14

……何?それ……


言われた言葉が、上手く頭の中で理解も消化も出来なくて。
瞳を大きく開いて目の前の顔を見つめる。


恋愛?
――こんな時に何を……


「何、言ってんの……?」

「オレの事、好きになれば分かるよ」

「ふざけないでよ!こんな時にっ!」


そう思わず怒声が出て睨み上げた。

だけど。
潤はそれに怯む様子もなく、あたしを捉えるように真っ直ぐ見た。
抱き締める腕を緩める様子もない。


「ふざけてるワケないだろ」


迷いの無いような目。
至近距離で、あたしの中を奥の方まで覗き込むように言う。


ふざけてるワケない……って。
何でそんな事言うのよ?
それに何でそんな顔するの……


「やめてよ!あたしはそんなつもりない!
恋とか愛とか、今は考えられない!
それにそんなのルール違反だよ!
ウチにいるつもりなら、そんな感情持ちこまないで!!」

「葵はオレの事、ホントに何とも思わない?」

「思ってたらこんな風にアンタの事なんて家に置かないわよ!!」


そう言った後、勢い余って息が切れた。

沈黙が二人の間に落ちてくる。

潤は曇りの無い瞳をあたしに向けたまま逸らそうともしない。
ただ真っ直ぐに、口を引き結んだまま見つめてくる。

あたしも逸らさずに下から睨みつけた。

だけど本当は。
壊れそうなくらい、心臓が暴れ回っていた。
それを見透かされたくなくて。

――本気なのか分からない言葉。

潤はいつもそう。
まるで気があるんじゃないかと思うような言葉をあたしに掛ける。
あたしはそうやって惑わされて、ドキドキさせられる。

出逢ったばかりで。
あたしの事なんか好きでもなんでもないクセに……。


長い沈黙。
どのくらいそうしていたのか。

本当は十数秒だったのかもしれないけど、あたしには随分長く感じられた。

その長い沈黙を破るように、潤が視線を落として小さな溜息を零すと、腕の力が緩んで、あたしはそこから解放された。

身体が離れたかと思うと、潤はすぐにあたしに背中を向けた。


「警察、呼ぼう」


そしてその声が厚みのある後姿からぽつりと聞こえた。


――警察……

そんな当たり前にする事さえ、気が動転していて分からなかった。

ただ、あの時。
咄嗟に思い浮かんだのは、潤だった。
それは確かだ。


「……うん」


そう答えて見つめた背中。

両手をパンツのポケットに突っ込み、ガラスの欠片と水が広がる床を眺めている。
顔は見えないのに。
それなのに、そこから潤のやるせなさや悲痛さを感じさせた。


――ホントに。
分かんないよ……何考えてるのよ……

何であんな事言うのよ……
なんでキスなんかするの……


心臓が、きゅっと小さく痛む。

あたしはポケットから携帯を取り出し、警察に電話を掛けた。






通報してから5分経ったか経たないかのうちに、警察官2人がやってきた。

この場合強盗と言うのだろうか。
そんな言葉の実感なんてなかった。
自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかった出来事。
今、荒れた店の中を見渡しても、狐に抓まれたみたいで。
だけど、恐怖心とショックだけは根付いている。

簡単な事情聴取と、被害届けの記述。
警察の対応なんて実にあっさりとしたもので。
まるでこんな事は、日常茶飯事だと言われているかのように、感じさせられざるを得なかった。

結局、盗まれたモノ――と言えば、レジに入っていたお札、約5万円。
午前中の売り上げは金庫の方に移してあったおかげで、窃盗の被害はそれだけで済んだのだ。
だけど警察によると、現金が少なかった為に、店は荒らされたらしい。


「盗るものが少ないと、腹いせにやるんですよ。商品投げたり、ガラス割ったり。
川崎の方で多発してた窃盗のやり口と酷似してるんだよね。
こっちのほうまで来てるんじゃないかな」


淡々とした物言い。
調書に記入をしながら、こちらの顔をわざわざ見ようともしない。


「まぁ、被害金額も少ない方で、大きなけがも無かったから良かったと思って。
この辺もまめに巡回するようにしますから。」


そう、冷めた言葉を残して警察官は帰っていった。


『良かったと思って』なんて、簡単に言うけど……
思えるわけ、ないじゃない……



「片付けなきゃ……」


警察官の姿が消えた店内で、少しの間二人で無言で立ち尽くしたのち、あたしは床に落ちている花を拾い上げた。

ピンクのガーベラ。
見事に茎が半分に折れ曲がり、花びらは何枚か抜け落ちて虚しい姿を語る。
目の高さまで上げて、その変わり果てた姿を眺めた。


「ぐちゃぐちゃ……。酷いよね……」


落胆してそう呟いたあたしを見て、潤は同じように床に落ちている花を拾い上げた。


「葵」

「………」

「ほら。コレとか、茎は駄目だけど、花は平気だろ?
使えそうなヤツで、アレンジメントとブーケ作れんじゃん。
このまま捨てるなんて出来なくね?」


ニッと。
そう言って、あたしに笑顔を見せながら、手に持つ花を差し出した。

――赤い薔薇。
折れた茎に、萎えた葉。
それでもそこに誇り高きを思わせる美しい花姿。

やっぱり、潤には薔薇が良く似合う。

こんな時にそんな事を思いながら、あたしは無言で見つめ返す。


「前、向かなきゃ。
やれるコト、やろーぜ?」


そう言った潤の顔を見たら、身体の奥の方から、何か温かいものが湧き上がった。
言葉では表せない身体中に漲るような感覚と、力強さが屹立する。


――潤がいてくれて良かった。


そんな風に思うのは2回目だ。


簡単に嘘を吐いて、調子良くて。
『ホント』が分からないオトコ。

なのに、あたしがふらついて倒れそうになると、前を向かせて立たせてくれる。
温かい気持ちも勇気もくれる。


――不思議なオトコ


「うん」


あたしはそう答えて、ようやく微笑む事が出来た。
そして差し出された薔薇を受け取った。








「いくつ出来た?」


そう潤に訊かれて、カウンターの上の出来上がったブーケとアレンジメントを数えてみる。


「えーと。9つかな?」


倒された水桶は5つ。
あとはショーケースを割られた時の衝撃で、売りものにはならない花もある。

その中で使えそうなものを上手く組み合わせて、茎の長さを調節しながら作り上げていった。
やってみればどうにかそれなりに見えるもんだ。我ながら。


「やっぱ。さすがだなー。綺麗に出来てる」

「あんまり褒めないでよ。
あたしなんてまだまだなんだから」

「オレにとったら葵は先生だし?」

「………。
先生なんて……ホントにそんなんじゃないもん」

「でも。オレは葵の作る花、スキ」


――『スキ』


どきりと、大きく心臓が跳ねる。


ホントに。
コイツってば、女をドキドキさせる言葉を知っている気がする。

別に、あたしのコトが好きだって言ってるワケじゃないのに。
それなのに、心臓の動きは速い。

何か、ヤダ。
ホント、調子狂わされ過ぎ。


「ありがと……」


そんな風に言ってくれたら嬉しいに決まってる。
だけど、そういう顔を見せるのは何だかやっぱり癪で。
あたしは醒めた振りを装って言った。

それなのに、やっぱり潤は見透かしてるみたいで。
あたしに向かって唇の両端を引き上げる。


「照れてんの?」

「別にっ」

「かーわいい。葵ちゃーん」

「やめてよ、もうっ!
それよりお腹空いた。もう帰ろ」


あたしがアレンジメントとブーケを作っている間に、荒らされた店内の片付けは潤がやってくれた。

『一緒に片付けよう』じゃなくて。
『それぞれ出来る事をしよう』と。

そんな潤が、やっぱり有難いと思った。


「何、食いたい?」

「うーん……。オムライス。バターが効いてて卵が甘いヤツ。
あとね、大根サラダ。胡麻のドレッシングの」


「O.K」と潤が答えると、入口の半分閉めてあるシャッターの間から、良く知った顔がこちらを覗き込んできた。


「葵!」

「敬太……」


敬太の姿を見つけて、あたしはすぐに入り口に向かい、シャッターを上げた。
敬太の後ろには、香織の姿もあった。


「二人でどうしたの……?」

「どーしたの、じゃねーよ。
あんな電話してきたら、心配するに決まってるだろ?」

「ゴメン……」


あたしがそう言ったところで、敬太の視線はあたしの後ろに移された。
その視線をあたしも辿ると、潤が敵愾心を剥き出しにした瞳を向けていた。

この間ショッピングモールで逢った時もだけど。
潤と敬太はお互いに好まないようだ。
会話だって殆どしていないに等しいのに。

睨み合う二人に、緊迫した空気が流れ込んだ。

それを余計に煽るように、潤が「どーも。こんばんは」と、その言葉には合わない褪めた顔つきで言った。

そして、潤はあたしの腕をぐっと掴んで、低く唸るような声で訊いてきた。


「アイツの事、呼んだんだ?」


怒りを表すような、鋭い光を含んだ目つき。

どきりと、した。


何でそんな――……


「……だって、潤は……」


――連絡取れなかったし。

続きの言葉が出る前に、掴まれた腕はぱっと離された。


「営業行ってくる」


そう聞こえたかと思うと、潤はカウンターの上のブーケを取り上げて、肩に掛けた。


「えっ?何?」


営業?どういう事?


「仕事、取ってくる」

「仕事って……何言ってんの?今、何時だと思ってんの?」


ワケ分かんない!
今さっき夕飯の話だってしてたのに。


だけど、そんなあたしの言葉なんて関係無いように潤は足を前に進めた。
そして敬太と香織の前で一度ピタリと足を止めた。


「今日は葵と一緒にいてやって下さい。お願いします」


そう言って二人に向かって深く頭を下げた。

突然言われた言葉にたじろいだ二人が答える前に、潤の頭は上がり、すぐにまた入り口へと向かう。


「ちょっと、潤!」


そう声を掛けても、潤は手に持ったブーケをふっと掲げて見せて、振り向きもせずに店を出て行ってしまった。


何?何で――?
営業って――……


呆気に取られて、ただそこに立つあたしに、敬太が怪訝な顔つきで言った。


「で。何があったんだよ?」








潤の作る予定だったメニューは、香織の手によって作られた。

……美味しいんだけど。
だけど、何だか違うな、とか。そんな風に違和感さえ覚えてしまう。
たった数日間で、潤の作る料理の味に慣れてしまったのだろうか?



「何で電話してきた時にちゃんと言わなかったんだよ」


食事をしながら二人に事情を話すと、敬太は明らかに不機嫌になってそう言った。


「だって……。やっぱり心配させたら悪いかな、とか思って……」

「ばっかじゃねーの?何、遠慮してんだよ!
言わねーほうがよっぽど怒るわ!」


スプーンを乱暴にお皿の上に載せて、眉を顰めてあたしを睨む。


確かに、余計怒らせたみたい。
だけど、仕方無いじゃん……。


「敬太くんの言う通りだよ。
あたし達、友達でしょ?」


香織も心配そうに言った。

結局こんな風に来てもらう羽目になって、心配掛けてるんだから、最初から言ったほうが良かったのかもしれない。


「ゴメン……」

「まぁ、いいよ。今日は泊まってくから。
アイツもそのうち帰ってくるだろ?」


敬太は再びオムライスを口に運びながら言った。
香織も横で静かに頷く。


「……うん」


――帰って……

そうだよね。そのうち帰ってくるよね?
いい大人なんだし。
心配しなくても大丈夫だろうけど……。

でも、本当に。
何処に行ったんだろう……。








「香織は?」


一度家に帰った敬太は、戻ってくるとリビングの中の香織の姿を探して言った。


「お風呂に行ったよ」

「そっか」

「敬太は?ウチの入る?」

「オレは明日の朝、自分ちで軽くシャワー浴びてくからいいよ」

「……うん。ごめんね、明日仕事なのに」

「謝んなよ、ばーか。らしくねぇ」


そう言って、こつりとあたしの額に軽く拳を当てた。


――敬太は。
やっぱりなんやかんや言っても優しいんだよね。
ずっと仲も良いし。切っても切れない仲というか。
男として、とかでなく、あたしにとっては大事な人。
きっと、敬太もあたしの事を同じように想っていてくれてるんだと思う。

だから。香織があたし達の仲を心配するのも少し分かる気がする。


「何か飲む?」

「じゃ、コーヒー」

「あたしも飲も」


食器棚に手を伸ばす。

お客様用のカップを手に取った後に、自分のピンクのカップも取り出そうとした。
その時、隣に当たり前のように並ぶ、水色のカップが目に入る。

――潤のマグカップ。


もう、23時を過ぎたというのに。
まだ帰って来ない。


こんな時間に営業って……何?
何をしてるんだろう……


そこで手が止まってカップを見つめるあたしに、敬太が気が付いた。


「アイツのマグカップ?」

「えっ?
……ああ、そう」

「何で、お揃いなワケ?」

「別に深い意味なんてないよ」

「……ふぅん」


納得いかないといった顔つきだ。

だけど本当に特に深い意味も無いし。
潤があたしの真似して買っただけだし。

大体、何で敬太はそんなに潤の事を、目の敵みたいな目で見るんだろう?
一応敬太には、建前上、親戚になってる筈なのに。


「それよりさ」と、敬太はカウンターに両肘をついて、キッチン側にいるあたしを覗き込んだ。

「ちゃんと、彼氏に今日の事、電話して言ったのか?」

「え……」


――彼氏……か。

敬太にも香織にも、ちゃんと話しておかなきゃ。


あたしは小さく息を吐き出してから、コーヒーを淹れる為のお湯を火に掛け、出来るだけ何でもない素振りで言った。


「別れたから、電話してない」


敬太はその言葉に息を止めて、あたしを見つめた。
あまりにも驚いて、すぐに声が出ないらしい。
ワンテンポ置いてから、裏返った大きな声を上げた。


「はあっ!?別れた!?」

「大きな声出さないでよ」

「何で!?いつ!?」

「10日くらい前だよ。結婚するんだって、向こうの人と」

「結婚!?」


その声と同時に、敬太はカウンター越しに、コーヒー豆をフィルターに入れていたあたしの腕を掴んだ。

パラパラと、カウンターの上に黒い粒が落ちて広がった。


「な、何?」

「何?じゃ、ねーよ。何だよソレ?」

「何だよ、って……。ソレ、あたしのセリフだし」

「オマエはそれでいいのかよ!?」

「良いも悪いもないもん。彼女、妊娠してるって」

「――……」


敬太はあたしの言葉に黙り込んだ。
そして、真っ直ぐにあたしの瞳を覗き込むように見つめたまま、動かない。

そこに沈黙が落ちて、ケトルに当たる炎の音だけが、カタカタと響く。

強く掴まれた腕と、緊迫した空気に、あたしも言葉が出せなかった。


「――何で……」


敬太はそう呟きを落として、あたしの腕を掴む手を放した。


「――で?アイツと付き合うつもり?」

「は!?」

「アイツ。ユウキつったっけ?」


潤?何で……


「そんなワケないじゃない!
何言ってんの!?」

「別に……」

「ワケ分かんない、敬太!」


思わず出た大きな声。

だけど。
敬太の言葉に思い出してしまった。

さっき、潤にされたキスの感触も。
『オレと恋愛してみない?』と言った低い声も、唇の動きも――……

胸の中に膨らんで蘇り、身体が熱を持つ。
鼓動も速くなる。


――ヤダ……何で……


唇をきゅっと引き結び、そこに手の甲を当てた。
あの時の感覚を、抑え込むように。


顔、きっと赤い。
また敬太に変に思われる。


顔を伏せた。
だけど、そこに敬太の視線が突き刺さるのを感じる。



「葵ちゃん?」


不信が入り混じったような高い声が急に聞こえてどきりとする。

あたしも敬太も、その声の方へとすぐに顔を向けた。

リビングの入り口には、不思議そうな顔をする香織が立っていた。
ゆっくりとこちらに近づいてくる。


「香織……お風呂出たの?」

「うん。どうしたの?大きな声出して」


香織はそう言うと、ちらりと敬太の顔色を窺った。


「別に何でもないよ」


敬太は何でもないようにそう言ったけど。
香織は「そう?」と、複雑そうに微笑んだ。

不自然な空気は、嫌だって香織に伝わるだろう。


「お風呂空いたならあたし入ってきちゃう。
香織、敬太にコーヒー淹れてあげてね」


あたしはそう言って、早足で敬太と香織を横切り、お風呂に向かった。
こんな顔を見たら、香織はまた敬太との事を誤解しそうな程、きっと頬は赤い。

胸の鼓動が、痛いくらい速く打ちつけてくる。

何でこんなに今更ドキドキするのよ。



――『オレと恋愛してみない?』


あの言葉が、頭の中に何度も何度もリフレインして仕方無い。


どういうつもりで言ったの?
何でそんな風にあたしを惑わせるような事をするの?


そのクセ、自分の事は何も言わないで――……


『ふざけてるワケない』とも言った潤。


胸の奥がざわめく。


大体、そんな事まで言ったクセに、何でこんな日にあたしを置いて、なかなか帰ってこないのよ。



流れていく時間は、ゆるりと長く感じられ、何かに急き立てられるように、終始落ち着かない。
酷く気が短くなって、イライラしているのも分かる。

そんな自分自身がよく理解出来ない。

ただ、潤の事が気になって仕方無かった。


なのに。

その日、いくら待ってもアイツは家に帰ってくることはなかった。

 update : 2008.05.06