10
何か、鳴ってる……。
頭の中のどこか片隅で、連続した高い音が繰り返し鳴り響いていた。
………。
うるさいなぁ……。
そう思うのと同時に、『起きる時間』という身体に沁み付いた感覚が、あたしの手を無意識に動かす。
まだ鳴り続けている電子音を止めようと、ベッドの枕の上の棚にある目覚まし時計へと手を伸ばした。
ぽん。と。アラームを止めるボタンを軽く一押しして、そのまま引き寄せる。
目線に持ってきた時計の針は、4時45分。
――あー……
昨日……あたし……
昨夜の事を思い出して、胸がきゅっとした。
寝ぼけた頭は一気にハッキリとさせられる。
起きたばかりの筈なのに、急激に顔が熱くなって、心臓がドキドキと音を立て始めた。
あー。もう。ヤダ。恥ずかしい……
潤は……まだ寝てるよね……?
起こさないようにそっと支度して、一人で市場に行こう……。
店を手伝う、という約束だけど。
昨日あんな事があって、何だか顔を合わせづらいし。
あの後、潤はあたしが泣き止むまで、ずっと抱き締めていてくれた。
何か言うわけでもなく、ただ優しく、時折柔らかく髪を撫でて。
聞こえてくる心臓の鼓動が、埋めた胸から頬に伝わってきて、人の温もりを感じた。
あんな時に誰かの優しさに触れる事は、心のどこか弱い部分を刺激して。
込み上げてくる涙は余計に止まらなくなっていて。
……でも。
嬉しかった。
心地良かった。
傍にいてくれたのが、潤で良かったと思った。
抱き締められた腕の中も掌も、力強くて温かくて。
潤の優しさがあたしの中に浸透するみたいだった。
だから……思い出すとドキドキするんだ。
ああ。もうっ。ホントに恥ずかしい。
あんな失態見せた上に、抱き締められるなんて!!
顔合わせたら、最初に何て言えばいいんだろ。
恥ずかしさと情けなさに自然と頭が垂れて、持っていた時計にコツンとおでこが触れる。
時計を元の位置に戻すと、鬱々とした気持ちを振り切るように、あたしはベッドから降りた。
『潤へ。
市場に行ってきます。
帰る時に家に電話を入れるから出てね。
葵より』
ダイニングテーブルに置手紙を残して、あたしは玄関に向かう。
まだ起きてないよね?やっぱり……。
普通の人なら殆どの人がまだ寝てる時間帯。
花屋の朝はとにかく早い。
花きのオークション(せり)が始まる時間より、余裕を持って市場へと向う。
玄関のドアをそっと開けると、何か音が聞こえた。
あれ?と思うと、二階から「葵!!」と大きな声。
「待てよ!!」
その声と一緒にバタバタと音を立てながら、潤が階段を駆け下りてきた。
「ごめんっ!ちょー…待って!!あと5分!!」
「ええっ!?」
潤は、素肌に昨日買ったシャツを羽織りながら目の前に現れたかと思うと、「絶対待ってろよ!」と言って、すぐに洗面所に入っていった。
びっくりした。急に。
うるさかったのかな?起しちゃった?
て。ゆーか。
無理しなくてもいいのに……。
でも。
ホント、悪い奴じゃないよね。
口は悪いけど……
ふう。と。小さく息を吐いて、あたしは玄関のドアを閉め直し、上がり框に腰を下ろした。
潤は、洗面所、トイレ、リビング……と、慌ただしく動き回る。
リビングからはものの10秒で出てくると、和室に入って行ったのが見えた。
和室?
何か潤の物、置いてあったっけ?
そう思って暫くすると、独特の香りが微かに鼻を掠めた。
――線香の、香り。
……嘘……
あたしは思わず立ち上がって、廊下の奥の和室の入口を見ようと、その場から覗き込んだ。
煙は見えないけど。
でも、間違いなく線香の香りは漂ってくる。
……信じらんない。
娘のあたしでさえ、朝は慌ただしくて忘れちゃうのに……
「ゴメン、お待たせ!」
和室の入り口からひょっこり顔を出したかと思うと、潤はニッと笑ってこちらに向かってくる。
――コイツ……マジで……
「…ばーか」
「は?何?バカって」
「潤、遅いよ!早く行くよっ」
妙に目の奥が熱くなったのを、自分の中でも誤魔化すように、あたしは潤に背中を向けて玄関のドアを再度開けた。
車は大田区にある大田市場へと向かう。
トラックさえあれば、市場での買い付けも1日置きでいいんだけど。
ウチの場合はそんな大きなモノはないから、市場の休みの日曜日以外は、ほぼ毎日足を運んでいる。
「起してくれりゃー良かったのに。
考えてみたら目覚まし時計買ってなかったし」
潤は助手席のシートのリクライニングを調節しながら言った。
丁度良い具合に合わせると、勢いよく凭れかかり、大きな伸びをする。
髪が少し濡れてる。
寝ぐせ……顔を洗ったついでに、急いで直したみたい。
何か、可愛いかも。
「だって、まだ寝てたから。
悪いかな、とか思って」
「手伝う約束じゃん?
そーいや、何時に家出るとか訊いてなかったな。
つか。昨日はそんな余裕なくなっちゃったけど」
「……うん。
え、と…、ゴメン……」
また思い出して、顔が火照る。
しかも、本人はすぐ隣にいるなんて。
顔合わせづらいなんて思ってたのに……。
「つーかさ。良かったじゃん?
これですっきりオレに乗り換えられるね?」
……は!?
乗り換え、って――……
「なっ、何言ってんのよ!?
ばっかじゃないの!?」
思わず大きな声が出て、潤の方へと勢いよく向いた。
だけどあたしは運転中。
すぐにフロントガラスへと顔の位置を戻す。
「その調子。その調子」
ケラケラと隣で笑ってる。
冗談!?
信じらんないっ!!
昨日はあんなに優しかったクセに!!
「なー、葵は何か食ってきた?
オレ、腹減った〜」
あたしの事をからかって笑ってたようには思えない、甘えたような口調。
全く、もう……っ。
「何か。潤っていっつも腹減ったって言ってない?
あたしは軽く食べてきたけど。
花屋ってめちゃめちゃ体力使うんだ。だから食べないとやってけないんだよね。
コンビニ寄ってあげるから、車の中でおにぎりか何か食べたら?」
「うん。
葵は何食ったの?」
「え?
……トーストとコーヒーだけど」
「それだけ?」
「うん」
「体力使うって自分で言ってんのに?」
「え。だって……朝、時間も無いし……」
口籠ると、潤は呆れたように小さく溜息を吐く。
「じゃー、今度から、夜おにぎりとか、簡単に食べれる物作っておくよ。
それのがいいだろ?」
「えっ?ホント?」
「葵の食事係ですからー」
そう言って、悪戯っぽく潤が微笑んだ。
「スゲ〜」
潤が感嘆の声を漏らす。
うん。あたしも。
初めて大田市場に来たときは、あまりの広大さに驚いた。
ここは、東京都が建設した一番新しい市場で、かなり規模も大きい。
せりもコンピューター方式となっている。
「ほら。あそこの電光掲示板あるでしょ?
あれは『せり時計』って言ってね、あそこに花の情報が表示されるの。
で、落としたいものが出てきたら、手元のボタンで値段を決めて落とすの」
「ふーん。だから双眼鏡なんか使うんだ?」
「そう。広くて遠いから、花の色とか大きさとか状態が、それがないと良く見えないから。
でもねー。せりはコツがあって。未だに上手く落とせない事も多いよ。
素人のあたしには、ホント、難しいの。
ウチなんて店も小さいし。この後に、仲卸を通して小分けで買う事が多いんだ」
「葵」
「ん?」
「自分で素人、なんて言っちゃ駄目だな」
「……え?」
「トラック買えるくらいまで、二人で頑張ろーなー」
ニッ。と。潤は笑う。
二人で頑張ろうな……って―――
何を言ってんの?コイツ……
ずっとウチに居座る気?
だけど。
胸の奥の方がチリチリして。
何か分からないけど、込み上げてくるものがあった。
何だろう、コレ……
だけど、嬉しいとか、そんな類の気持ち。
右も左も分からない世界で。
あたし一人きりで、この半年、ひたすら頑張ってきた。
朝も早くて、夜も遅い。
時間も不規則で重労働。冬は凍えるほど水が冷たくて、手なんてボロボロ。
空いてる時間は常に勉強かアレンジ等の練習で、プライベートの少しの時間さえなかなか取れない。
それなのに利益は少ない仕事で、懸命にやっても毎月赤字。
「……ずっと居座る気?」
「花屋が夢って、この間言っちゃったし?」
「あれは本気じゃないでしょ?」
「これからホントにやるんだから、いいじゃん」
「簡単に言うけど……本っ当に大変なんだからね?」
「んー。でもさ」
「え?」
「何か、ワクワクしてる。
こんなの、初めてだ」
「―――……」
何か。
ホント、調子狂うよ。コイツ―――……
だって。
それは本当に、期待を膨らませた子供みたいな輝いた瞳と笑顔で。
ずっと二人で、とか。
トラック買えるまで、なんて。
本気じゃなくても、無理な話でも――――
嬉しいとか、思ってしまった。
「毎日、こんなに重たいの、葵一人で運んでたワケ?」
潤は、車の荷台から軽々と花の箱を肩に担ぎながら言った。
あたしも潤に続いて両手で箱を持つ。
……さすがに潤みたくは肩に担げないけど。
「……そーだよ。
だから、人の手があるとやっぱり嬉しい……。
バイト雇いたくても、金銭的に無理だったから……」
「そっかー」
「ちゃんとした給料は、今はあげられないけど……出来る限りはするよ?
あと、この間のお金も、余ってる分は後で返すね」
「何、今更気にしてんの?
居候するのにそんな約束してねーし。
オレが手伝いたくてやってんだし?
それよりさー。オレが花全部運ぶから、葵は違う事やった方が効率良くねぇ?」
「………。
うん。じゃ、よろしく……。
中で開けてるね」
当り前のように言う潤に、やっぱり調子が狂う。
あたしが先に店の中に入ると、後ろで鼻歌なんか歌いながら花を下ろし、また車に戻って行く。
ホント、分かんないヤツ……。
一体、何者なんだろう?
行く所も無くて、今迄だって、本当にちゃんと仕事してたのかな?
訊きたいけど……。
本人が言えないって言ってるのに、無理には訊けないし……。
まぁ、ちゃんとしてくれさえすればいいんだけど。
夜、店内に入れた鉢物を店頭に出す店出し。
清掃と鉢への水やり。
ここまでは開店前に行う事。
仕入れた花の水揚げ。
ショーケースのレイアウト、ストッカーへの収納。
ブーケやアレンジ制作、プライスカードの作成。
配達の予定があれば、花を届けに行く事もある。
やる事はとにかく沢山あって。
接客の合間に全部こなさないとならない。
たまにお昼だって食べ損ねるくらい。
あたしの言う事、一つ一つを、潤は的確にこなしていく。
しかも。何だかずっと、楽しそう。
花屋って――……
綺麗な仕事に見えるけど、本当に大変なのに。
なんとなく、とか。花が好きだからちょっとやってみたい、とか。
そんな中途半端な気持ちでやっていけるような仕事じゃないって、あたしは分かってるつもりだ。
だから、今までどれだけ辛くてキツかったか……。
だけど。
楽しそうに店の手伝いをする潤を見ていると、あたしまで楽しい気分になってくる。
「薔薇はどうすんの?」
潤が薔薇の箱を開けながら訊いてきた。
「あ。薔薇はね、水揚げ悪いから、水中で茎の下を切るの。
で、下の方は葉を落として棘を取って……」
「ふーん。成程……」
「出来そう?やってみる?」
「うん。ちょっと見てて」
――真紅の薔薇。
束で薔薇を持つ潤は、それが凄くよく似合っていた。
口元を少しだけ綻ばせて、あたしの教える事を、楽しそうに進めていく。
薔薇が似合う男って、どんな奴よ?
――て、思ってたけど。
潤の綺麗な顔を、引き立たせて花を添えている。
……本当に、綺麗……
「どう?」
その姿に見とれていたあたしは、潤がそう言って、ハッと我に返る。
「あー……うん。いいよ。上手い、上手い。そんな感じ」
「つか。葵、今オレに見とれてなかった?」
「えっ!?」
いきなり図星を指されてどきっとする。
「みっ、見とれてないし!!
手際を見てただけだよ!!」
「ふーん?」
「見とれてないってば!!
ほら、早く他のもやってよ!」
「ハイハイ」
如何にも見抜いてる、って顔つきで、ニヤニヤと笑ってる。
あー。ムカつく!!
絶対見とれてたって思ってるな?
確かにそうだけどさ?
大体……眼鏡姿が余計にそういう顔を意地悪そうに見せるんだよね。
「ね。何で家の中では眼鏡外してるのに、外では掛けてるの?」
「あー。そんなには視力悪くないんだけど、外で見えないと不便だし。
家ん中だと掛けてる方が逆に疲れるから」
「ふーん……。そうなんだ?」
「葵はどっちが好き?」
「は?」
「眼鏡掛けてない方が好き?」
なっ、何?その質問はっ?
「別に……どっちでも」
「葵が掛けてない方が好きなら、ずっと外しててもいいけど?」
潤はそう言って眼鏡を外し、あたしの顔を間近で覗き込んできた。
その距離、僅か10センチ程。
透き通った茶色っぽい瞳に、あたしが映り込んだ。
急に目の前に現れた顔に、あたしは驚いて、思わず手が出た。
潤の胸あたりを軽く押しただけのつもりだったのに。
その衝撃で、水切り用のバケツが勢いよく倒れた。
「あーあ」
「もうっ!!潤が驚かすからだよ!!」
「ハイハイ、スミマセンね。
あ。服、濡れちゃったな〜」
「服?」
見ると、デニムの裾の方と、シャツにも水が跳ねて濡れた模様が出来ている。
「ゴメン」
「着替えしないと駄目かなー」
着替え……?
――ああ、そうだ!
「ね。そういえば、父の花屋の服があるからそれ着る?
あたしと同じ、白いシャツに黒いパンツにエプロンなんだけど」
「そんなのあったの?」
「父の、だから。
潤が嫌じゃなかったらだけど」
「全然!着る!」
「じゃあ、ちょっと家まで取りに行ってくる」
店と家の距離は大体徒歩5分。
急げば10分ちょっとで戻って来れるくらい。
「もしお客さんが来て、分からない事があったら電話してね!
すぐ戻るから!」
あたしはそう言って、濡れた床をモップで拭く潤を残して、早足に家へと向かった。
――確か……
父と母の部屋のクローゼットにあった筈……
家に戻ったあたしは、急いで父の店の服を探し始めた。
だけどなかなか見つからない。
確か、この部屋に置いたと思ったのに……。
あれ?クリーニングから戻ってきて、ゲストルームの押入れに、そのまましまったんだっけ……?
時間のないあたしは、早々に父の部屋を引き揚げ、念の為、と、潤の部屋へと入る。
昨日まで、誰も使っていなかった部屋。
それなのに、たった一晩潤が過ごしただけで、違う香りがする気がした。
それに何だか、人の部屋に勝手に足を踏み入れる罪悪感のようなものを感じる。
あたしんち、なのに……。
押入れを開けるとすぐ手前に、探していた袋が見つかる。
「あー、コレだ」
紙袋の口から、ビニールに入った白いシャツと黒いパンツの生地が見える。
手に取って、さあ行こうと振り返ると、床に散らばったパジャマが目についた。
朝、急いでたせいで、脱ぎ捨てたようにして部屋を出たのが窺える。
……もう。
せめて布団の上に置けばいいのに。床に落としたまんまなんて……。
オトコってこんなもんなのかもしれないけど、さぁ……。
拾い上げて、軽くたたむ。
何だかやっぱり変な気分。
家族でも、彼氏でもない男の着たパジャマをたたむなんて……
だけど。
そうなんだけど……。
何でだろ?
何でか――……
あたしはソレをたたみながら、顔が少しだけ綻んでいた。
まぁ。いっか?
そんな風に思って、布団の上にたたんだパジャマを置いた。
置いた瞬間、目に入ったモノ――……
――枕の横に置かれた携帯電話。
携帯?
嘘……
だって、持ってないって言ってたのに……
思わず、それを手に取ってしまった。
シルバーの薄い二つ折りの携帯電話。
少し傷があって、使い込んでいる事も窺える。
電源は入っていないみたいで、サブディスプレイには何の表示も出ていない。
――何で、嘘なんか――――……
行くトコないとか、色々事情があるとか……
確かに何も話してなんてくれないけど。
それでも――――……
――小さな嘘。
こんなの、大したコトじゃないのかもしれない。
だけど。何故か。
この時、あたしはちくりと胸に鋭い痛みが走った―――……