2
ラウンジで軽く昼食も済ませたあたし達は、その後部屋に一度戻り、すぐにシュノーケルをするために海に出た。
せっかくグアムに来たんだから、めいっぱい海で遊ばなきゃ勿体ない。
アイツのせいで、楽しみにしていたこの旅行は、初っ端から重たい気持ちにさせられたけど。
それでも、まだ初日だし。
これから残りの時間を思いっ切り楽しめばいいと、一生懸命割り切ってみる。
――綺麗……。
透き通ったエメラルドグリーンの海の中は、天井から光の束が差し込んで、手が届くくらいすぐ目の前を通り過ぎる熱帯魚の群れを、光が反射したようにキラキラ輝かせる。
底の砂は真っ白で、水の中に舞い上がったその砂の粒はまるで雪のようだ。
赤や黄色の美しい色をした魚達は、憶することもなく、ひっきりなしに通り過ぎて行く。
そこに浮き立つように海藻が揺らめき、珊瑚のピンク色が水の色の中に映えて、まるで夢の世界のように幻想的な世界を作り上げている。
水中を堪能し、ようやく水面に顔を上げると、美咲と久実は、宮川さんと海面で何かやっていて、興奮気味にきゃあきゃあ高い声を響かせていた。
何をやっているのか気になって、思わず様子を覗う。
「これやると、魚がスゲー寄ってくるよ。
潜って、手の上に乗せて……」
嫌でも耳に入ってしまう、アイツの声。
どうも魚の餌みたいだ。
ふうん……。
あたしにはくれないんだ……?
別にいいんだけど。あんな奴から貰わなくたって。
だけどあたし一人、そんな風にしなくたって……。
もしかしてじゃなくて、コレって――意地悪されてるとか?
胃の辺りが妙にムカムカする。
見ていられなくて顔を逸らすと、横から声をかけられた。
「愛里ちゃん!」
「え?」
声の主は佐原さんだった。
笑いかけてくる唇から零れた白い歯が、焼けた肌に映えて凄く爽やかだ。
「佐原さん」
「やだな」と、佐原さんは更に歯を見せて笑う。
「他人行儀だなぁ。康祐でいいよ。ね?」
「はっ、はい」
「いや、だから……敬語じゃなくていいって」
はははっと、楽しそうに佐原さ……、えっと、康祐くんは笑った。
優しそうな感じの人だな……。
「愛里ちゃん、餌、貰った?」
「……あ。いいえ」
「じゃ、コレあげるよ」
そう言って康祐くんは、両手で包みこむようにあたしの掌の中にガチャポンのカプセルを握らせた。
「ありがとう」
透明のカプセルの中には、さらさらの砂のような顆粒の餌が入っている。
何だか、綺麗。
それを太陽に透かせてみると、向こうから美咲の大きな声があたしを呼んだ。
「愛里、康祐くん! もうちょっと深いところに行くよー!」
「ええっ!?」
思わず声を上げたのに、あたしが乗り気じゃないのなんて、気が付いてなさそうな顔付きだ。
須藤さんも美咲の横で、笑顔で手招きしている。
だって、あたし、泳ぐの苦手なんだけど!
深いところ、って……大丈夫かなぁ……。
今いる場所さえ自分の背より深いところになのに。
だけど、こんな雰囲気であたしだけ行かないとは言いにくいし……。
「行こっか?」
康祐くんがまた爽やかな笑顔を向ける。
あたしは仕方なく、「うん」とだけ答える。
ゆっくりと沖へと泳ぎ始めた美咲達に、あたしも遅れて後ろに付いて泳ぎ始めた。
顔を上げたまま、どうにか拙い平泳ぎをしていると、バシャンと、音がして、水しぶきが頭から勢いよく降ってきた。
「ひゃっ」
思わず、目を瞑る。
急に海水が目に入って、しみた感じがする。
それでもすぐに瞼を開くと、その先にはアイツがいた。
「ああ。ゴメン。かかった?」
……って。
わざとなんじゃ……。
「かかりました、けど……」
「あー。悪い。
つーか。何か、面白くて手元が狂った」
「え? 面白い?」
意味が分からず、彼を見上げた。
すると、ふっと、意地悪そうに口元が上がった。
「お前さ、スッゲー泳ぎ方……」
ぷぷっと、今度は鼻で笑う。
面白いモノを見たような顔つきだ。
ムカつく!
悪かったわね!
「ほっといて下さいっ!」
「早くしないと康祐に置いて行かれるぞ?」
はぁ? 何それ?
康祐くん?
泳ぎがそこで止まっていたあたしは、皆の方へ振り返る。
康祐くんは少し先で止まっていて、あたしを待っていてくれているようだ。
「やっぱ、誰でもいいんだな」
視線を戻す前に、その言葉が耳に入った。
――えっ!?
と思っている間にも、その声の主は海中に姿を消していて、水音と輪を作った海面だけが残されていた。
波立ったその海面を思わず凝視する。
何、それ!?
誰でもいいって、それって自分じゃないの!?
確かにさっきあんな風には言ったけど、本当はそんなんじゃないのに……!
海からまた顔を出して泳ぎ始めたアイツを見て、あたしも悔しくてその姿を追うように泳ぎ出した。
泳ぎの遅いあたしは、皆について行くのも結構必死だった。
だけどまた馬鹿にされたくなくて、一生懸命に泳ぐ。
ほんの少し先の海は、青く深い色に変わっている。
――ドロップオフ
そこから急激に深くなるところだ。
その海の中の景観は、浅瀬とは格段に違う美しさを持つらしい。
あたしも今迄そこに踏み入れた事はなくて、その世界を見てみたいとは思っていた。
だけど、腕が痛い。
それにフィンを着けた足が重たい。
結構ヤバいかも……。
「ねぇ! 皆ちょっと待って!」
大きな声を出したのに、少し離れた皆は、楽しそうで気が付いてないようだ。
海の上は声も飲み込まれるほど、広くて雄大過ぎる。
どうしよう……。
これ以上進むのを躊躇していると、宮川さんが振り返った。
――気が付いた?
そう思ったのに、その顔が少し歪み、ふいっと隣の久実に向けられた。
ああ、やっぱり、ね。
気が付いてなんてくれてない……。
それともわざとなの……?
不安が大きくなって、もう一度大きな声で呼ぼうかと思うと、宮川さんの姿はすぐに海に潜って見えなくなった。
久実はあたしに向かって手を振る。
えっ? と思うと、宮川さんは綺麗なフォームのクロールで波を掻き分け、あっと言う間にあたしの目の前に現れた。
ええっ!?
ギリギリに海に浮くあたしの身体を、分かっているのか、持ち上げるように腕を掴んだ。
思ってもみなかったことに、あたしはすぐに声も出ない。
だって。
やっぱりカッコイイとか、不覚にも思った自分がいて。
胸がぎゅっと締め付けられる。
「な、何で?」
「お前さ、そんなに苦手なら無理すんなよ」
宮川さんは少し怒ったように言い、はあ、と、上がった呼吸を整えたのか、呆れたせいなのか、その口から大きな息を吐き出した。
「……え、だって……」
どう答えていいか分からなくて、しどろもどろになると、呆れたように今度は溜め息と分かるモノが長く吐き出される。
「へったくそな泳ぎでついてこられんの、迷惑。
溺れ死んでも面倒見切れねぇ」
「ちょ……っ、酷っ……!」
「つか。行くぞ」
宮川さんはそう言うと、ふわりとあたしの身体を支えて泳ぎ出した。
えっ?
嘘……!
がっちりとした筋肉質の腕があたしの身体に回されている。
ビキニ姿のあたしの素肌に直接触れられた、あの手と指先。
手だけじゃなく、厚い胸板や、幅のある肩が触れ合い、冷たい水の中でもその温度が伝わり、重なった肌の部分が熱を帯びたように熱い。
心臓が暴れ出す。
……こんなのって。
ドキドキしてるの、絶対バレちゃうじゃん。
何かスポーツでもやっているように締まって程良く綺麗についた筋肉質な身体は、健康的に焼けている。
その肌の色に光る水滴にさえ妙にどきっとさせられる。
今の今まで触れ合っていた身体が、太陽の下で目の当たりにさせられた気分だった。
目の前の宮川さんの濡れた身体が、あの日をリアルに思い出させた。
どうにも気持ちの置き場もなかったけれど、なされるがままだった。
けれど、遠く感じていた砂浜は、あっと言う間で。
あたしは宮川さんの腕に引かれて、軽々と足の着くところまで来てしまった。
完全に足が着くと、あたしに回されていた腕が外されて、それまで密着していた身体がぱっと離れた。
砂浜に上がると、足元の真っ白な砂は黒い模様を作っていき、乾き切ったそこを潤すように水が浸み込んでいく。
「あの、ありがとう……」
何となく体裁が悪くて、少し俯きがちに、上目遣いで言った。
少し長めの髪が濡れて束になっていて、そこから水滴が滴り落ち、陽光でキラキラ光って、照りつけてくる太陽が余計に眩しく感じる。
目の前に立った宮川さんの背の高い身体が、あたしに濃い影を作ったけれど、じっと見下ろしたまま、返事さえない。
「……無理してんじゃねーよ」
冷たい、一言。
だけど、助けてくれたのは事実で……。
無理していたのも事実……。
だから、言い訳しか出来ない。
「見たかったのもあるけど、あたしだけ行かないなんて、悪くて。
せっかくの雰囲気、壊したくなくて……」
「あのな。だからって無理して何かあったらどうすんだよ。
心配かけさせんなよ。
心臓止まるかと思った」
その言葉に、思わず目線だけだったはずが、顔まで上がって見つめ返す。
だって。
さっきまでのあの意地悪な口調じゃなくて。
あたしが好きな、優しい口調。
何で?
心配なんてしてくれたの?
そう思うと、あたしの言葉が口から出る前に、頬に大きな手が触れた。
優しく水滴を拭うように、海水で冷やされた掌の感触が、ゆっくりと頬をなぞっていく。
どきりと、心臓が高鳴った。
少し屈んだ姿勢は、あたしの瞳と同じ高さに合わせられて、まっすぐに見据えてくる。
そこにあたしが映し出されて、陽光と共に、光って歪む。
まるでキスでもされそうな瞳にあたしは捕らえられて、そこから逸らせなくなってしまった。
そんなほんの僅かな時間が、永遠と続くようにさえ感じるほど緩やかに過ぎていき、ただ見つめ返すしか出来ない。
心臓は、痛いくらいに打ちつけてくる。
掌が頬から離れた。
その瞬間、目の前の顔は少し歪む。
だけどすぐにくるりと後ろを向いて、その顔は見えなくなった。
動き始めた足は大きな歩幅で、白い砂粒を足元に舞い散らしながら、あたしから徐々に遠退いて行く。
「待って、どこ行くのっ!?」
皆の所に戻らないの!?
あたしの呼びかけにも振り向かないまま足は進み、軽く手が上がった。
「だりぃ。部屋、戻るわ。
久実ちゃんに言ってあるから」
えっ、何で……?
それって、あたしのせい……?
背中から聞こえてきた気だるそうな声は、結局振り向かないまま、遠くなっていった。
「一緒にいたんじゃなかったの!?」
呆れて物も言えないといった表情の久実は、カーディガンに袖を通しかけていたのに、その動作を途中でぴたりと止めた。
「岸に戻ったら、宮川さん、すぐにホテルに帰っちゃったから……ずっと一人だよ」
「信じらんない! 何でよ?
普通、一緒にいるでしょ!」
「いいじゃん、別に……」
答えながら、あたしが理由を聞きたいわと、ひっそり心の中で悪態をつく。
あれから海岸に一人残されたあたしは、暫く砂浜にずっと座って皆を待った。
何を考えてるのか分からない宮川さんに、ドキドキさせられて翻弄された自分も嫌で、海にまた入る気にもなれなかった。
一月の日本と真逆の季節感を持つグアムは、こんな強い日差しに暫く当たっていないあたしを容赦なく照りつけて、肌を焦がしただけじゃなく、頭痛までプレゼントしてくれた。
急激に陽に当たり過ぎたせいで、軽い日射病になったみたいだ。
だけど、熱を持つようなその痛みと眩暈は、太陽のせいだけじゃない気がする。
「だってさぁ、裕くんって、かなり愛里のタイプかと思ってたけど」
ようやくカーディガンの前のボタンを留め終えた久実が言った。
その言葉にドキッとする。
さすがに付き合いが長いだけある。
「タイプじゃないよ、あんな遊んでそうな人」
あたしはフロントで貰ってきた氷水の袋を、おでこに当てながら答えた。
思わず声が大きくなったのを見て、久実は意味を含んだように「ふーん」と口の端を上げた。
「まぁ、いいけど?
で、頭痛はどうなの? やっぱり行けなそう?」
「ゴメン……。ちょっと無理そう。
明日は式だから体調整えたいし、部屋で寝てる。
皆には謝っておいて……」
「うん。分かった。
こっちこそごめんね」
久実はそう言って、絨毯敷きの床の上からバックを取り上げ、肩にかけると「じゃあ、行ってくるね」と、部屋を後にした。
心配そうな顔を見せながらも、足取りは心なしか楽しそうにも見える。
海から上がって小休止の後は、勿論ショッピングを楽しむのだ。
その後は適当に食事をして軽く飲みに行く……というお決まりのようなコース。
二泊三日の短いグアム旅行。
結婚式がメインとはいえ、時間を有効に使って思い切り楽しまないと損なのに。
出足を挫かれ過ぎてるあたし……。
ふう、と、小さな溜め息を吐いて、天井を見上げる。
日本のホテルより、ずっと高く感じる広い天井。
白く広がるクロスに、小さな染みを見つけると、それが心の中の奥の方の何かを刺激したように、ぐっと目頭が熱くなって、涙が出そうになった。
また、溜め息が零れる。
これで今日何回目かな、と思うと、部屋のインターフォンが響いた。
――誰……? 美咲?
「はい」
取りあえず、ベッドの上から返答だけしてみる。
………。
返事がない?
仕方なくベッドから滑り降りて、入り口のドアに向かった。
足を進める度に、頭を裂くようなズキズキとした痛みが襲う。
結局返事を貰えないまま、誰だろうと、ドアを開ける。
だけど、痛みを堪えてここまで来たあたしの労力を無駄にするように、開いたドアの先には誰も居らず、廊下も静まり返っていた。
何よ、もう…っ。悪戯?
痛む頭を押さえてドアを閉めようとすると、足元にあるものにようやく気が付いた。
……袋?
どこかのショップの、紺色のビニールの袋。
屈んで手に取り、中身を確認する。
『パーティ用ヘア』のタイトルの一冊のヘアカタログ。
それに、冷却シートの箱。
これって……。
嘘……もしかして、宮川さん!?
思わずドアの外に出て、廊下を見回す。
だけど、やっぱり誰かいるという気配を微塵も見せず、静かな空気だけがそこに流れている。
はぁ、と、出た小さな溜め息と一緒に、胸がぎゅうっと握り潰されたみたいに縮んだのを感じる。
袋ごと、ぎゅっとそこに閉じ込めるように抱きしめる。
何でよ?
何なの?
わけ分かんないよ。こんなの。
優しいんだか、意地悪なんだか、全然分かんない……
何考えてるのよ……。
本当は、どんな気持ちでいてくれてるの……?
遊びだって、そんな風なこともあたしに言ったクセに。
それなのに、何で優しさなんて見せるの?
掻き乱されてイライラした気持ちとは別の、苦しくて切ない、捉えようのない感情までが胸に押し上げてきて、あたしはやっぱり涙が零れそうになった。