02

あまりの驚きのせいか、はっと気が付くと涙は止まっていた。
その代わりに、今にも流れ落ちそうな洟をずずっと啜った。


何を訳の分かんない事を言ってるの?コイツ。
1日買わせて?百万で?
今日花屋を開けるよりも割がイイって……
確かに……1日で百万円なんて、オイシすぎる話だけど。

だけど、コイツって…多分あたしよりも年下だよね?
ハタチは過ぎてるとは思うけど、何でそんな若いコがこんな大金持ってるの?
どう考えてもオカシイよね?
早く車出せとか……もしかして犯罪者とか!?警察から逃げてる!?


ぐるぐると考えを巡らせていると、隣でぷっと吹き出す音が聞こえた。


「ちょ…何笑ってるのよ!?」

「クククッ…
だって、何か変な事考えてただろ?おっかし〜。
言っとくけど、犯罪者でも何でもないから。本当にオレの金」


ちらりと見ると、お腹を抱えて笑ってるし!

犯罪者って……
考えてる事もバレてるじゃん……!!


「だって、オカシイでしょ?どうかんがえたってこんな大金、ぽんと遣えって言うヤツ。
普通疑うわよ!
大体、アンタ幾つ?仕事とか何やってるのよ?」

「アンタ…って、しっつれーだな。
オレはジュン。さんずいに〜、門の中に王って書く、潤。
ちゃんと煙草もお酒も嗜める年だし。今年、22歳。
オレ、金持ちなんだよ」


金持ち?

目深に被っている帽子も、ラガーシャツも、デニムも。
ヴィンテージで、どう考えても小綺麗とは言い難い。
着古した仕様は確かにコイツには似合っていて、お洒落だけど。


「金持ち…って……。そんなお上品に見えないんですけど?」

「ああっ。ホント、しつれーだな。
ほら。オレって売れっ子芸能人だから稼いでるんです」

「売れっ子芸能人がこんなトコにいる訳ないでしょ?」

「う〜ん。じゃあ、売れっ子ホストなら信じる?」

「じゃあ、って。何よ?」

「御曹司は?」

「………。
あたしの事、馬鹿にしてんの?」


ふーっと呆れて大きく溜息を吐くと、潤はちらりとこちらに目線を送ってから、両手を頭の上で組んで顔を上げた。


「マジでホストみたいなモンかな。サービス業。
でもとにかく、違法とかそんなのないから安心しなよ。
法に触れる様な事はしてねーしさ。
いいじゃん。オイシイ仕事だろ?お姉さんの1日買わせてよ。オレに付き合って。金持ちの気紛れと思ってよ。
お姉さんはそれで金を手に入れて〜、オレはたまの休日を満喫。
願ったり叶ったりじゃん?」


今度は天使のような可愛い微笑みを見せる。
極上の笑顔って、きっとこういう事を言うんだ。

運転しながらちらっと見えた顔はそんな顔。
ホントにちょっとしか見えなかったのに。
それなのに不覚にもそんな顔にどきりとさせられた。

あながちホストって嘘じゃないのかもしれない……
こういう顔に、女は弱かったりする。

そのせいか。
こんなに怪しいヤツの筈なのに、何でか信用出来る気さえしてくる。


……百万円。

確かに今のあたしにとっては、喉から手が出る程欲しいお金。
これがあれば確実にこの車も売らなくて済むし。
当分の生活だって安泰。


頭の中はぐるぐると、色んな考えが巡り回っている。
目の前に差し出されたお金が欲しいと言う気持ちと、危ないからやめろという赤信号を行ったり来たり。


「本当にヤバいお金じゃないの……?」

「違うって言ってるじゃん」

「だって、いきなり車出せとか、伊豆に行けとか、オカシイと思うの普通だよ。
あ。警察じゃなくて、ヤクザに追われてるとか!?」


自分で言ってみて、急に怖くなる。

考えてみれば。
轢いちゃったから車に乗せちゃったけど、本当にヤバい人だったらどうしよう!!


そんなあたしの心配を余所に、潤は笑って返してくる。


「何か、ドラマみたいだな、それって」

「あのね。既にドラマみたいな展開なんですけど……」

「じゃあ、いいじゃん?
そのドラマみたいな展開に乗っかっちゃえば。
金、必要なんだろ?明日までに払えなかったらどーすんの?」


どーすんの?って……どうしよう。
確かにどうにかなるという気持ちだけじゃ、どうにもならないんだ。


「だけど……」

「そんな信用ない?」


ふう。と。潤は小さな溜息を吐き出すと、またバッグの中からごそごそ何かを取り出す。

財布だ。

そして、その財布の中から出したカードと、明細表みたいな紙をあたしに見せてきた。


「オレのキャッシュカードと、昨日金下した時の明細表。
名前も一緒だろ?これで信用できる?」


ちらりと目をそこに這わせて見る。

『ユウキ ジュン』

確かに、五十万円ずつ下ろした2枚のキャッシュディスペンサーの利用明細表には、キャッシュカードと同じ名前が入っている。


ホントに変なお金じゃないの?


「だけど百万なんて、大金……」

「いい加減しつけーな、お姉さんも。
持ちつ持たれつってヤツだよ。オレは伊豆に行きたいの!
お姉さんは金が欲しい、これでオッケーだろ?」

「…お姉さんじゃないよ。アオイ。葵御前の葵よ」

「へぇ〜。葵…イイ名前じゃん」

「ちょっと。呼び捨て?あたしのが年上なんですけど」

「いいだろ。オレが雇い主。
それに大して年なんて変わんねーだろ」


「………変わるわよ。あたしより3つも下よ」

「ふーん。25歳?
で。交渉成立?」


雇い主…
交渉…


ちらりと膝の封筒の重みを確認する。
今迄には殆ど経験のないお札の重み……


乾いた喉に、ごくり、と音が鳴りながら固唾が流れていった。


欲しい。確かに。


天秤に掛けられた欲望と正論。現実と理想。

それはもう、傾き始めていた。


「1日よね?約束は」


前を向きながら言った。
あたしの車は既に新保土ヶ谷ICから横浜新道へと入ろうとしている。
伊豆方面へと向かう道。

結局。あたしは既にこの道を選んでいる。
背に腹は代えられないし。

1日で百万なんてラッキーくらいに思ってやるっ。


「交渉成立だな。
じゃ、伊豆までよろしく。
着いたら起こして」

「えっ?」

「オヤスミ〜」


はああ??
ホントに訳分からないヤツ!!

て。ホントに大丈夫なのかな。


キャップを顔に掛け直した潤は、シートを倒して寝る体制。

横浜新道に入ると、あっと言う間に潤は緩やかな寝息を立てた。


正直、不安は大きい。
だけどさっき逢ったばかりの不思議なこのオトコを、あたしは既に半分は信用してる。
て、いうか。信用したいのかもしれない。


横で寝息を立てる潤を再度確認してから、あたしは伊豆へと向かう道のりにアクセルを踏み込んだ。







微かに潮の匂いがする。

立ち並ぶ松の木に左右を挟まれた長い道を抜けると、海のブルーが目に溢れた。
ようやく海を望める134号線。
そんな海の色と違った雲一つ無い朝の空は、余計に引き立つ色を見せる。
家を出た時は薄暗かった空も、とっくに明るくなって太陽が眩しい。


空が綺麗。
こんな色、何て言ったけ?

えーと……

あ。そうだ。
スカイブルー。

文字の意味のごとく、本当にこれが空の色。
気持ちが癒されるくらい。言葉では表現しきれないくらい。そんな綺麗な空の青。

そう言えば最近…色んな事にギスギスしてて……。
こんな景色を楽しむ余裕さえなかったな。

いきなり訳の分からない事になってるけど。
あたしにとってもある意味、良い休暇になるかもしれない……。


訳の分からない張本人を、運転しながらちらりと盗み見る。

顔は鼻の下までキャップで隠れて見えないけど、規則的に寝息を立てていて、眠りが深いのが分かる。


よく寝るなぁ。知らない人の車で。
余程疲れてたのかな……?

それにしても、伊豆に何しに行くんだろ?
休日を満喫とか言ってたけど……


そう考えていると、「ううっ」と低い唸り声が聞こえた。

すぐにまた潤に視線を移すと、大きく首を捩りながら、苦しそうに唸る。


魘されてる?


「ねぇ、どうしたの!?大丈夫!?」


ハンドルを片手に、左手で潤の身体を揺さぶった。

それでもまだ夢から覚め切れないらしく、身体まで捩らせた。
その振動で、顔の上にあったキャップが足元へと落ち、ぎゅっと目を瞑って寄せられた眉と、歯を食いしばる口元が現れる。


「潤!?」


あたしは急いで車を左端に寄せて停車させ、再度潤の身体を揺すった。


「ねえ!潤!大丈夫っ!?」


その声にハッとしたように、潤は目を開いた。

冷汗が、潤の額を流れていった。

一瞬、息が止まったかのような顔つきを見せる。
そして潤はそこでようやく大きく息を吐き出して、乱れた呼吸を整えた。


「ああ。ゴメン…。何でもない…大丈夫……」


片手を上げて、『大丈夫』のリアクションをする。
だけど、どう見ても普通じゃない。


「大丈夫って…。だって、魘されてたよ?」

「マジで平気」


そう言うと潤は、ほんの数秒前の顔つきとは掛け離れたように、穏やかな笑顔を見せた。


……えっ?何で?


急変した顔つきに、あたしは驚いた。

だって。あんなに苦しそうだったのに、それをもう微塵も感じさせない。


本当に、何なの?
行動が普通じゃないし。
何か…は、抱えてる人なんだろうけど。
魘されていた事も関係している気がする。


あたしが黙って見つめると、潤はサイドガラスに視線を移す。


「お〜。海だ!今、何処?」

「もうすぐ小田原…だけど」

「小田原か〜」

「ねえ、伊豆って。伊豆の何処まで行けばいいの?」


あたしの言葉に、海を見つめていた潤は視線を移し替える。


「海沿い走って。後はオレが道案内するし。黙って言う事聞いてろよ」


き…聞いてろって…。
何?その言い方!
魘されてたのだって、心配してあげたのに!!


「ちょっとっ!年上に向かってその言い方はないんじゃない?」


怒ってそう言うと、潤はきょとんと目をまん丸くさせた。


ちょっと!何!?その顔!!


そうかと思うと、今度は急にぶぶっと吹き出す。


「葵さ〜。分かってんの?
オレ、金払ってんだけど?」


クククっと、目尻にきらりと光るものまである。

信じらんない!!
ソコ、笑うところじゃないし!!
確かに百万貰った立場だけど!!
なっ、生意気〜!!

大体、何時まで笑ってんのよ!
だからっ!笑い過ぎ!!


「分かったわよっ!!」


仕方なく、また車を走らせ始める。

ほんっと、何なんだ、一体っ。


だけど、物凄い、コイツのペースに嵌められてる自分がいて。
それが余計に悔しい。


真っ直ぐに続く海の見える道。
車はスピードが乗り始める。
間もなく真鶴道路だ。

横で鼻歌を歌って窓の外を眺める潤に、何だか余計にイライラさせられた。

そんな苛立ちを少しでも抑えようと、サイドブレーキの前の小物入れに入る煙草を手に取り、1本口に咥える。

片手でライターに火を付けて、煙草にそれを近づける。

だけど、息を吸い込んで煙草に火が触れる瞬間に、それはあたしの唇から消えた。


えっ?


それを奪ったヤツへ、驚いて顔を向ける。


「何っ?」

「オレ、煙草吸う女嫌〜い」

「はあっ!?」

「煙草吸うと、キス、不味いじゃん?」

「はあああっ!?」


なっ、何を言ってんだコイツはっ!?


「危ないから前向けよ」


平然とした顔であたしに言い放つ。


ぶちっと、頭の線が一本切れた気がした。
だけどやっぱり仕方なく前を向くあたし。

確かに危ない。
どっちかって言うと、怒りで車が一瞬よろけた。


ホントに何なんだ!!コイツはっ!!


「アンタとなんかキスしないんだからいいでしょ!!」


言い返してアクセルを更に踏み込んだ。

それなのに、「へえ〜」と返ってきた潤の言葉と一緒に、車のスピードは失速していく。


あれあれ???


みるみる失速した愛車は、次のあたしの言葉が出る前に停まってしまった。


最悪だ……
ガソリン入ってないの、忘れてた……


すぐ目の前のガソリンのメーターは、赤いランプが点滅している。

何で気付かないんだ、あたし……。


情けなさからか、潤に対する怒りも瞬時に消え失せて、頭は項垂れた。


美しい海を望む長く伸びる道。
スタンドも見当たらないような。

超が付くほど、この1日は前途多難らしい……。

 

 update : 2008.03.19