキくん、帰ってきた?」
「……え……?」
「ずっと、気にしてたでしょう?」
見透かした瞳で、ふっと少しだけ微笑む。
「帰って来なかった……」
瞳を逸らして答えた。
帰ってこないのを気にして、ずっとイライラしてた事に気付かれていたのが、何となく恥ずかしくて。
昨夜、香織とベッドに横になって。
あたしはすぐに香織に背を向けて瞳を閉じた。
苛立った気持ちで、何か会話をする気分にもなれなくて。
だけど。
目を瞑っても一向に眠る事なんて出来なかった。
だから、潤が帰って来なかった事も分かる。
「そっか。心配だね」
「べ、別に……」
「ねぇ、葵ちゃん」
「ん?」
「……貴宏くんと、別れたんだってね……」
「……え?」
俯いていた顔は香織の言葉に引き戻される。
「昨日、葵ちゃんがお風呂に入っている間に、敬太くんから聞いたの。
ほら、何か様子がおかしかったし、お店荒らされた以外にも何かあったのかと思って」
敬太ってば……
「うん……」
「ごめんね、辛い時に力になってあげれなくて。
あたしに、話、しづらかった?」
小さく首を振った。
「………。
こっちこそ、ゴメン……黙ってて」
「ユウキくんがいて良かった」
「は?」
「葵ちゃんの傍に彼がいて。
ユウキくんは、葵ちゃんの事、大事に想ってるよね?」
「えっ……」
な、何?急に……
潤が?あたしが大事?
「な、何言って――……」
急激に顔に血が上った。
また、昨日の唇の感触と、あの言葉が鮮烈に蘇ってくる。
まさか。
だって。あれは本気なんかじゃない筈――
それ以上言葉が出てこないあたしに、香織は少し瞳を伏せて続けた。
「だけどユウキくんて……」
すぐにそこで口籠る。
何?
「ごめん。やっぱり何でもない」
かぶりを振って、ぎこちない笑顔をあたしに向ける。
「え?何?」
「何でもないの」
そう言って薄く微笑む香織。
あたしはそれ以上訊く事が出来なかった。
だって、また気にしてる、みたいに思われるのも嫌だったし。
「起してごめんね。まだゆっくり寝てて。
ホント、ありがとね」
あたしはそう言って、香織を残して部屋を後にした。
何でもない振りをして、笑顔を作ったけど。
本当は言い掛けた言葉が気になっていた。
……何か、潤の事知ってるとか?
まさか、ね……?
敬太もまだ寝てるようで。
敬太が一人眠る和室からは、物音一つしない。
あたしはなるべく音を立てないように気を遣い、廊下を歩くのもゆっくりと摺り足にした。
リビングで、朝食を用意する。
トーストとコーヒーだけの食卓は、何だか寂しげだ。
一人の時は毎日コレだけで良かったのに。
潤と二人での朝食が、当たり前のようになり始めているのかもしれない。
ダイニングテーブルの上で対の無いピンクのカップが一つ、柔らかく湯気を立ち上らせる。
ふ。と。
食器棚の奥を見つめる。
――潤の水色のマグカップ
何で、まだ帰ってこないのよ……
もうすぐ市場に出掛ける時間なのに。
確かに、ウチに置く条件として、お店を手伝う事にはなっている。
だけど、プライバシーまで関わる条件も約束も、あたし達の間には無い。
潤が何処に行こうが、何をしようが、あたしには特別に口を出す権利なんてないのだ。
それなのに、無性にイライラする。
きっと、こんな気持ちになるのは、昨日あんな事があったせいだ。絶対。
キスなんてするからだ。
あんな事言うからだ。
敬太も香織も、おかしなコトを言うからだ。
大きな溜息を一つ吐き出してから、ピンクのマグカップを両手で包み、コーヒーを一口含む。
……苦い。
寝不足で体調の整わない身体には、ブラックのコーヒーが絡みつくみたいに舌に痺れを感じさせる。
砂糖入れよう……。
そう思って立ち上がった時、椅子が床に擦れる音とは違う何かの音が聞こえた気がした。
何の音?
……まさか、潤?
その考えが浮かんだ時には、あたしは玄関に向かって駆け出していた。
咄嗟に身体が反応していた。
敬太と香織が寝てる事なんて忘れて、バタバタと大きな音を立てて。
それと一緒に、脈打つ心臓。
玄関のドアの前に立つと、逸る気持ちと心臓の音を抑えるように胸を押さえて深く息を吸い込んだ。
何でこんなにドキドキしてるんだろう。
そう思いつつ、指先を伸ばし、鍵を外した。
ゆっくりと開け放ったドアの向こう。
そこにはやっぱりアイツが立っていた。
あたしの顔を見るなり、一瞬驚いた顔をする。
「……おかえり」
「ただいま」
だけど、いつも見せる笑顔がそこに無い。
「ゴメン。朝食作れなくて」
「……そーだよ」
思わず返してしまう、可愛くない言葉。
本当はそんな事どうでも良いのに。
――どこ行ってたの?
そう訊きたいくせに。
そんな重要な言葉は口から出てくれない。
あたしが黙ったままでいると、潤は開いたドアの隙間から身体を滑り込ませ、あたしの横を通り過ぎた。
その瞬間、鼻を掠めていった甘い香り。
その潤の香りに、胸がきゅっとした。
「シャワー浴びてくる。
市場に行く時間までには間に合わせるから」
振り向きもしない潤の背中がそう言った。
右手の窓に広がる海は、淀んだ青色だ。
出逢ったつい何日か前は、同じ時間がまだ薄暗かったのに。
空は厚い雲で覆われて、太陽の影さえ見えず、今にも大きな雨粒が落とされそうな鈍色をしているのに、全てがハッキリと映し出された朝の明るさを持つ。
運良くずっと青続きだった信号は、ようやく最初の赤色に辿り着き、車のスピードを緩めさせた。
ピタリと停車すると、あたしの膝の上に、潤が一枚の小さな紙を乗せた。
――名刺?
「仕事」
車に乗ってからずっとだんまりだった潤が、ようやくそう一言だけ口を開いた。
何?
あたしは左手で膝の上の名刺を取った。
『株式会社 ライフスター
代表取締役社長 鮫島 樹
―Itsuki Sameshima―』
「何?コレ?」
訳が分からず、眉を寄せて怪訝な顔で訊き返す。
「だから、仕事。取ってきた」
「えっ?」
こちらを見ずに淡々としている潤は、ようやくあたしの方へと顔を向けて言った。
「マンションとか、土地開発とかやってる会社。
デカイって会社じゃなくて申し訳ないけど、ロビーとか、応接室とかの花、任せてくれるって」
「……嘘……」
「ホント」
「仕事取ってくるってホントだったの……?
だけど、どうして……」
「金、かかるだろ?ガラス入れ換えんのだって。
昨日の売り上げだって半分盗まれて、今日の花の買い付けだって多くしなきゃなんねー」
「だからって、どうやって……代表取締役って……」
潤は一瞬、言葉を詰まらせたような顔をした。
「昔の知り合いだよ」
そう言うと、またあたしから顔を叛け、フロントガラスを真っ直ぐに見た。
昔の知り合い……?
だからあまり言いたくないような感じなの?
あたしは潤の横顔を見つめた。
「潤……?」
「花の打ち合わせは葵がしてよ。今日にでも話したいって言ってたから。
アポ取ってある。11時に会社に直接行って。
ガラス屋にケースのガラス入れ換えてもらったりするから、午前中は店開けられないって言ってたし、丁度良いだろ?」
「……うん」
「オレ、あんま寝てないんだ。
市場着くまで寝させて」
潤はそう言うと、サイドガラスの方へと身体を捩って向きを変えた。
顔が見えなくなった潤の丸まった背中に、あたしは「ありがと」と、小さく言った。
ごくり。と。喉が鳴った。
あたしの目の前に聳え立つビルは、決して小さなモノではない。
むしろ、予想していたよりも驚くほど大きいと言っても過言じゃない。
潤ってば、デカイ会社じゃないって言ってたのに……
何でこんな立派な会社の社長と知り合いなのよ……
少し尻込みしながらビルの入口の自動ドアを潜ると、カウンターに立つ、受付嬢三人から深々と頭が下げられた。
ロビーは広く、大きなガラス窓が吹き抜けの高い天井まで幾つも連ねられている。
足音が高く響く床のタイルは、多分、大理石で。あたしの姿が映り込む程、ピカピカに磨き上げられている。
ふと、視線をずらして、その先に映ったものに、あたしは息が止まった。
――ロビーの床の中心にあるものに。
大きな石を削って形取った花台の上には、蒼い陶器の花器に活けられた黄色が艶やかなシンビジウムがあった。
あたしの背よりも高い位置に掲げられ、垂れ下がるように連ねられた花々は、寛厳でいて柔らかく訪問者を迎い入れる。
それは素人から見たって、高額なものだと分かるくらい立派で素晴らしい花で……
潤は、ロビーとか、応接室の花を任せてくれる、と言っていた。
今まで付き合いのある花屋や華道家との付き合いを切ってまで、ウチみたいな小さな花屋にそんな大きな仕事を任せるなんて、俄には信じがたい事。
昔からの知り合いと言っていたけど、余程の付き合いでなければ、こんな事は有り得ないだろう。
ごくり。と。緊張で、また喉が鳴る。
「あの、pure greenの穂積と申します。
花の件で伺ったんですが、鮫島さんは……」
受付で声を掛けると、何かを確認する事もなく、「伺っております」とすぐに笑顔が返された。
そして、その『鮫島さん』らしき人に内線で電話を掛けると、「ご案内致します」と、カウンターを回り込んであたしの前に立ち、また頭が下がった。
その場で場所を教えられるかと思ったのに、あまりの待遇に驚いた。
だって、あたしはただの花屋で、仕事をお願いする方の立場なのに。
これは、社長と潤が特別な知り合いだから……とか、そういったものからきているの?
先だって歩くスタイルの良い受付嬢の数歩後ろをあたしは付いて歩いた。
乗り込むエレベーターの階数字は12まである。
最上階のボタンが押され、大きな箱が動き出す。
その動きと静かに響く音と共に緊張が増して、心臓が早鐘を打ち出した。
潤が約束してきてくれた大きな仕事。
しゃんとしなきゃ。
絶対に失敗は出来ない。
エレベータが電子音を響かせて到着した階は、軒並み重役の部屋が並んでいるのか、就業中とは思えない静けさだった。
その廊下の一番奥の部屋の前へと案内される。
コンコンと、ドアをノックする高い音が廊下に響いた。
すぐにドアは開かれ、秘書らしき黒いスーツに身を包んだ綺麗な女の人が出てきた。
如何にも仕事が出来そうな美人。
「いらっしゃいませ」と柔らかな笑顔であたしは迎えられた。
……彼女の甘い香りが漂って。
優しい雰囲気の笑顔に、少しだけ緊張が緩和される。
「どうぞお入り下さい」
「失礼します」
軽く会釈をして、中に足を踏み入れる。
複雑な模様が織り成されたペルシャ絨毯に、ヨーロッパのアンティーク風の格調高い家具。
このビルの『社長』に相応しい立派な部屋に、思わず感嘆の息が零れ落ちそうになるのを飲み込んだ。
窓際のデスクには、昨日あたしが作ったブーケが飾られていた。
潤が持って出たモノだ。
高級感のあるこの部屋には、似合うとはいえない可愛らしいソレが飾られているという事は、やはり潤との親密な関係を表しているのだと思った。
だけど、そのデスクには該当する人物がいない。
あれ?何処にいるんだろう?
疑問に思い振り返ると、秘書の女の人が、またにこりと笑顔を見せた。
そして、あたしに一枚の名刺を差し出した。
「鮫島です。
潤から伺ってるわ」
――えっ!?
この人が鮫島さん!?
あまりの驚きに、言葉が出なかった。
茫然と彼女を見つめていると、追い打ちをかけるような言葉が降ってきた。
「昨日は一晩、潤の事、お借りしました」
意味を含んだように笑う口許。
彼女から漂う甘い香りは、朝、潤から香ったものと同じだと、その時に気が付いた。