09

「腹減った〜」


リビングの床に買い物したビニール袋を下ろすと、開口一番に潤が言った。

買い物からの帰り際、鉢植えに水をやるのと花の様子を見る為に店に寄ったせいもあって、既に19時を回っている。

お昼も簡単に食べただけだったから、さすがにあたしもお腹が空いていた。


「あたしもお腹空いた。
先に夕御飯にしようか?」

「え?マジ?」

「うん」


そう言ったのはいいけど。
考えてみたら、あたしが作るんだよね?

人に料理を作ってあげられる程、実は得意でも上手でもない。
……て、いうか。苦手。

両親が亡くなる前は、勿論母が作っていたし。
事故の後は、あたし一人きりだからいつも適当で。
考えてみたら、マトモなものなんて作れたっけ?

カレーとか、チャーハンくらいなら……どうにか……


「何、悩ましげな顔してんの?」

「べっ、別に……」

「もしかして、料理出来ないとか?」

「でっ、出来るわよ!失礼ね!!」

「ふぅん」


ニッ。と。
潤はあたしの心の内を見透かした顔付きで笑う。


あっ。何かムカつくっ。
絶対、出来ないと思ってる!!


「チャーハンでいい?」

「わーい。葵の手料理だー」


手をぱちんと合わせて言う。

ちょっと、ちょっと。何だか棒読みだけど?
もうっ。見てなさいよ!!
そのくらいちゃんと作れるんだから!!


こめかみの怒りマークを押さえて、キッチンへと向かう。


えーと。
玉葱、人参、ハム、卵……こんな材料でいいかな?
食材も、ちゃんと選んで買ってくれば良かった。


手順を頭に浮かべながら、手を動かし始める。
カタン、カタンと。右手で持つ包丁からまな板に立てられるぎこちない音。


世の中には、向き不向きってものがあるよね。


玉葱の微塵切りと格闘しながら、そんな事を考える。
背中から感じる視線も、あたしにとっては実はかなりのプレッシャー。


あー、もう。玉葱が目に沁みる。


視界が滲んだかと思うと、鋭い痛みが指先に走った。


「痛っ……」


ああっ。最悪っ。指切った!


「あー。やっぱ、やっちゃった?」


あたしの上げた声に、潤は指を切った事に気が付いたようで、後ろから覗き込んできた。
肩越しに『やっぱりね』という顔つきで。


「だって、潤が見てると気が散るんだもん!!」

「気がつえーオンナ……」


そう呆れたように言ったかと思うと、ぐっと掌を掴まれた。
あっと思う間もなく、痛む指先は生温かいものに包まれる。

ちゅうっと、潤の唇に吸い取られるあたしの指の血の音が、静まりかえったキッチンに響き渡った。

指先に全神経が集中したように熱がこもり、柔らかく温かい感触だけを感じて、例えようのない気持ちが込み上げて疼いた。

優しく掴まれた掌と、唇の温度。

ほんの数十センチの距離の顔。
指先に視線は落とされていて、伏せられた瞼の長い睫が、そこに薄く影を作っている。
そんなところにさえ、心臓を高鳴らせられて仕方無い。


信じらんない!
普通、こんな事する!?


振り払う事も、文句を言う事も出来たけど、それを思いとどまった。


だって。なんか癪だから。
こんな風にドキドキさせられた事に気付かれるのも、振り回されてるみたいで。

……あたしのが年上なのに。


「平気、だから」


こんな事、何でもない振りをして言う。

それなのに、潤はなかなか唇を離そうとしない。


や。だからっ。
何で!?
ヤバい。マジでドキドキしてる。
何か、悔しい。


「ちょ…っ。潤ってば!!」

「んー」

「平気、だよ。
バンドエイド貼ってくるからっ」


そう言うと直ぐ目の前の顔は、上目遣いであたしの事をちらりと見て、ようやくあたしの手を解放する。

あの何とも言えない感触が消えさると、何故かほっと胸を撫で下ろした。


「結構、血、出てる。痛くね?」


そう優しく訊いてくる潤に、やっぱり調子を狂わされる。


何でたまに優しかったり、触れてきたりするのよ……
こんな風に、胸の中を波立たされるなんて……
何だか、本当に癪。


そんな気持ちを見透かされないようにと、あたしはすぐに薬箱のある和室に向かった。





バンドエイドを貼って戻ると、小気味好い、リズミカルな音が聞こえてきた。

まな板に向かう大きな背中から聞こえてくる、野菜が刻まれる包丁の音。


ええっ?


「何やってんの?」

「何って、料理」


手を動かしながら、ちらりとだけ潤は振り向く。


「出来んの?」

「いーから座ってろ、怪我人」

「怪我人……って……」


そう言われる程のもんじゃないんだけど……。
それは嫌味?


そう思いつつも、あたしは黙ってダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。

どう見ても、あたしよりも格段に手際が良いみたいだし……ね。





テーブルに置かれた野菜あんかけチャーハンと、ワカメのスープ。
食欲を掻き立てる香りが湯気とともに立ち上がる。

見た目は、中華料理店のものに引けを取らない位、見事。

それは口の中に入れても同じ印象だった。


「美味しいっ!!」

「だろ〜?」


あたしの言葉に嬉しそうに答えた潤はくしゃっと、笑う。
めちゃめちゃ嬉しそうに、子供みたいな顔で。

可愛いじゃん。こういうトコ。


「珍しいね、男の人で料理得意なんて。
しかも有り合わせの物で作れちゃうなんて」

「あ〜。習ったりしたからな〜」

「え?わざわざ?教室とか通ったの?」

「そーじゃないけど。
色々。必要不可欠ってゆーか、さ」


必要不可欠?
ああ。もしかして……


「それって、女の人に作ってあげて、好感度上げる為とか?」


潤は不思議そうな顔を見せてから、ふっと笑う。


「うーん……。まー、そんなトコかな?
葵の好感度は上がった?」

「めっちゃ上がったっ!
毎日食べたいくらい!」

「じゃー、食事係するよ。
ここに置かせてもらってる間は、オレが美味い飯食わせてやる。
つか。葵に作って貰ったら、腹壊しそうだし?」

「一言多過ぎ!
あのね。確かに得意……じゃないけど、普通に美味しく戴けるんだからね!」

「ふぅん?」


あ。もう。また……っ。
信じてないな?ムカつく!


「食事係もしてもらうけど、片付けも潤だからねっ。居候!」

「……分かってますよ、ご主人様……」


そう答えながら、潤はわざと渋い顔で笑う。
あたしは今迄の借りを返すように、意地悪そうに笑ってみせた。


何か結構気分良いかも?
昨日はあたしが扱き使われたからね。
立場逆転じゃん?

ラッキーと言えばラッキーかも。
この半年余り、大した物を食べてこなかったあたしにとって、こんなに美味しい料理を作れる人が食事係をやってくれるなんて。

まぁ。何かこんなのも悪くないかな?


家の中で誰かと食べる、美味しい家庭料理。

久しぶりの感覚に、ほんの少しだけ胸の奥の方が温かさを感じた。


「あ。葵、あのさ……」


潤が言い掛けた言葉に「何?」と傾げると、続きの言葉を邪魔するように、電話が鳴った。


「あー。電話」


何か言いかけた言葉を、やっぱり話したくないと言った様子で、潤は立ち上がって電話に向かう。


「あたしが取るから!」


そう言った時には既に遅かった。
電話の置いてあるチェストは潤の座る席のすぐ後ろで、止めようと思う隙に受話器は潤の手によって上がっていた。


ああ、もう……。
知り合いからの電話だったら、一人暮らしの筈なのに、男の人が出たら驚くじゃん!


「はい、穂積です」


受話器に向かって答える、いつもの口調とは違ったよそいきのしっかりした声色。
ホントに使い分けの出来る男だな、と、ある意味感心してしまう。


あーあ。と、半ば諦めてその姿を眺めていると、電話を取った時の柔らかな顔つきから、潤の表情は固いものに変わった。

それを見て、足元から何かが突き上げるように、嫌な予感が走った。

それは潤が差し出した受話器と言葉で確信に変わり、さっきまでの温かい気持ちは急激に冷たくなった。


「葵に電話。
菅原(すがわら)さんて人」


ごくり。と、喉が鳴った。


―――貴宏……


たった今、喉元を固唾が通り過ぎたのに、カラカラに乾いていくのが分かる。
受話器を受け取る指先が、血が通ってないみたいに冷たくなっているのも、小刻みに震えているのも妙にリアルに感じる。


「……もしもし」

『葵?』


ぎゅっと締め付ける、貴宏の声――……


「何か、用?」


強がる言葉しか出てこない。
瞼がぐっと熱くなったけど、涙は干上がったように不思議と出ない。


『……お前、相変わらずだな』


受話器を通して、溜息が落された音が静かに聞こえた。


『本当はもっと早く連絡取りたかった。
だけど、彼女が携帯のアドレス消しちゃって。
会社の名簿で自宅しか分かんなくて、何回か家に電話したんだけど……』


――『彼女』、が……

その単語が、耳の奥に、キンと響いた。
それと同時に、針のようなもので突き刺されたような、鋭い痛みが胸を貫いた。

本当は電話してくるのをどこかで期待してたのに。
鳴らなかった携帯電話。

あたしは貴宏の『彼女』じゃないの……?

あの時。
黙ったままあたしに一言の弁明もなかった。


「………。
家、空けてたから……」

『……そうか。
話、ちゃんと出来なかったから……』

「………」

『彼女、とは……、こっちの支社で一緒で、同じ部署で……。
凄く気が合って……葵と逢えなかったっていうのもあって、何となく一緒にいるようになって……。
何時の間にか、大事な存在になった』


逢えなかったから、何となく、って。
何、それ……酷い、よ。


ぎゅっと、受話器を持つ手に力がこもる。


「それ、で……?」

『彼女、妊娠してるんだ』

「……えっ!?」


耳を疑った。

驚いて後の言葉が続かないあたしの耳に、次の貴宏の言葉がすぐに届いた。


『結婚するんだ』

「結…婚……?」

『……ゴメン。
葵になかなか切り出せなくて、ずるずるとしてしまった……』


ガンと、頭を強く殴られたようなショックで―――

視界がぐらりと歪んで、頭の中は真っ白になって、ただ、その言葉が壊れたCDのように繰り返し鳴り響く。


何も考えられない。
思考回路が麻痺してる。

何でこんな事になってるの――!?


身体の力が抜け落ちて、足元がふらついたのが分かった。


だけど床にへたり込む前に、大きな手が伸びてきて、膝を着く寸前にあたしは支えられた。


あたしを力強く支える潤の顔を見上げる。


心配そうにあたしを見つめる顔。
ふいに目の前の唇が動いた。


――頑張れ


唇の動きが、そう語りかけていた。

潤のその声の無い言葉が、あたしに身体の力を戻させる。

その様子に気付くと、うん、と小さく頷いて、支えていた手が離れていく。


「……あたしは、大丈夫だよ」


戻った声と力を振り絞って、電話に向かってそう言った。


だって、もう。分かっていた。一昨日の時点で。
あの日、あたしに何も弁解しなかった貴宏。
あたしの事より、終始彼女の事を気に掛けていた。

彼女にあたしが殴られても、最終的に部屋のドアを閉めたのは貴宏だった。

貴宏にとって、離れている間にあたしよりも大切な人が出来てしまったって。

―――分かってた。


きっと彼女の妊娠がなくても、あたしたちはその時点で終わっていた。

だけど、きちんと言って欲しかった。
そうしたらこんな惨めな気持ちになんてならなかったのに。

こんな最低な男が好きだったなんて。
悔しくて、情けなくて……

だから泣いてなんてやらないんだから。


『……葵』

「ほら?今、電話に出た人、結構イイ感じで。
お互い様だよ。離れてたんだし。
だから、気にしないで」


そう強がって言うあたしの声は、少し上ずっていた。
それに多分、いつもより早口。


馬鹿だと思う。
でも、これがあたしのプライド。
つくづく嫌になる、可愛げのない自分。

『結婚する』まで言われて、泣いて縋るなんてまっぴらゴメンだよ。
そんな事であたしの元に戻ってきたって、上手くいく筈がない事も分かってる。

だったら気丈に振舞って、こんなの大丈夫な振りをした方がいい。
イイオンナの振りをした方が、ずっと――……

――それとも、困らせた方がいいの?


『本当に、ごめん……』


耳元で響くのは、少し掠れた声。
多分、あたしが強がっているのを分かってるんだろう。


「……幸せになってよ。じゃなきゃ、あたし、報われない」

『葵……ごめん、ごめんな!』

「謝んないでよ!」


思わず出てしまった大きな声に、沈黙が流れた。
その空気を切って、あたしのプライドが、最後に言わせた。


「彼女と赤ちゃん、大事にして。
あたしは大丈夫」


だけど、プライドは『大丈夫』で。
『大事にして』は、本当だよ……


『有難う』と貴宏の声が言って。
あたしは電話を切った。


受話器を置くと、あたしは目の前で歪んだ顔を見せる潤に、自嘲して見せた。


「あたしって、馬鹿かなぁ……?」


だけどその返事はないまま、あたしは潤の両手で引き寄せられた。

そして右手で柔らかく頭を抱き寄せられ、左手で肩から力強く腕の中に閉じ込められる。


抱き締められた瞬間、何かに突かれたように胸がきゅっと痛んだ。


「あたし、可愛くないよね……?」


潤の返事は無くて、代わりに更にあたしを包む腕に力が入る。


「何か、言ってよ……っ」


顔を捩って、腕の中から潤を見上げる。

だけど。
上げた顔はまた潤の手によって、胸に押し付けられた。


「泣けよ」

「え?」

「泣きたい時は泣け。我慢すんなよ!」


その言葉が耳に入った途端、我慢して鬱積していたものは簡単に崩れ落ちて、何処か身体の奥の方から熱いものが一気に突き上げた。

今迄出なかった筈の涙は急激に大きく膨れ上がり、すぐに瞳から零れ落ちて頬を伝う。
顔を押し当てた潤のネイビーのシャツに、濃い模様が広がっていく。


「――っ……。好きだった…のっ」

「……うん」

「あたしだって、好きだったんだからぁ……っ」

「……うん」

「逢うのだって、我慢してたんだよ……っ」

「……うん」

「何にも分かんないクセに……っ!」


バン、と、強く潤の胸を拳で叩いた。

だけどびくともしなくて。
抱き締められた腕の力だけ、また強まる。

それなのに。
力強いクセに。
何でか、優しく感じる。

それが温か過ぎて。
余計に胸を締め上げる。

だから、もう。
言葉にさえならなくなってしまった。


「……うう…っ」

「分かってるよ」

「うーーーっ……」

「葵の事、ちゃんと分かってるよ」

「ううーー……」


―――知らないクセに!


だけど、やっぱり言葉は出なくて、嗚咽だけが唇の隙間から漏れていく。


「……分かってる」


そう言う潤の言葉に突き動かされるように、あたしは背中に手を回してぎゅっと力を込め、その熱い腕の中に身体を預けた。

 

 update : 2008.04.09