06

潤が部屋風呂に入った隙に、あたしも浴衣とタオルを持って、大浴場へと向かった。

大浴場の露天風呂からの眺望は、海も山の森林も既に夜の色に染まっていて、野趣溢れている。
空は、こんなに明るいんだというくらいの月の光が満ちていて、横浜では考えられない程の星の数を瞬かせている。

湯船に浸かると、ふうっと細く長く息を吐き出す。
少し熱めのお湯は、春の夜の冷たさを、身体の芯から温めてくれる。
白く煙る湯気越しの景色は幻想的で、温かく心地の良い温泉は、気分を豊かにして落ち着かせる。


朝も思ったけど。
こんなにゆったりとした気分に浸れたり、景色を楽しんだり……
そんなの本当に何時振りかな。

貴宏の事も……
あんなに朝まで落ち込んでたのに、ぐずぐずと考えずに済んだ。

目まぐるしい一日は何だか夢の中みたい。

潤は生意気だけど。
一緒に過ごした時間は、普段の喧騒も辛さも色んな嫌な事をも忘れさせてくれて、純粋に楽しめた。

暫く忘れていた、こんな気持ち。
楽しいとか、綺麗とか。
当り前で、単純な、気持ちと感覚―――





部屋に戻ると、潤は布団の上に寝転がって寛いでいた。
肩肘付いてその大きな手に頭を乗せて。
風呂上りの蒸気した肌に、少し前がはだけた浴衣が妙に色っぽく見える。


分かってんのかな?コイツ……
あたしが女だって事、少しは気を遣って欲しいよ。


「おっせーよ」

「ゆっくりお湯に浸かってたのよ」

「どーでもいいから早くマッサージして」

「は?」


マッサージ?


思わず無言で見下ろす。


「朝ぶつけられた腰。痛ぇ〜」


………。


「分かったわよっ」


仕方無く、寝転がる潤の横に座り込む。

……仕方無く…というか。
これくらいは当たり前か。ぶつけたの、あたしだし……はぁ。


「背中、押して」

「………。
腰が痛いんじゃなかったの?」

「扱き使ってやるって、言っただろー?」

「ハイハイ…」


掌を潤の背中に当て、ぐっと、力を入れる。


あ。結構、背中、広い。
もっと華奢なイメージあったけど。
結構鍛えてるな。ちゃんと筋肉もついてる。


浴衣の薄い生地から伝わってくる、潤の体温と、身体の厚み。
妙に触れてる部分が熱く感じる。
それに、掌に力を入れる度に、ふわり。と、あたしと同じ石鹸の香りが鼻を掠める。


何か。ヤダなぁ。
妙に意識しちゃう。男だって。
今日逢ったばかりの、こんな生意気な年下に。

何だかこーゆーの。
いやに心臓がざわざわとして落ち着かない。


潤は気持ち良さそうに目を閉じて、長く息を吐き出した。
枕の上に横向きで伏せた顔は、やっぱり綺麗とか。そんな風に思っちゃう自分がいる。


「葵、結構上手いな〜」


邪なようにも感じられる感情の中、急にそんな事を言われてどきっとする。


「あっ、あ〜、よくね、親のやってあげてたの」

「ふーん。親、か」


……ああ、そっか……
潤は自分の両親にこういう事、してあげたことが無いんだ……。
気が利かないな、あたしって。


そんな風に罪悪感を感じたあたしとは反して、潤は何でもない口振りで訊いてくる。


「葵んちの両親って、何やってんの?
やっぱ、花屋?」

「……うん。
花屋、やってたんだけどね。半年前に事故で死んだの。
あたしじゃなくて、父と母が花屋をやる事が夢だったの。3年前に脱サラして始めた店で。
だから潰したくなくて。あたしがその花屋を継いだんだ」

「……半年前?」

「うん。そう」

「…兄弟とか、いんの?」

「いないよ。一人。
少ない親戚も離れてるし」

「ふーん…そっか」


小さく言って、潤は口を噤む。


あ。
もしかして、気にした…のかな?さっきのあたしみたいに。


「ねぇ。気にしないでよ?
何かさ、アンタが気にするのって、似合わないし」


動かしていた手を止めて、潤の顔を覗き込んだ。

ばちり。と、目が合わさった。


あれ。目、瞑ってなかったんだ?


「……別に〜」


潤はそう言いながら、あたしを睨むように、少し目を細めた。


あれれ?何か、こーゆー反応、可愛いじゃん、コイツ。
図星ってヤツね?


ふふふっと、思わず笑みが零れる。


「つか。オマエ、じゃ、彼氏いんの?」


今の笑いもその一言でピタリと止めさせられた。


分かってて言ってんじゃないの?コイツ…
今、あたしが笑った仕返し?


思い出したくもない、昨日の出来事が頭に蘇る。

大体、いるって言っていいのか、いないって言った方がいいのか、どっちか分からない状況だ。


「…分かんない」

「分かんないって何?」

「遠恋だったんだけど…。
昨日、彼氏んちに行ったら、女がいた……」


あたしの言葉に、潤はやっぱりまた少し驚いた顔をして、口を噤む。


「最悪でしょ?あたし」


そう言って自嘲する。
もう、ホントに。笑っちゃうくらいだよ、自分でも。


だけど。
首を捩って、あたしを見上げる潤の視線は何故か真っ直ぐで。
あたしの笑いに合せる事なんて到底なさそうな真剣な顔。


「じゃー、慰めてあげよっか?」

「え?」


疑問符を付けたあたしの声と同時に、潤はうつ伏せだった身体をあたしの方へと向け、今の今迄背中に触れていた手をぐっと掴んだ。

どきりと、心臓が跳ねる。


「な、慰めてって……」


それって―――……


ヤバい。何か。雰囲気が。

潤の瞳が真っ直ぐあたしを射貫くように見つめていて。
あたしも視線を外せない。

そんな雰囲気と掌の熱さに、心臓が早鐘を打ち始める。


「言葉の、とーり」


そう言って、潤は身体を起こす。
顔が近い。かなり。

間近で見る瞳は澄んでいて、綺麗で。何だか妖艶で。
だから魔法に掛ったみたいに、あたしもそこで視線を奪われて外せないんだ、きっと。


どうしよう。

再度、そう思った時、部屋のインターフォンが鳴った。


「失礼致します。お食事です」


引き戸の向こうから聞こえる声。


「…ちっ」


潤が舌打ちすると、ようやくあたしの手は解放された。


ちっ。って、何!?
もう!!


ほっとしたけど。
それでも、まだ、心臓が暴れ回っている。


これで夜、二人っきりってヤバくないか!?


はぁ。と、溜息を洩らして肩を落とすあたしをよそに、潤は立ち上がってニヤリと笑った。


「美味い酒飲みながら、話訊いてやるよ」






季節の旬が詰め込まれ、熟練の妙技が集結された会席料理。
芸術的な彩りは、膳と言う舞台の上で素材の個性を最大限に引き出されたものだ。

舌の上に広がる、繊細な味わい。
薦められた地酒もすごーく美味しい。

箸が進むのと並行して、銚子の中味も空いていった。

ほろ酔いで心地良くなったあたしに、潤は『カレシ』の事を訊いてくる。

慰める……って、こういう事か。
潤は、話を訊くのも、訊き出すのも、両方上手だ。カナリ。

だからなのか、お酒のせいなのかは分かんないけど。

あたしは信じられない程、自分の事を話した。
昨日の貴宏と女の出来事から始まって、両親の事、お店の事、借金の事……ぐだぐだと、ずっと。

でも。
酔った勢いだけじゃないのは確かだった。

頭の芯はちゃんと。ハッキリしていて。
話した内容も、潤の返答も態度も、全部覚えてる。

何で初めて逢ったヤツに、こんな事話してるんだろうとかも思ったけど。
ホントに不思議なんだけど。
そういう事が話せる、そういうヤツだった。


結局、中居さんが食事の後片付けにくるまで、あたしの話に飽きずに付き合ってくれた。

しかも、片付けが終わると潤はすぐに、「眠い」と言って、布団に横になる。


眠そうな顔で、潤は欠伸をしてから瞼を閉じた。


「もう、寝るの?まだ21時過ぎだよ?」

「…う〜ん。もう、眠い。気持イイ…こうしてると」


本当に。
目を瞑って横になった姿は、すごーく気持ち良さそう。


「電気、消そうか?」

「いいよ。葵まだ起きてるだろ?
つーか。あっと言う間だな、1日なんて……」

「そうだね」

「明日でバイバイか…」

「…うん」

「寂しいとか、ちょっとは思う?」

「えっ…」


どきっとする。
そんなこと訊くなんて。


「寂しい?」


再度。仰向けで目を瞑ったまま、潤はあたしに訊く。


明日でもう。約束の時間は切れて。
さよならして、二度と逢わない。


そんな事を思うと、きゅっと。胸を小さく突くような寂しさが込み上げた。

何だかんだ言っても、潤といた1日は楽しくて。
色々有り過ぎたけど、あたしにとっても、とても濃厚で有意義な一日だったからだ。きっと。


「そりゃ…ちょっとは…寂しい、よ。
潤は生意気だけど。結構、楽しかったし。
お風呂もご飯も景色も最高だし?」

「…ふーん」

「じゃあ、潤は?」


何だかあたしだけ素直に答えたのが癪で、同じ質問をしてみる。


………。


だけど。返事は一向に返ってこない。


あれ……?


近づいて、上から覗き込む。


もしかして、寝てる?


微かに規則的にすーすーと寝息が刻まれている。


車に乗った時もすぐ寝ちゃったけど……
よっぽど疲れてたのかな……?


だけど。
潤が先に寝てくれて、ホッとしたのは確かだ。
さっき、あんな事言うし。
襲われたらどうしようなんて気持ちは、やっぱりどこかにあったから。


横に並べて敷かれた布団の距離は約20センチ。

離そうかな、とか思ったけど。
結局、そのままの距離で、あたしも布団に横になった。


照明を消しても、障子から零れてくる月明かりは意外に明るくて。
すぐ隣の潤の寝顔は、薄闇の中でも、その弱い光で白く浮き立って目を射る。

鼻筋と、頬と、少し開かれた唇が、縁取られて。
閉じられた瞼の先の睫は長くて。綺麗で。

何となく、暫くそんな寝顔を見ていた。


誰かがすぐ近くにいるのを感じながら寝るのは、どのくらい振りかな……


潤の柔らかな寝息が闇に溶けていくのと一緒に、あたしは深い眠りに入り込んでいった。







その夜、ぐっすり眠り込んでしまったあたしは、朝食で目を覚まさせられた。

約束の24時間はその時点で過ぎていたけど、家まではきちんと車で送ってあげようと思った。
ココに置いていくのだって気が引けるし。

でも。本当は。
そんな風に思うのは、何となく、寂しかったからかもしれない。




「穂積様」


ぼおっとしてしまったあたしは、フロントで名前を呼ばれたその声でハッとする。


「は、はい」

「こちらの金額になります。ご確認お願い致します」


カウンターの上に、機械で打たれた明細書が、すっと差し出された。

―――187890円。

たかだか1泊での金額に、ごくりと喉が鳴った。


それまで少し離れた場所で知らんぷりだった潤は、あたしの横に来て、クレジットカードを差し出した。

アメックスのプラチナカード。


……金持ちって、ホントだったんだ。
そうだよね。初めて逢ったあたしにぽんと百万くれるくらいなんだから。


フロント係がカードを受け取り、カウンターの奥へと会計をしに行く。

そして暫くしてあたし達の前へと戻ってきた。


「結城様」


フロント係がそう呼んだ名前。


ああ、そっか、潤の名字か。
昨日見たキャッシュカード、『ユウキ ジュン』になってたっけ。


「はい」

「大変申し訳ございませんが、こちらのカードは使用不可となっております。
宜しければカード会社に確認をして、承認を取る事も出来ますが、どうなさいますか?」


確認?


使えないの?と、隣の潤の方を見ると、急に、はあ〜。と、大きな溜息を吐いて、頭を垂れさせた。


「マジかよ……ヤラレタ……」


項垂れたまま、そう呟くように言う潤。


「ヤラレタって、何?」


まさか。払えないって事?


あたしが不思議そうに訊くと、潤は勢いよくあたしの方を向いた。


「カード、止められた。
葵、払って」

「はあっ!?」

「取りあえず、渡した金がまだあるだろ?」

「あるけど……」


よく理解出来ないまま、バッグから昨日の封筒を取り出し、取りあえず精算を済ませる。


何だか本当によく分からない。
カード止められた、って。誰かに、って事?


「有難うございました」と、玄関を出るまで中居さん達に見送られる。
「ねぇ、どうしたの?」とのあたしの問い掛けに答えないまま、潤は神妙な面持ちをして、あたしの少し先を歩いた。

車に乗り込むと、潤は如何にも気だるそうに身体をシートに凭せ掛ける。
寄り掛かると同時に目を固く瞑って、眉を中央に寄せた。
険しい顔。
本当にどうしたの?


「ねぇ、潤?どうした?」


一応、あたしは優しく声を掛けてみる。
だって明らかにおかしいし。


すると、ぱっと目を開いて、すぐに寄り掛かっていた身体を上げた。

起こした身体はすぐ近くであたしを覗き込んできた。


「葵、昨日、寂しいって言ってたよな」

「えっ?」


あまりの間近さと、真剣な瞳に、どきっとした。


「それは…言ったけど」

「今日から葵んちに住んでいい?」

「は?」


何?


言われた事を瞬時に理解出来ず、潤を見つめ返した。


だって、今。
住んでいいとか言わなかった?


「クレジットカードだけじゃなくて、多分キャッシュカードも止められた。
今日から葵のトコ、泊めて」

「ええっ!?ちょ…何言って…」

「オレ、現金なんて持ってねーし。行くとこマジ無い。
これも運命だよ。
それとも困ってるオレの事、見捨てるワケ?葵の事、助けたのに。
あー、もうきっと葵の借金、引き落とされてるよな?朝一で」


えええっ!?
ちょっと待ってよ、どうなってんのよ!?


今。
そう言われて驚いて声も出ないあたしに向かって。
潤はにっこりと、あの天使の微笑みを見せた。

いや。
悪魔と言った方が正しいのかもしれない……。

 

 update : 2008.03.21