13

――もう、こんな時間……


アレンジメントを作る手を休めて、壁にかかる時計を見上げると、19時近くになっていた。
店ももう閉める時間。
入口の向こう側は、既に夜の街並みに変わっていて、暗い中に沢山の光が灯されている。

なのに、あれから潤は帰ってこない。


どうかしたのかな……?

何だか複雑みたいだし……


さっきの彼の言葉も、気になっていた。


『売られた』って、何なんだろう……
潤は何も話してくれないから……


だけど。
何も言おうとしない潤の深い部分に触れるのは、怖い気持ちもあった。
触れてはいけないような気もして。

――決して話さない、潤の素性。

知りたいけど、あたし達はそういう仲じゃない。
それを訊き出す権利もあたしにはない。

――あたし達は、ただの同居人。


そう納得する自分の中に、何故かまた小さく胸が痛んだ。
携帯電話を見つけた時のように――……


「ばっかみたい。あたし!」


もやもやして仕方の無い気持ち。
そんな風に気持ちの一部がおかしくなっている自分に気が付いて、振り切るように作りかけのアレンジメントをカウンターの上に置いて、外に向かった。


やだ、もう!
潤がどういうヤツかなんて、どうだっていいじゃん!
ちょっと頭冷やそう。
閉店準備してる間には帰ってくるだろうし。


店の入り口を潜ると、外気が冷やりと肌に触れて、眠気が吹き飛ぶように一気に身体も気も締まる。
4月の夜の空気は、昼間の暖かさと打って変わって冷たく肌に刺さるようだ。

あたしは店頭に出してある花木を店内にしまい始めた。
ビオラや日々草の苗や、大きな観葉植物まで、店前の通りはいつも花でいっぱいにしてある。
この出し入れだけでも、女のあたしにとっては結構大変な作業。


……考えてみれば。
潤が来てからは、毎回やってもらってる……かも。


買付けの花木の荷降ろしや、水桶を運ぶ作業も。
力仕事は潤が何も言わずに、自分から進んでやってくれている。

当り前のようになってきている、潤との生活と仕事。

――まだ出逢ってから、10日程度なのに……。



「スミマセン」

店頭に出ている一番大きな鉢のアレカヤシを抱えると、後ろからそう声がした。

「はい?」と返事をして振り向く。
抱え込んだ鉢の向う側には、中東の人らしき浅黒い肌の外国人の男の人が立っていた。


「アノ、駅ニ行キタインデスケド……」


片言の日本語。

あ。道、分かんないの?駅?


あたしは鉢を下に降ろしてから、前の通りを指差した。


「駅は……ここの道を真っ直ぐに行くと交差点があるから、そこを左に曲がって……」

「ヒダリ?」

「えーと。Left分かる?」

「アア……」


暗い中で彼の白い歯が覗けて、視線がちらりとだけ、あたしの向こう側にいった。

――その時何故か……
何か嫌な予感がして、あたしは店の方へと振り向いた。

その途端、後ろから急に勢いよく押された。

地面に置いたアレカヤシの鉢があたしと一緒に倒れ、ガラスが割れる高い音がした。


嘘――!!


そう思った時には、あたしは痛みと共にコンクリートの上に倒れ込んでいて。
視界に入ったのは、店から逃げるように走り去る男の姿だった。


声さえ出なかった。

思ってもみなかった事。

ただ、倒れ込んだまま、走る二人の男の背中が小さく消えて行くのを見つめているしか出来なかった。


嘘でしょ!?
何、これ!?


通りといえど、既に人通りが少なくなっていたせいか、道行く人も「何かあったの?」程度の関心しかないようで、こちらをちらりと窺うだけだ。
倒れてたって、大して気にもされない。

こんな時なのに――誰も助けてくれない。


あたしはどうにか立ち上がって、ふらつきながら店に入った。

入って愕然とする。

カウンターの奥のレジは開いていて、お札が一枚だけ落ちているのが見える。
水桶は倒されて、水浸しになった床には花が無残に踏みつけられ、ショーケースのガラスの破片が飛び散っていた。

そのガラス達と広がる水が、照明でキラキラと虚しく光り輝いている。

多少の予想はしていたけど――
それでも実際に見ると、力が抜け落ちて床にへたり込んだ。


何で……
何でこんな事……
嘘でしょ……


恐怖とショックが襲いかかる。
急激に湧き出て膨らんだ涙の粒が、水浸しの床に落ちて混ざり合った。


――潤……!!


エプロンのポケットから携帯を取り出す。


……手が震えてる。

滲んで歪んだ視界の中で、携帯を持つ手が小刻みに震えている。
力も入らない。

そんな事に気が付くのと同時に、潤が携帯を持っていないことにも気付く。


……どうしよう
何で潤は携帯持ってないのよ!!
家にあるくせに!!

どうすればいいの!?
助けて!!


頭が真っ白になって。
どうしていいのか分からない。

ただ、潤とは連絡が取れない事は確かで――。


……誰か……


気が動転する中で、携帯を開いて、着信履歴の中から連絡出来る誰かを探す。

こんな時に、貴宏の文字が目に入る。
ぐっと心臓を突き刺す痛みが走る。


もう、やだ……
こんなの……


ようやく敬太の文字を見つけて、迷いも無く通話ボタンを押した。

ただ、早く誰かの声を聞きたかった。
信用出来る誰かの声を。

数回のコールの後、『もしもし?』と、敬太の柔らかい声がした。


「敬太……」


ホッとして、安堵の声を漏らす。


『葵?
どうかしたか?何か声、震えてねぇ?』

「敬太、あのっ……」


そう言い掛けた時、電話の奥で小さく『葵ちゃん?』と、香織の声がした。


……香織と一緒なんだ。


『オイ、葵?』

「ごめ……何でもない」

『は?何でもないって――……』

「何でもない」


あたしはそう言って電話を切った。

やっぱり敬太には頼れない。
香織と一緒なら尚更……


涙で歪んだ視界。
見慣れた筈の店内が、何処か違う場所のようにも思えてくる。
……夢でも見ているようで。

だって、こんな酷い事が、自分の身にばかり起きるなんて。

でも。
これは現実で。
座り込んだ床が、肌に刺すように冷たく、あたしに夢ではない事を知らしめる。

どうにもならない虚無感までが大きく膨れ上がり、あたしを灰色に染めていく。



「葵!!」


――え……


ハッと、その声に顔を上げた。


「…何だよ、これ!?何があったんだよ!!」


そこには目を見開いて茫然と立つ潤の姿があった。


「潤!!」


あたしがそう名前を呼んだのと同時に、冷たい感触は消えた。
大きな手が伸びてきて、あたしを抱え込んで、床から引き剥がしたから。


「葵、大丈夫なのか!?どうしたんだよ!?」


力が入らないあたしを支えながら、潤が強張った顔で真っ直ぐに見つめる。


――潤……


潤の顔を見て、安堵のせいか、涙がまたどっと溢れ出た。
胸がきゅうっと絞られる。


「店先を片付けてたら……道を教えて欲しいって……。
それ、で……教えてる間に店が……」

「オマエは大丈夫なのか!?何でもないのか!?」

「あたしは……へーき……」

「……良かった」


そう言うと、潤はぎゅっと目を瞑って大きな息を吐き出した。
肩に置かれた手に、力が入る。

目の前の瞳がそっと開くと、あたしの身体に視線が這わされる。


「血が出てる」


潤は屈んで、あたしの膝にそっと触れた。
そう言われて、膝を擦りむいている事に気付く。


さっき倒された時に怪我したんだ。
気が付かなかった……


「……ゴメンな」


屈んだままの姿勢で、潤がそう言った。
表情は見えない。


「潤は悪くない」


あたしは潤を見下ろしながら、頭の先に向かってそう言った。

だけど。
急激に色んな感情があたしの中にせり上がってきた。

何で、こんな目に――

店はぐちゃぐちゃで。
明日からどうすればいいの?

何を信じていいのかも分からない。
何が大事?
何を頼りにすればいい?

これからどうやって生きていくの?

――もう、分かんない!!


「もう、ヤダ……」

「……葵?」

「もう、頑張れないよ……」

「………」


潤は屈めていた身体をあたしの目線にまで戻して、無言で真っ直ぐ見つめてくる。
あたしも負けじと逸らさずに真っ直ぐに目の前の瞳を見つめる。


「もう、何を頑張ればいいのか分かんない」

「オレもいるだろ?」

「何?それ。
嘘ばっかり!!いる、って何!?」


――嘘吐きで調子の良い潤。

肝心な時に連絡さえ取れないのに!!
ホントは携帯だって持ってるクセに!!
嘘なんて吐くヤツなんか――!!


「嘘って何だよ?」

「とにかく、もう、ヤダよ……っ!
大体、明日からどうやってくの!?
花もぐちゃぐちゃ、ショーケースは割られて。
今日の売り上げだって盗まれたんだから!!」

「だけど店は葵のかけがいのないモノだろ?」

「それだけじゃないっ!
裏切られたり傷付いたり、お金の事ばっかり心配したり。
もう、全てが分かんないのっ!!
何を信用していいのかも何が大切なのかも分かんないよ!!」

「葵……」

「ねぇ、何が一番大切?
あたしにはもう、分かんないよ……
一番大切なモノって何か、ねぇ教えてよ……」


あたしは潤を真っ直ぐ見つめて、消え去りそうな声で言った。


八つ当たりだって、分かってる。
だけど、そう言わずにもいられなくて。
零れ落ちる涙も止められなくて。


潤は瞳を逸らさないまま、眉を寄せて哀しそうな顔をした。
あたしの言葉に、まるで自分が傷付いているような表情で。


そしてその表情の後、すぐに潤はあたしを引き寄せた。

ぎゅっと、強く抱き締められる。

潤の両腕に力が入って、顔は胸に押し付けられ、急激に温かいものに包まれる感覚がした。


「オレが教えてやる」

「……出来る訳……」


ないじゃない、と言おうとしたのに。
あたしの言葉はそこで途切れた。

言おうとした言葉を閉じ込めるように、あたしは潤の唇で塞がれていた。

瞬間には何が起きたのか分からなくて。
ただ、その唇の温度と感触だけが急激にあたしの中に入り込んだ。

――キスされた。
と。

そう分かった時には、唇は離れていて。
それがほんの一瞬だった事を知らせていた。


また視線が絡み合う。
あたしは声を出せずにただその揺れる瞳を見つめていると、潤が一言言った。


「葵、オレと恋愛してみない?」


潤の低い声が静まり返った店内に響いて、あたしの頭の中にその言葉が届いた。

 update : 2008.05.01