05
はぁ……泊まるって、どうしよう……。
今更だけど。
大丈夫なのかなぁ……。
車に戻り、仕方なく『泊まる』と言っていた旅館の場所を検索しようと、ナビを操作し始める。
ピッ、ピッ、と軽快に鳴る操作音とは反対に、ボタンを押す指は重たい。
「葵」
「…何?」
操作の指を一度止めて、あたしの名を呼ぶ相手に顔を向けた。
今更ぐだぐだ言うなとか言う?
それとも、またからかって笑う?
そう思いながら振り向いたのに、目の前の顔は妙に真剣な顔付きだった。
「旅館に行く前に、もう一つ寄って欲しい場所があるんだ」
稲取温泉辺りまで車が進むと、潤は道の指定をし始めた。
何処に向かっているのか、とか。やっぱりそんな事一言も言わなくて。
ナビでの地図検索もせず、あたしは言われた通りに道を進んで行った。
国道135号線から山の方へと進んで10分程度。
今の今迄見えていた海の景色から一転して、緑の奥深い景色へと変わった。
薄暗くなり始めた山の中に、ところどころ白っぽく浮き立って見えるのは桜だ。
ヤマザクラとオオシマザクラ。
この辺の方が暖かいせいか、もうかなりの花を広げているらしい。
潤は「あそこの寺」と、フロントガラスの景色の向う側を指差した。
どうやら指の先にあるお寺が目的地みたいだ。
お寺の駐車場に車を停めて、フロントガラス越しに外を覗きこんだ。
緑に囲まれた、古くて趣のある、立派なお寺。
エンジンを切ると、潤は無言で車を降りた。
あたしも続いて降りる。
駐車場に降り立った潤は、門の奥に見える本堂をそこで動かずにじっと見つめていた。
門の脇にある、大きなソメイヨシノが、薄紅の花びらをちらりちらりとゆっくり散らし、緩やかにあたし達にそれを降り注がせる。
空気はしんと、透明感を持たせたように無音で静まりかえっていて。
そこに立つ潤は清冽で、周りを何も寄せ付けないような凛とした顔つきをしていた。
そんな潤の姿は、まるで一枚の美しい絵みたいで。
あたしは声を掛ける事も出来ず、息を詰めて見つめた。
緩やかな風が吹いた。
止まっていたかのような時間はその風の音で蘇り、その瞬間、潤はあたしの方へと振り向いた。
「花さえ持って来なかった、な」
そう言って、渋く笑って見せた。
「誰かのお墓参り?」
あたしが聞くと、潤は今見せていた筈の顔を叛け、すぐに背中を向けた。
「両親の、なんだ」
潤の背中越しに聞こえる、少し掠れたような声。
―――両親……?
あたしが言葉を発する前に潤は歩き始め、あたしも無言でその後を付いていった。
緩やかに吹く春の夕風は冷たい。
その風に落とされる花びらが、小さな墓石の前で手を合わせる潤の背中に、おしみなく降り注ぐ。
暫く押し黙ったようにして瞼を閉じていた潤が、ようやく大きな瞳を開いて立ち上がると、あたしも同じ場所へと入れ替わりに屈んで手を合わせた。
瞼を閉じていても、線香の白い煙がその香りと共に、あたしを包んでから風で流れされていくのが感じられる。
「オレ、孤児で。施設で育ったんだ」
「…え?」
上から聞こえてきた声に、あたしは閉じていた瞼を開けて、ゆっくりと顔を上げた。
「赤ん坊の時に、交通事故で父親と母親をいっぺんに亡くしたらしくて。
一緒に車に乗ってたオレは、母親の腕の中で奇跡的に助かったんだって」
―――交通事故……
その言葉に、蘇る記憶。
警察署内で、固いベッドの上に横たわっていた、白い布が掛けられた身体。
二人、間を空けて。並んで。
さあっと、足元から何か冷たい感覚が身体を駆け巡って通り過ぎた。
自分の身体を抱きしめる様に腕を胸の前で交差させて、掌にぎゅっと力を入れた。
風が、冷たい。
「……潤が、生きてて良かった」
潤を見上げて言った。
本当にそう思った。
初めて今日逢ったのに。
ここに今居て、立っていられるのは、当たり前の様でそうではないのかもしれない。
だって、人の命なんて儚い。
奪われるのだって一瞬。
だから、今を一生懸命に生きる。
あたしの言葉に潤は、茶色い瞳を揺らして、一瞬不思議そうな顔をしたけど。
それは桜の花びらの中で、すぐに笑顔に変わった。
「そんなコト、初めて言われた」
そう言って微笑む潤は、やっぱり綺麗だった。
花びらは音も無く舞い落ちて、まるで雪のようで。
そんな様子が潤に色を添えたみたいに見えた。
「ずっと、さ」
「え?」
「ずっと、墓参りにさえ来れなくて。
今日、来れて良かった。
葵には感謝してる」
どきっとした。
妙に。素直過ぎて。
だけどこの場所では、そんな風になるのも分かる気がした。
厳かなのに、柔らかく。心を真っ白くさせるような、落ち着いた空間。
潤は本当は……ここに一番に来たかったんだ。
あんな風に回り道したのは、今迄なかなか来れなかった罪悪感?
―――それとも……
「お花…持って来なかったって言ってたけど。
こんな立派な桜があるんだから、必要無いよ。
これ以上の花、見つけられないよ」
あたしは立ち上がって墓石の横の桜を見上げた。
満開の、大きなソメイヨシノ。
空に向かって細く伸びる枝に、無数の花を付けて。
その花のひとつひとつが、小さくても誇らしげに美しく咲き誇る。
紫紺色に変わった空に、薄いピンク色が浮き立つ様に映えて、花びらが美し過ぎるせいか、それが眩くて、視界を細めた。
「そうだな」
潤も、そう言って同じ様に目を細めて天を仰いだ。
あたし達は暫くの間、黙って降りしきる桜吹雪の中に佇んでいた。
竹林に囲まれた、純和風数寄屋造りの離れ宿。
伝統ある宿の風情が、細かな部分まで感じられる。
フロントの大きな窓ガラスから望める広い日本庭園は、芝生と玉砂利と植木の置き石が絵のように美しく配置され、見事としか言いようがない。
奥には大きな池もあり、微かな水音が聞こえてくる。
「オイ、見とれてないでチェックインしてこいよ」
フロントで内観にも見とれていたあたしは、後ろから潤に小突かれた。
「あたしが?」
「そうだよ。オマエの名前で書けよ」
「………。
分かったわよ……」
渋々、あたしはフロントに向かった。
こんな高級な旅館、何だか緊張する。
……それにしても。
ここに向かう前にも、予約の電話はあたしに入れさせたし。
今はさっきまで掛けていなかった眼鏡まで掛けて、雰囲気をがらりと変えている。
何か身元がバレたら不味いとか……。
やっぱり何かから逃げてるとか、犯罪とか、関係してるんだろうか…?
チェックインを済ませると、庭園に挟まれた回廊を抜け、離れへと案内される。
部屋は、襖で仕切られる10畳と8畳の和室に、広く取られた広縁。
履き出し窓からは、坪庭の向こうの海も望める。
「奥のお部屋にお布団敷いて宜しいでしょうか?」
案内をしてくれた仲居さんが、にこりと微笑みながら言った。
あたしが答える間も無く、潤が「お願いします」と答える。
考えてみれば、もう、18時を過ぎている。
潤の返事に、中居さんは押し入れから布団を出して敷き始めた。
8畳の広さに二組。すぐ横に並べて。
えーと。そんなに近いの?
最後に羽毛の掛け布団を、敷き布団の上にふわりと乗せながら中居さんが訊いてくる。
「お食事はもうお持ちしますか?」
「19時頃持ってきて。風呂に入るから」
「はい。かしこまりました。
では、ごゆっくりどうぞ」
あたしは、潤と中居さんの遣り取りをただ脇で見ていた。
そういえばお腹空いたかも。
食事も凄い会席料理とか出てくるんだろうな。
お風呂も部屋に檜の露天風呂が付いてるんだっけ?
中居さんが部屋を出た瞬間、潤は待ってましたと言わんばかりに即座に眼鏡を外して、敷いたばかりの布団の上に寝転んだ。
「あ〜。疲れた。
葵、風呂入る?」
「うん、じゃあ折角だから露天風呂行ってくるね。
潤は部屋の入るんでしょ?
ここからだと海も見えていいよね」
「何言ってんの?
一緒に入るだろ?」
………。
「えっ…?」
「え?じゃねーよ」
ええっ!?
勘弁してよ!!
「ヤダよっ!何で一緒に入るのよ!」
「なーに言ってんの?金払ってるの、こっちじゃん?」
「そんな約束してないでしょ!?
大体ねっ!そーゆー事お金で強要したらそれこそ犯罪よ!!」
「………」
あ。黙った。
当り前よ!
………。
……って。ええっ!?
吹き出してるし!!
信じらんない!!
「ちょっと!何で笑ってんの!?」
「…犯罪、ねぇ…。じゃあ、いーよ。
そーゆーの以外で扱き使ってやるからな〜。
覚悟しとけよ」
笑いを堪えながら、潤はびしっとあたしを指差した。
そしてすぐに背中を向け、楽しそうに鼻歌なんて歌いながら、脱衣所へと向かった。
そーゆーの、って。何よ、もう。
それに扱き使うって……
その背中を見ながら、あたしはほっと胸を撫で下ろす。
それなのに。
身体中に、ドキドキという大きな鼓動が響いていた。