08
紫色の厚い座布団の上で膝をつき、仏壇に向かって潤は瞼を閉じて手を合わせていた。
あたしが想像していたよりも、ずっと長い時間。
手を合わせる――なんて。ほんの数秒かと思ってたのに。
「そんなに何を拝んでたの?」
ようやく立ち上がった潤に訊く。
潤は振り返った後、「ん?」と、少し首を傾げてあたしを見た。
「えーと。
葵を泣かせません、とか。
二人で楽しく暮らします、とか。
幸せにします、とか」
「ぶっっ」
あっけらかんと言う潤に向かって、あたしは思わず吹き出した。
な、な、な……なんつー事を…っ!!
「ちょっと!それって何だか結婚の報告みたいじゃないのっ!!」
「ん?
あはは〜。そー言われてみると、そーゆーセリフだなぁ」
気にも留めずに楽しそうに笑う潤に、呆れかえる。
あはは、って。何っ!?
天国のお父さんとお母さんが勘違いしたらどうすんのよっ!!
「だって、一緒に住むんだから、ホントに楽しく上手くやっていきたいじゃん?
そんな風に絡んで捉える方がおかしくね?」
「ええっ?あたしが変なの!?」
「えー。だって、そうじゃん?
険悪にはなりたくないし。どうせなら仲良くやりたいだろー?」
「………。
そうだけど……」
「まぁ。葵ならいいよー?そーゆー風になっても。
オレ、結構気に入ってるし?
そーなったら、ココにずっといられるしね?」
そう言って、悪びれもせず、ニンマリとあたしに笑顔を見せる。
「……信じらんないっ!!」
「ジョーダンに、決まってるじゃん?」
………。
さっき。
『悪くない』なんて思った事、撤回したい。はぁ……。
「項垂れてんなよー。
つか。片付け終わったらお願いがあるんだけど?」
「……。何……?」
垂れていた頭を上げながら潤を睨むと、またあたしに満面の笑みを見せる。
「髪、切ってくれる?」
霧吹きで吹き付けて濡れた髪は、あたしの人差指と中指の間でするりと滑らかに滑る。
ストレートで、少し長めで。
柔かいけど、芯のある髪。
緊張しながらハサミを入れる。
金属の鋭い音と共に、はらはらと切れた髪が新聞を敷いた床に落ちていった。
「結構大胆に切るな〜、葵って」
「だって、切り方なんて知らないし。
こんなモンじゃないの?」
「さぁ?失敗しないでくれたらいいよ」
そう言って笑う潤に、あたしは「絶対に責任持てないよ」と、一応念を押しておいた。
だって。人の髪を切るなんて初めてだ。
自分の感覚で徐々に短くなっていく潤の髪。
意外に楽しいとか思ってしまう自分がいる。
子供のお遊び感覚……みたいな感じかもしれない。
昔。
小さかった頃に、人形の長い髪を切って親に怒られた事をふと思い出して、思わず笑みが漏れた。
「何、いやらしー笑いしてんの?」
そんなあたしに、潤は少しだけ顔を斜めに上げて、上目遣いで覗き込んできた。
「えー?何か。昔を思い出して。
人形の髪をハサミで切った事。
あれって何で切りたくなっちゃうのかなぁ、って」
「何だよ?オレって人形と同じ?」
「そんな感覚」
「まぁ……いいけどなー、それでも」
「ねぇ。何で急に髪切ってなんて?
あたしが切るより美容院行った方が良くない?」
「いいじゃん。
今日からココに住むから、心機一転したくて。
今迄のオレとは違うオレ。
葵に切って貰いたかったんだよ」
「……ふーん」
そう突っけんどんに答えたけど、何だかくすぐったいって言うか。
『葵に切って貰いたくて』なんて。
コイツ、やっぱり上手く女の心理を突いてくる。
悪い気しないじゃん。そんなのって。
『トクベツ』っぽい言葉。
生意気な口をきくクセに。
そーゆートコ、上手い。
「終わったら買い物行こうか?」
「買い物?」
「生活用品とか、下着とか、服とか。最低でも必要なモノ。
どうせ今日もお店休んでるし、さ」
潤は顎をぐっと上げてあたしを下から見上げ、左右長さが違う不揃いの髪で、「うん」と嬉しそうに笑った。
あたしはやっぱりこの笑顔に弱いな、なんて。
そんな風に感じてしまった。
あたし達は、大型のショッピングモールに来ていた。
『泊まる』じゃなくて、『住む』となると、やっぱりそれなりに生活用品が必要になる。
服や肌着だけじゃなくて。歯ブラシとか、箸とか、茶碗とか。
こんな物を一緒に選ぶのなんて、何だか凄く不思議って言うか。妙な気分。
だって。恋人でも家族でもないのに。
髪を切った潤は、かなり雰囲気が変わった。
明るいブラウンに少し長めの髪はイマドキというか。そんな感じで似合ってたけど。
素人のあたしが切った髪は、長さを揃えるためにどんどん短くなっていって。
自分でも結構上手いじゃん?なんて思えるレベルだけど、最終的にはかなり短髪になってしまった。
しかも。
短髪も潤は良く似合う。
遊んでそうな雰囲気から、一気に好青年みたいになっちゃって。
眼鏡なんて掛けてるから余計にそう見えちゃったりする。
「あー。コレ、可愛い」
「どれ?」
「コレ。色が綺麗……」
あたしは、棚に並べられた色とりどりのマグカップのうちの一つを手に取った。
陶器で出来た、淡いピンク色のマグカップ。
透明感があって、一目見て惹き込まれる色は、まるで儚げで美しい桜の花びらのようだ。
「買うの?」
「うーん。どうしよう……」
カップを目線の位置で眺めながら悩む。
確かに今使ってるヤツ、結構年季が入ってるんだよね。
「葵っぽい色じゃん?
なんだか美味そう」
「美味そう……って、何、それ?」
「一応、褒め言葉?」
ニッ。と。笑いながら言う潤。
「訳分かんない……」
なんて答えながらも、潤の持つ買い物かごの中にソレを入れた。
自分が一目惚れした色に巡り会える事なんて滅多にないしね。
まぁいっか?
そう思うと、すぐにその横に色違いのカップが並べて入れられる。
伊豆に行った時に見た空の色みたいな水色。
「え?」と潤の事を見上げる。
「お揃い〜」
「お揃い……って?潤もコレ買うの?」
「オレもこの色気に入った。
つーか。何か、新婚みたいだなー、こーゆーの?」
……なっ
「何言ってんのよ!?」
「あー。顔、赤くね?」
ニヤニヤと意地悪そうに笑う潤。
何か。目がいやらしいっ。
「赤くないからっ!」
「ムキになんなよー」
ケラケラと笑って、あたしの反応を楽しんでる。
な、何か、ムカつくっ!!
「あのねっ!!そんな事ばっか言ってると出てって貰うわよ!!」
そう、ムキになって言うと、
「葵?」
と、急に後ろから声を掛けられた。
驚いて、勢いよくその声の方へと振り向く。
「敬太……香織(かおり)……」
そこにはあたしと同じように驚いて、目を丸くした敬太と香織が立っていた。
敬太はウチのお隣さんで、物心が付いた頃から知っている幼馴染。
所謂、腐れ縁ってヤツだ。
香織は大学時代からのあたしの親友で、敬太の彼女。
両親が亡くなる少し前に、彼女が出来ないとぼやいていた敬太に香織を紹介して、上手く纏まってしまったってワケ。
黒のピンストライプのスーツ姿の敬太に、お店の紺色の制服にパンプスの香織。
何でこんなところに二人でいるの?と思ったけど。
考えてみれば敬太は車のディーラーの営業をやっているから、平日のこの時間にこの辺にいても特におかしくない。
香織はこのすぐ近くの百貨店の販売員をやっている。
敬太が香織の休憩に合わせて、ココで逢ったのかもしれない。
「どうしたんだよ。お前、店は?」
敬太が顔を顰めて言った。
そう言うと、視線は潤の持つかごに移された。
かごの中に入る、ピンクと水色のお揃いのマグカップ。
絶っ対、オカシイと思われてる。
彼氏じゃない男とこんなの。
お揃いのマグカップ買ってるなんて。
しかも、さっきの会話も聞かれてるかも!!
どうしよう。何て答えよう……
「や。あの……」
頭が上手く働かないで答えられずにいると、横にいた潤がすっと前に出た。
「どーも。コンニチハ」
―――え?
にっこりと。営業スマイルのような笑顔を敬太達に見せて、潤は軽く頭を下げた。
「あー……どーも……」
と、疑わしい視線を送る敬太に、潤は続ける。
「オレ、葵さんの遠い親戚で、結城です。今日から葵さんの家でお世話になるんです。
この辺の事、全然知らないから、お店も休んでくれて買い物に付き合ってくれて」
ぴしりと背を真っ直ぐに正して、如何にも好青年というように、爽やかにいう潤。
えええっ!?
何でそんなに咄嗟に嘘が出てくんのよっ!?
「葵ちゃんの親戚の子……?
え!?一緒に暮らすの!?」
香織が驚いた様子で言う。
そりゃ、驚くのも無理ないよ。
いくら親戚って言ったって、彼氏がいるのにこんな若い男と一緒に住むなんて!
あたしと貴宏があんな事になってるなんて知らないんだし……。
「オイ、葵」
ぐっと、敬太があたしの腕を掴んで、店の隅に引っ張った。
「な、何?」
「何、じゃねーよ。何だよ、アイツ?お前そんな親戚いたかよ?
それに、彼氏いんのに何で男と住むんだよ?
親戚つったって若い男だろ?お前ってホント危機感ねーな」
怒ったような口調に、呆れたような顔。
敬太は昔からそうだ。
同い歳で幼稚園も小学校も中学校もずっと一緒で。
物心付いた頃からの家族ぐるみでの付き合いのせいで、あたしの事は知らない事がないくらいよく知ってるし、突っ込んだ話も平気で何でも話してきた。
こんな風に大袈裟なくらい、心配もしてくるし。
だからあたしもコイツに兄弟のように頼り切ってきたところもあって……。
だけどね。
今はちょっと事情が変わった。
それは敬太が香織と付き合い出したから。
だからもう、敬太とは、前ほどの関係は保てない。
あたしと敬太が仲が良い事を、香織は少し心配しているのも知っているし。
昔だったら、借金の事だって相談してたと思う。
だけど、香織は敬太との結婚を望んてて……。
あたしが相談したら、絶対にお金を都合してくれるのも分かってるし。
借金に困ってたから、潤から百万貰って1日付き合って。
その上、一緒に住む事になった……なんてコイツに言ったらどうなる事か。
軽そうな外見によらず、めっちゃ熱い男だし。
「やー……色々事情もあって。
親戚のおばさんに頼まれたの……」
一応、潤のさっきの話に合わせて、笑みを作りながら言ってみる。
あ。
多分、引き攣ってる?
「頼まれたら男と一緒に暮らすのかよ?」
「そーゆー風に見ないでよ。いやらしいな、もう」
「普通見るだろ?
だからお前は危機感無いって言ってんだよ」
「しょうがないでしょ!色々事情があるって言ってるじゃん!
それにそんなに悪いヤツじゃないよ」
何をあたしは嘘吐いて、ムキになって。
おまけに潤の事まで庇ってるんだろう?
言いながらそう思った。
「だからって―――……
彼氏だって、そんなの許してんのかよ?」
敬太は疑念の目でじっとあたしの事を見つめる。
だから、もうっ。彼氏、彼氏って言わないでよ!
思い出しちゃうじゃん!!
今、こんなとこで泣きたくないよ!
貴宏の事が頭の中に想い出されてぐるぐると回って。
目頭がじんわりと熱くなってくる。
泣きたいのをぐっと堪えて、あたしは下から敬太を睨んだ。
「敬太はね、あたしに構い過ぎなの!
ほっといてよ、もう大人なんだから。
彼氏の事だって、あたしと彼氏の問題で、敬太には関係無いし。
あたしが判断する事だから、いいの!」
「ふうん……」
「な、何よ……」
あ。言い過ぎた?
心配してくれてるのに……
ふう。と。敬太は小さく溜息を吐く。
「最近、お前なんか冷たくね?」
「何?それ……」
「まぁ……いいけど……。
分かった。これ以上は言わない。
だけど、何かあったら必ず言えよ」
憮然たる面持ちで敬太はそう言うと、あたしに背を向けて香織と潤の方へと戻って行った。
敬太の尋問から逃れられて、はぁ〜。と。あたしは大きく息を吐いた。
見ると、香織と潤は何か楽しそうに話してる。
初めて逢ったのに、何を話してるんだろ?
「ユウキくんって、面白いわね」
三人の元に戻ると、香織はくすくすと笑いながら言った。
香織の一言に敬太は余計に顔を曇らせ、潤の事をギロリと睨んだ。
いや。て、ゆーか。
どーなってんの?
あたしは呆気に取られて潤の方を向いた。
目が合うと例の如く、潤はあたしに爽やかな顔つきで笑ってみせる。
何か……怖っ!!
そう思うと、
「心配しないで下さいね」
と、潤は香織に向かって言った。
香織も潤に笑顔を向ける。
「ユウキくんになら、葵ちゃんの事、任せられるわ」
えええ!?
うわ。コイツ…っ……!!
真面目な香織のコトまで惹き込んでる……っ!
信じらんない!!何を吹き込んだのよ!?
そんな香織に敬太は余計に癪に触ったようで、「じゃーな」と、不快感を露わにしながら香織の手を引いた。
「どうも」とにっこり潤はまた笑顔を作って会釈し、香織は「またね」と手を振った。
いや。だからどうなってんのよ!?コイツ……
敬太と香織の後姿が小さくなると、あたしは隣に立つ潤の袖の裾を引っ張る。
「……ちょっと。香織に何話したのよ……?」
「えー?
ただ、女の一人暮らしは危ないからってゆーようなコト」
「は?いうよな……って、何よ?
意味分かんない」
「女ってさ〜、真面目な振りに弱いよな〜」
「はあっ!?」
「あー。心配しないでいいよ。
ちゃんと半分は本当の事だから。
女の一人暮らしは心配だしね?ボディーガードみたいの?
葵さんを守りますって言っておいたし?
ついでに花屋に憧れててって、夢まで語っておいた。
あとはテキトーに」
ニヤリと。
笑った綺麗な顔は、やっぱり悪魔の微笑みだ。
信じらんない……っ!!
真面目な振りって何!?
大体、ボディーガードって何よ!?
いつ、花屋になりたくなったのよ!!
テキトーって、他に何言ったの!?
確かに、本当の理由は言えないけど……普通、そんな嘘が次から次へと出てこないよね!?
コイツ、二重人格者じゃないの!?
やっぱりホストだ!!
きっと女騙してばっかだったんだ!!
上手いこと香織にまで言って、良い印象植え付けるなんて!!
「レジ、行こっか〜」
軽い口調でそう言いながら、潤はあたしの手を取って引いた。
買い物かごの中のカップが二つ、カタカタと小さく陶器の音を鳴らしている。
あたしはその二つ並んだカップを見ながら思った。
……ああ。
ホントにこの同居は大丈夫なんだろうか……?
あたしって。
やっぱり上手く嵌められた……?