01
あたしの1日を、百万で買わせてとか――
今日から一緒に住んでいい?とか――
言っている事はめちゃくちゃで。
何でそんなお金持っているのかとか、何が理由でそんなところに行きたいのかとか、何をやっているのかとか――
そういう事も、全部不明。
それなのに。
あたしはこのオトコを何故か信用してしまって。
挙句の果てには、好きで好きで堪らなくなってしまった。
――彼の本当の姿を知らなかったんだから。
あたしに教えてくれた、こんなキモチ。
一番、大切なモノ。
だから、なの。
一番大切だから。
それをたとえ手放さなくてはならないとしても。
それが運命だって、思えるよ――――……
**
あたしは大きく息を吐き出した後、ハンドルに伏せた顔をゆっくりと上げた。
フロントガラスの向こう側に映り込んだ空は、下の方が少し黄色みを帯びてきた。
朝がもうすぐ明ける事を知らせているみたいに。
何度目の溜息だろう……
そう思ったけど、あたしはもう一度息を吐き出す。
そして、ようやく挿し込んであっただけのキーを回した。
キュルル…と、嫌な回転の音が鳴った。
今朝は特別に冷えているせいだ。
この駐車場から見える、隣の敬太(けいた)の家の桜の蕾がもう綻び始めているっていうのに。
再度キーを右に回し直すと、エンジンがゆっくりと掛る。
ふっ。と。
覗き込んだガソリンのメーターは、どうにか一目盛りに届いている程度で。
それを確認すると、また大きく溜息が出た。
全く……。
どこまでついてないんだろう……
ガソリンさえ、無いの…?
あたし。穂積 葵(ほずみ あおい)。今年で25歳になる。
勿論、独身。花屋経営。
何で花屋を経営してるか…って言うと、両親が花屋をやっていたからだ。
会社員だった父が、昔から母とずっとやりたいと言っていた花屋。
それを3年前。
あたしが就職して手が離れた事を期に、とうとう脱サラして小さな店を構えたのだ。
最初こそ、慣れない二人は四苦八苦していたけど。
1年程前にはようやくつつましくも店は軌道に乗り始めた。
あたしは仕事が忙しくて、店を手伝う事もなかなか出来なかったけれど。
大変でも、楽しそうに花屋の仕事をする二人を見ていて、とても嬉しかったし、そんな両親が誇りだった。
それなのに。
半年前に両親二人とも、あっけなく交通事故で他界してしまった。
朝市に行く途中、対向車線を走っていた車が、ハンドル操作を誤って突っ込んできたのだ。
相手は若干二十歳の若者で。
朝早く、車の量も少なくて。飲酒運転で、かなりのスピードも出ていたらしい。
任意保険にも入っていなかった相手は、保障さえままならなくて。
お金とか、保障とか、裁判とか。
そんな事、いきなり両親を失って、たった一人になってしまったあたしには考えられなくて。
未だに、色んな事が未解決のままだったりする。
とにかく、両親がやっとの思いで作り上げた花屋を潰したくなくて、あたしは会社を辞めて花屋を継いだ。
だけど、花屋の仕事なんて手伝い程度しかした事もなかったあたしは、上手くなんていく筈もなくて。
両親の残した借金もまだまだ沢山あって。
回転資金と生活だけでいっぱいいっぱいなのだ。
しかも、明日はその借金の支払い日ときてる。
そんな状態の中なのに。
頭の中を大きく締めて、浮かんでくるのは、彼氏の貴宏(たかひろ)の、事――――……
貴宏とは、2年程の付き合いだ。
以前いた会社の1つ上の先輩で、部署も一緒だった。
平日も会社帰りにご飯を食べて帰ったり、週末はいつも一緒だったし。
喧嘩もたまにはしたけど仲は良くて、あたし達はかなり上手くいっていたと思う。
そんな風にずっと近くにいて、いつも一緒だと思っていたのに、両親が亡くなる1か月程前に、彼は大阪に転勤になった。
あたし達は、そこから遠距離恋愛に変わってしまった。
その後すぐに両親の事もあって。
あたしにとっては、いくら離れていても心が繋がっていればと、彼が心の拠り所になっていた。
最終的に気持ちが安らぐのも、頼りにするのも彼だったし。
一番の信頼を置いていて、そんな事が当たり前だと思っていた。
だけど昨日。
それが見事に裏切られたのだ。
今迄一人で頑張ってきたけど、どうしても集められないお金を、貴宏のところに借りに昨日大阪へと行った。
こんな事は初めてだったけど、彼ならきっとどうにかしてくれるだろうと思っていた。
そんなところで頼るのは貴宏くらいだっていうのもあったけど。
正直なところ、逢いたいという気持ちの方が大きかった。
お金が必要で、どうにかしなくちゃならないのは勿論なんだけど、色んな事が辛くなって、一人きりで頑張るのもキツくて。
本当は顔を見て癒されたかった。
『頑張れよ』と一言、言って貰いたくて。
これからまた一人でやっていく元気を貰いたくて。
それなのに。
合い鍵で開けた部屋からは女が出てきて……
揉めに揉めた挙句、何故かあたしが女に殴られる羽目になるし。
貴宏は、ただ黙ったままで。
結局、お金も借りられないまま、あたしは横浜に帰ってきた。
最悪の状況としか、言いようが無い。
ひとりぼっちのあたしが、一番信用していた人に裏切られるなんて。
両親の事もお店の事もあって、なかなか大阪にも逢いには行けなかったけど。
大好きで。離れていてもいつかは……って思ってたのに。
思い出されて、目頭がぐっと熱くなる。
それを、固く瞼を閉じて堪える。
息を大きく吸って、長く吐き出す。
それを2回繰り返して、どうにか涙がでそうなのを堪え抜いたのを自分の中で確認して、瞼を開く。
こんな状態で、どうやってこれ以上頑張ればいいの?
もう、どうにでもなればいい。
全部、放り投げてしまいたい。
そう、心は叫んでいる。
だけど、現実は厳しい。
そんな訳にはいかないのだ。子供じゃあるまいし。
貴宏の事で今はいっぱいいっぱいなのに、明日の支払いの事を考えなきゃならない。
本当は部屋で泣いて、寝て、ただじっと過ごしたいのに。
そんな事なんか許されないんだ。
お店を開けて、どうにか少しでもお金を作らなくちゃ。
2回目の支払い期日が過ぎれば信用問題に関わる。
そうしたら、たった一人の女のあたしがお店をやっていくのは、更に難しくなっていく。
ひとりで本当にちゃんとやっていける?
大きく込み上げてくる不安と焦燥感。
車に乗り込んでから、どのくらいの時間が経っているのか……
さっきからずっと、そんな不安もあってか、車を出せずにいる。
あたしはただまたフロントガラスの先を見つめた。
さっきよりもほんの少しだけ、黄色味を増した空。
そこに浮かぶ、細い桜の枝と、綻び始めた五分咲きのピンクの花蕾。今にも大きく花を広げようと準備を整えている。
あたしの気持ちとは正反対に、これから色を添えて美しく花開くのだ。
支払い…本当にどうしよう。
やっぱりこの車も売らなきゃ駄目かなぁ……
でもこれを売っちゃうと、市での買い付けも、配達も出来なくなるし……
ふう。と。
また大きな溜息。
本当に今日何回目?
そんな自分にも嫌気が差した。
もう一度ぎゅっと固く瞼を閉じて、気持ちを立て直す。
ぐだぐだ考えても仕方が無い。
とにかく。
今しなくちゃならない事は一つなんだから。
「よし!」
一言。気合を入れる為に声を出す。
瞼を開けてすぐにギアをドライブに入れ、サイドブレーキを下ろした。
市場へ向かう車の、アクセルを踏み込む。
その時。
フロントガラスに一枚の花びらが舞った。
きっと、風で初めて飛ばされた一枚目の花びら。
暗い中、ひとひらの白い雪のようにふわり、と。
それに視線を奪われた次の瞬間、今度は大きな黒い影がフロントガラスに現れた。
何っ!?
そう思った時は手遅れだった。
車が駐車場から出た瞬間、何か衝撃を受けて、あたしは目を瞑ったのと同時にブレーキを踏み込んだ。
………
ヤバい………
絶っ対っ、何か撥ねた!!
何か、ドゴッって、嫌〜な音もしたっ!!
急激に引く血の気。
その途端、早鐘を打つ心臓。
そろりと瞼を開ける。
フロントガラスの先はさっきと変らぬ景色。
でも、絶対何かぶつかった!!
もし人だったらどうしようっ!!
そう、頭にさっと不安が過り、急いでサイドブレーキを引き直し、車の外に飛び出た。
もしも…が確信に変わる。
車の前には男の人が倒れてる。
紛れもなく、人!!
嘘でしょ!?
ツイてるツイて無いの問題じゃあ済まされないよ!!
「ちょ…大丈夫ですかっ!?」
………
反応が無い。
嘘っ!?どうしようっ!!
「ねえっ!!嘘っ!!大丈夫っ!?」
駆け寄って跪く。
「…ってぇ……」
低く、唸るような声が耳に入ったかと思うと、目の前でようやく伏せたままの身体が起き上った。
良かった!!生きてる!!
「大丈夫ですか?」
身体を上げたその人は、あたしの声に反応したように、腰を手で押さえながらこちらを向いた。
えっ……
驚いて、二の句が継げなかった。
だって。
あたしを見る彼は、あんまりにも綺麗な顔立ちで。
卵型の輪郭に、筋の通った高めの鼻。猫科系の動物みたいに鋭くて大きな瞳は薄っすら茶色くて。
その瞳に掛る、長めの真っ直ぐな前髪。少し開かれた唇は形も整っていて何だか色っぽい。
整い過ぎてるって言っても過言じゃない位……視線を奪われるような、とにかく綺麗な男のコ。
「…乗せて」
「え?」
あたしに向かって言った、第一声。
何を言われたのか、瞬時に理解出来なかった。
だけど、見つめていた筈の顔は急に立ち上がってその場で見えなくなって。
あたしの車の助手席のドアを開けて、彼が乗り込んだ姿を見て、ようやく言葉の意味を理解する。
えええええっ!?
今、車に乗せてって言ったの!?
何でっ!?
「ちょっ、意味分かんないっ!!何で!?」
立ち上がってそう言った瞬間には、バタンと助手席のドアは勢いよく閉められた。
ちょっ…どーゆーコトっ!?
急いであたしも運転席に回ってドアを開け、外から言い放つ。
「ねえっ!何なの!?君っ!!
何であたしの車に乗るのよっ!!」
「いいから早く車出してよ。
オレの事轢いたの、おねーさんでしょ?
身体は大丈夫だし、警察呼ばなくていいから乗せてって言ってんの!
オレ、急いでるんだよ!」
「はぁっ!?」
「いいから乗って!早く車出してよ!」
「訳分かんないっ!!」
「ぐだぐだ言ってんなよ!
警察呼んで欲しい!?」
言われた言葉に瞬時に頭を回転させる。
確かに…警察を呼ばれると、免許停止は絶対だ。
配達の時に切られた駐車違反が2回もあるから。
人身事故なんて、一発免許取消しかもしれない。
「…分かったわよ」
あたしは仕方無く運転席に乗り込んで、そのドアを閉めた。
乗り込むとすぐにまた「早く車出して」のコール。
言われるがまま。
取りあえず車を発車させた。
何でこんな事になってるんだろう……
ツイてないというより、貧乏くじ引いたとか、何かが取り憑いてるんじゃないの…?
いや。
今回は確かにあたしが悪いんだけど。
桜の花びらに気を取られて前をちゃんと見てなかったせいで。
安全確認が足りなかったと言うか。
まあ、いきなり飛び出されて、よけろって言うのも無理な話かとは思うけど……
だけど…何でこの人……?
ちらりと助手席を見ると、キャップを目深に被って、シートに思い切り体を凭せ掛けている。
車を発車させてからだんまりだ。
あんなに勢いよく車出せって言ったクセに。
「あの…ぶつかったトコロ、大丈夫?
何所にぶつかったの?」
念の為、もう一度訊いてみる。
さっきは答えてくれなかったし。
あとで何かあっても嫌だし。
ずっと前を向いていた顔は、そこでようやくあたしの方へと向けられた。
「腰。
痛てぇよ。
でも、まぁ、平気って言えば平気。
スピード出てた訳でもないし」
「そう。良かった…」
取りあえずほっと胸を撫で下ろした。
転んだ瞬間、頭を打ってたりしたら大変な事だし。
「で。何処まで君を送ればいいの?
あたしも急いでるんだけど」
朝から時間食ってるし。
彼を送って早く市場に行かなきゃ、良い花がなくなっちゃう。
「伊豆」
………
あれ?今、伊豆って言った?
「え?もう一回言って?」
「だーかーらー。伊豆だって」
「はっ!?」
「伊豆、知らないの?
静岡県の伊豆だよ。海と温泉があるところ。
分かるっしょ?おねーさん」
はい〜〜〜?
伊豆〜〜〜?
何、言っちゃってるの?このコっ…!
「伊豆って…今から行ける訳ないじゃない!!
何時間かかると思ってるのよ!?ここから軽く2、3時間はかかるわよ!!」
「何だよ、もう乗せたんだから行ってよ。
警察呼ばないで車に乗せたのアンタでしょ?
そこで取引成立してんの。分かってる?」
平然と。
何言っちゃってるの?とでも言いたげな顔つきで眉を寄せて、あたしを下から覗き込む。
信じらんないっ!!
取引って何よ!?ソレ!!
「あたしそんなに暇じゃないのよ!!
これから市場に行ってお店開けなきゃならないんだから!!」
「ああ…そういやこのバン、花屋のロゴ入ってたな…。
えーと…ピュアー…?」
「pure greenよ!
悪いけどあたし一人でお店やってるの!
だから忙しいのよ!!」
「休めばいいじゃん、店。今日は」
さらり、と。
遊ぶことしか知らない子供が悪気無く言うように、目の前のオトコはシートに寄り掛かりながら言った。
休めば……って……
何言ってるの!?コイツ!!いとも簡単に!
あたしがどれだけ――――……!!
「ふざけないでよ!!
休む訳になんていかないわよ!!
お金の遣り繰りだって大変なんだから!
明日支払日だしっ!!少しでも稼がないとならないの!
勝手なこと言わないでよね!!どれだけ大変だと思ってるのよ!!」
そう思わず大きな声が出ると、目の前は丁度良い事に赤信号で。
ブレーキを踏む足に力が入ると同時に、何故かあたしの瞳からは勝手に涙が溢れ出てきた。
ぽろぽろぽろぽろ。頬を伝って。
膝の上のデニムに、濃い模様を作り始めた。
何で泣いてんのよ、あたし。
こんな奴になんかムキになって……
きゅっと、手の甲で涙を拭う。
多分。声に出してしまったから。
不安の糸が途切れてしまったんだ。
色んな事が。張り詰めていた全部が一気に。
「金…必要なの…?」
今更窺うように、そっとあたしに訊いてくる。
『お金』の前に、『ゴメン』でしょ?と思ったけど。
そうは言わずに、あたしはまたムキになって言った。
「そうよ。お金が必要なの!
まあ、アンタには分かんないわよね!」
言いながら、あたしは何をコイツに当たってるんだと思った。
大体、元々悪いのはあたしじゃんか。
だけど。
何だか一度切れてしまったものはすぐに修繕する事なんて出来なくて。
半分は八つ当たりだと分かっていても、どうにもならない気持ちをぶつけるように、彼の顔をキッと睨んだ。
目が合うと、無表情の目の前のその顔は、すぐに膝の上に置いてあるバッグに視線を落とした。
「じゃあ。コレ遣いなよ」
そう言って、ごそごそとバッグから取り出した茶封筒。
あたしの目の前にふっと差し出す。
は?
何?何なの?
やっぱり訳が分からず、ただその封筒に視線を落として凝視する。
「コレで、おねーさんの一日、頂戴よ。オレに」
………
今。何て言った?
言ってる意味がまた更に分からず、視線を封筒から彼に、と、上げる。
目が合ったと同時に、その顔は口の端を上げてにやりと笑った。
「はあっ?」
「だから〜。このお金で、お姉さんの1日買わせて。
金、必要なんだろ?」
「何、言ってるの?」
買わせてって、何?
お金?
何を言ってるのコイツ!
驚いてただ顔を凝視していると、彼は無理矢理あたしの膝の上に封筒を置いた。
「今日、花屋を開けるよりも、かなり割がイイと思うよ?」
ニッと、悪戯っぽく笑う。
あたしは思わず、膝の上に置かれた封筒を手に取って、中を覗き込んだ。
覗き込んだ瞬間、ごくり。と、喉が鳴った。
封筒の中身は、一万円札の、束。
「何…このお金……?」
「百万あるよ。
ね?取引」
そう言ってまた目の前の綺麗な顔は、ニヤリと笑って見せる。
取引?
あっけに取られている間にも、信号は青に変わっていた。
後ろからクラクションを鳴らされて、あたしはすぐに車を発車させるしかなかった。