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式は昼過ぎからの予定で、昨日遅く帰ってきた皆に合わせて、遅めの起床だった。
朝食はホテル内のビュッフェで、当たり障りなく、皆との会話も箸も進む。

須藤さんのご両親とも初めて顔を合わせたけれど、想像していたよりもずっと気配りがある優しいひとで、美咲も上手くやっていけそうな雰囲気だ。

弟の由樹くんとも仲が良いみたいだし。
うん。何だかほっとする。
幸せそうだな、美咲。
良かった……。


けれど、そんな嬉しい気持ちとは違う感情もあたしの中には渦巻いていて、それはどの場面でも消えてはくれない。
笑顔を作っていたけれど、本心からは楽しめていなくて……。

皆と楽しそうに談笑しているのに、あたしとは目も合わせようとしないアイツがそこにいて、頭の中も心の中も、ぐちゃぐちゃだった。

昨日助けてくれたことも心配してくれたことも、何を考えているのかも、本当に分からなくて。
どう対応していいのかも分からなくなっていた。







「お疲れ様」


宮川さんは、久実の首元にかけられていたケープを翻すように外した。

目を閉じていた久実は瞼を開くと、繊維入りのマスカラでばっちり長くなった睫をしばたきながら、目の前のドレッサーに映り込んだ自分を食い入るように見つめた。


「わ……やっぱり違う!
さすがプロ……」


ハーフアップに結われた髪にピンク系のメイクは、久実の雰囲気に合うナチュラルな感じだけれど、しっかりとしたベースは肌を普段の何倍も美しく見せて、ピンクのチークを可愛らしく引き立てる。
濃すぎないアイメイクなのに、大きくはっきりと見える目元。
水色のオーガンジーのドレスを着た久実に、良く似合っている。

魔法の手で変身させられた久実は、あたしから見てもいつもより格段に綺麗だった。


久実は、少しの間角度を変えながら鏡を眺めたのち、ふわりと笑顔を見せ「ありがとう」と、宮川さんに言って椅子から立ち上がった。

あたしは今迄久実が座っていた椅子に、交代するように腰を下ろした。
思ったよりも一人当たりのヘアメイクには時間がかかり、美咲と久実の後のあたしは、迎えの時間も迫っていた。

ホテルから式を挙げるチャペルまでは、美咲達が車の手配をしてくれていて、それに乗って移動する。
勿論、美咲と須藤さんの二人は、リムジンのお迎えだけど。


「間に合いそう?
裕くんも自分の支度があるもんね」


椅子に座るあたしと、その後ろに立つ宮川さんの顔を、久実は鏡越しに覗き込んだ。


「どうにかするから大丈夫」


宮川さんは、いつもお店で見るような営業スマイルをして見せながら答えた。
もう既に、仕事の顔つきだ。

真剣な鋭い目つきが、鏡を通してあたしの瞳を捉える。

大きな手があたしの髪に触れ、ゆっくりと手櫛で指を髪に絡めながら梳き出した。

流れるように柔らかく触れるソレが心地良くて。
それでいて官能的にさえ感じる指先の温度が、乱されたくないという気持ちとは反対に、心臓を大きく動かしていく。

前髪をかき上げられ、クリップでそれが留まると、露わになったあたしの顔のすぐ近くで、宮川さんの綺麗な顔が覗き込んでくる。


「目、瞑って?」


どきり、とする。
そんな言葉に。

キスをされる前に使う言葉、とか思うなんて……。
あたしは不謹慎な女だ。


黙ったまま目を瞑ると、頬に彼の手が軽く触れた。
触れられた部分が、熱を帯びたように熱い。

昨日の冷たい手とは、違う温度。
だけど、同じ指先の感触。


ヤダ……。
ドキドキが止まらないよ……。


「あれ?」


瞼を閉じた暗い視界の中で、久実の不思議そうな声が上がった。


「このハンドクリームって、愛里が探してたヤツじゃない?
売り切れで、なかなか手に入らないとかいうヤツ」


――えっ?


反射的に目を開け、久実の方へ振り向くと、細い指が差す宮川さんの黒いメイクボックスの中に、あたしがプレゼントしたのものと同じハンドクリームのチューブが見えた。

薄いイエローに、ブラウンの文字とキャップ。
同じものに間違いない。


「どこで買ったの?
愛里、すっごい欲しいって相当探してたんだよね?」


久実が宮川さんに言った言葉に、どきっとした。
動いていた宮川さんの手も、ぴたりと止まる。


……恥ずかしい。
これじゃあ、あたしが好きだってことがバレちゃうじゃん……。
宮川さんのために一生懸命探したなんて、思われたくないよ。


探していた理由も、プレゼントしたことも、久実は何も聞かされていないのだから、こんな風に聞くのも言うのも、自然なこと。
あたしが宮川さんのために探してプレゼントしたなんて、久実はこれっぽっちも思っていないのだろう。

もし、上手くいったら、きちんと久実にも美咲にも話そうと思っていた。
だけど、結局あんな目にあって、言えるはずもなく終わっちゃった。
だって、あまりにも惨め過ぎたから……。


鏡の奥の宮川さんは、あたしと目を合わせようともしない。
少し伏せた瞳は、困惑しているようにも思える。
あたしも、恥ずかしくて顔を伏せた。
多分、酷い顔してる……。


ねぇ……何て答えるの……?


ぎゅっと、膝の上の掌を握る。


「お客さんから貰ったんだ」


頭の上から降ってきたのは、その冷たい言葉だった。

思わず顔を上げると、宮川さんは無表情なまま、一度止めていた手を再び動かし始めた。

鏡を通して見せたその表情は、無関心さが覗き見えるようで……。


――お客さん……。


そうだよね……。
あたしなんて、宮川さんにとったら、ただのお客の一人でしかないんだ。


胸が、締め付けられた。
息苦しいほどあたしを痛めつけて、この感情が何なのか、思い起こさせられる。


――忘れ切れない、好きだという気持ち……。


久実はあたしのそんな気持ちに少しも気付かない様子で「美咲の花嫁姿見に行ってくるね!」と、言い出した。


「えっ!?」


思わず出たあたしの驚いた声に、久実は眉を寄せて不思議そうに少し首を傾げた。


「何? 何かマズイ?」


だって、久実がいなくなったら、この部屋にあたしと宮川さん二人きりになっちゃうじゃん!
そんなの気まず過ぎる!


けれど、そんなことが言えるはずもない。


「そうじゃ、ない、けど……」


あたしは、鏡に映る宮川さんをちらりと盗み見た。
けれど、変わる様子も表情も見せないまま、少しカサついた指の腹がリキッドのファンデーションを乗せ、あたしの頬をゆるりとなぞっていく。

「じゃあ行ってくる」と、久実はやっぱり気付く気配はなく、膝丈のドレスの裾をふわりと揺らしながら、機嫌良く部屋を後にした。

久実がドアを閉めた重たい音と、廊下に響くヒールの小さな足音だけが、部屋の中に流れた。

二人きりになって、あたしの緊張感は最大級と言ってもいいほど高められているのに、宮川さんはものともしない顔つきで、メイクの作業を続けている。

魔法の手が軽やかに優しく動いて、呪文もないのにあたしを少しずつ変身させていく。


言葉もないまま、時間が過ぎていって。

ただ、その手に翻弄されたようにドキドキさせられて。


何を考えてるの?
全然、分からないよ。
冷たかったり、優しかったり……。
遊びなら、もっと冷たくしてよ。
こういう時に、何で黙ったままなの?

――じゃないと、この気持ちの行き場がないよ。


アップになった髪は、最後にスプレーで仕上げにかかった。
アイロンで巻かれた髪の先を、少しだけ束で取って、捩って整える、あの長い指先。


あたしも口を閉ざしたまま、その手つきを鏡越しにじっと見つめていた。


「仕上げに粉叩くから。目、瞑って」


何も言ってくれないはずの口元が急に動いて、大きく心臓が跳ね上がった。

鏡を通して、ようやく瞳が合わされた。
深くて濃いブラウンの瞳。

ほんの数秒、そこで見つめ合う。


ぎゅっと、また胸が締め付けられて。
……苦しくて、あたしは瞳を閉じた。

ふわり、と、柔らかいブラシの感触が鼻筋と頬を撫でていく。

柔らかく、額と頬を伝わると、そのブラシの感触が止まった。
それは、この時間を終わりだと告げるものだ。


一緒にいると苦しいのに。
それなのに、もう終わってしまうことも苦しい。


でも……普通にしなきゃ。
変に思われる。


仕方なしに瞼を開いた。
けれどその瞬間、突然それを邪魔するように、あたしの唇に温かく柔らかな感触がした。
触れたことのある――あの日と同じ唇。

キン、と、頭の先に緊張が走る。
身体中に甘い感情と波も込み上げる。

駄目、と、思うのに、身体は正直だ。
この人が好きだと、頭じゃなく、身体も、心も、全部が言っていて、あたしはそのキスに思わず応えてしまいそうになる。


――あたしのことを好きじゃない、この男に。


そう思うと、昨日の言葉が頭に鮮明に蘇った。


――『楽しませて頂きましたから』


パシンッ

部屋に、鈍い音が響いた。
涙が頬に伝わったのと同時に、あたしは彼の頬を叩いていた。


「最低……っ」


ぎゅっと歯を食い縛って、睨みつける。
せっかくのメイクが台無しになるじゃない、と、涙も堪えようと、努力だけはしてみる。

だけど、下の方から込み上げてくるものは、努力だけでは止められそうもない。
涙で滲み始めた目で、黙ったままのアイツをただ睨む。

悪い、とも微塵も思ってなさそうな顔つきの宮川さんは、ようやく口を開いた。


「何でお前が怒るんだよ?
……どーせ、一回も二回も同じだろ?」


何、それ……!
信じられない!


唖然として、言葉も出ないあたしを尻目に、宮川さんはくるりと背中を向け、ドアの方へと向かう。
厚い絨毯敷きの部屋は足音さえ立てずに、彼の長い足を簡単にドアの外へと運んだ。

静かに閉じられたドアは、それでも重厚な音がそこに響く。


やっぱり、遊びだったんだ。
少しでも期待したなんて、馬鹿みたい……。


また一人部屋に取り残されたあたしは、音もなく涙が流れ出た。











花嫁って、何でこんなにも美しくて幸せそうなんだろうと思う。
世界中の幸せをぎゅっと集めて凝縮したような、そんなオーラと清廉さを身に纏う。
美咲のその姿も例外じゃない。

昨日のシュノーケルでほんのりと色付いた肌に、純白のドレスがこの南国の世界には似合い過ぎるほどで。
大きく背中の開いたデザインは、大人の女性の雰囲気さえ醸し出している。

白い歯を覗かせて笑顔を見せる美咲。
そんな姿を見て、幸せになって欲しいと純粋に思った。


チャペルは、小さくこぢんまりとしている。
けれどそれが、逆に凄く素敵に見える。
白い薔薇の花が飾られた木製のベンチが、赤い絨毯の敷かれたバージンロードを挟んで五脚ずつ。
年季の入ったパイプオルガンに、ブロンズの十字架、白い大きなキャンドル。
正面の大きなガラス窓からは、海の景色が映し出されている。

日本の海とは違う色を見せる美しいその水平線の上には、真青な空に真っ白な雲が、二人を祝福しているかのように眩しく輝いている。


「Misaki do you take Masato to be your wedded husband to live together in marriage.
Do you promise to love him, comfort him, honor and keep him. For better or worse, for richer or poorer, in sickness and health. And forsaking all others, be faithful only to him.
So long as you both shall live?」

「Yes,I do.」


牧師さんの流れるような言葉に、須藤くんも美咲も真摯な顔つきで答える。

誓いの言葉。
指輪の交換。
軽く唇に触れるだけのキス。

神様の前で一生愛することを誓った二人に感動する。
胸に込み上げてくる、真っ白い気持ちと痺れるような幸福感。


だけど……。
心からの祝福と、嬉しさがあるのに。

それなのに、心のどこか奥の方に小さな穴が開いていて、そこから冷たい風が通り抜けていくような、そんな虚無感も否めなかった。





式が終わって、来たときと同じ送迎車に乗り込み、ホテルへと戻る。

あんなことがあったのに、まるで何もなかったように楽しく笑い合うアイツ――。

そして、あたしも。
何もなかったかのように振る舞う。



この後は、美咲達がフレンチレストランでの食事に招待してくれている。
着替えをして、少し部屋で休んでから、早目の夕食も兼ねてとのことだ。

久実はメイクもヘアもそのままで、ドレスだけシンプルにと、大人っぽいワンピースに着替えると言っていた。

けれどあたしはホテルの部屋へ戻ると、迷わずシャワーへと向かう。
すぐに全て洗い流したかったから。

だって、もう耐えられなかった。
彼の手によって作られたあたしなんて。

ユニットバスで、頭から勢いよくシャワーを浴びた。
こんな気持ちも、あの日の出来事も、全て流してしまいたい。
それなのに、身体が覚えていて、離れてくれないあの掌の感触と指先の温度――。


――好きな人の温もり。


きゅっと、蛇口を捻ってシャワーを止める。

目の前の鏡に映る自分の顔は情けないくらい、瞳から頬を水道水とは違うもので濡らしていた。

 update : 2008.01.31