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「わぁ。凄い綺麗!」


目に余るくらい眩しい光の束が差し込んで、柔らかな風が髪と頬を撫でつけながら潮の香りを運んでくる。
最上階のこの部屋のテラスから眺める階下は、透き通ったエメラルドグリーンの海と、どこまでも果てしなく広がる、澄んだコバルトブルーの空。
珊瑚礁のラインが遠目にもハッキリと映し出された、このグアムの海の美しい景色は、普段の忙しさや喧騒も忘れ去るほど、優雅で贅沢な気分に浸らせてくれる。


「愛里(あいり)!
景色もいいけど、美咲(みさき)が待ってるよ」


呆れたようなその声に、美しい景観から引き戻されて振り返ると、部屋のドアの前で久実(くみ)は、如何にも『早くしろ』と言わんばかりの顔つきを見せながら手招きしている。


「はぁい」と、ひとつ、あたしは仕方なしに返事を返す。


あたし、松永 愛里(まつなが あいり)と、友人の久実は、高校からの親友である美咲の結婚式に呼ばれて、はるばるこのグアムまで来た。

どうしても海外ウエディングじゃなきゃ嫌! と。
美咲は、婚約者の須藤さんとそのご両親とも揉めたらしいけれど。
帰国してから披露宴まではいかない簡素なパーティを設けることで、どうにか向こうも納得してくれたらしい。

まぁ、美咲の性格から言うと、ごねてごねて、ごねりまくってどうにかしたのだと想像はつくけれど。

グアムでの式は遠いということもあって、お互いの家族と親友のみの、アットホームでささやかなもの。
ホテルに着いたばかりなのに、せっかちな美咲は早速、須藤さんの友達を紹介すると意気込んでいて、あたし達をロビーに呼び出した。


「友達の結婚式とか二次会の出会いってさぁ、カップル率高いよねぇ。
美咲のダーリンのお友達っ、カッコイイといいよねー」


そう言いながらロビーに向かう久実の足取りが、心なしか速まったのは気のせい?

でも……
正直、あたしも期待が全くないと言ったら嘘になる。
友達の彼の友達……って関係から始まる付き合いなら……。
――アソビ、で、終わることなんてないだろうし。

この旅行で、きちんとした付き合いが出来るようなカレと、めぐり逢えたらいいな、なんて。
ほのかな期待を胸に、あたしも久実の後ろに続いて足を速めた。


それなのに。
そんなほのかな期待さえ、裏切られるなんて。


もう二度と会うことなんてないだろうと思っていたのに。
あたしの目の前にはあの時の人物が立っていて、口から手が出るくらいの驚きとショックを受けた。


「愛里、久実、こちらね、彼の友達の宮川 裕(みやがわ ゆう)くんと、佐原 康祐(さはら こうすけ)くん。あと、弟の由樹(よしき)くん」


にこやかにその人物を紹介する美咲。何にも知らない顔で。
言ってなかったから、当たり前なんだけど……。

須藤さんの隣で幸せそうに微笑む美咲が、あたしには憎らしく思えた。


「初めまして。宮川 裕です」


アイツは、そうあたしにさわやかな笑顔を向けた。


――ハジメマシテ


平然と言われたその言葉。


よくそんな言葉が出てきたわね。と、喉元まで出掛かったのをぐっと飲み込んだ。
それと一緒に消化しきれない気持ちをどうにか抑え込む。

そして、あたしも意地になって無理矢理笑顔を作り、ヤツの目の前に手を差し出した。
唇の端っこが歪みそうなのを我慢して。


「初めまして。松永 愛里です」


そう言い終わると、あたしの差し出した掌に、彼の手が伸ばされた。

ぎゅっと、力強く握られる。

大きく包み込むような掌。
荒れた指先の感触。


この手で……
抱きしめられて触れられた時の感覚と気持ちが、身体に流れるように甦った。
ゆっくりとあたしの髪を梳いた手つきも。

憧れてやまなかった大きな掌――。





宮川さんは、あたしのいつも通っている美容院の人気スタイリストで、腕は勿論なんだけど、背も高くて甘いマスクの彼は、違った意味でもお客さんに人気があったのを知っている。
彼が目当て……という人が少なくないのも、ちらりと他のスタッフから小耳に入れた。
あたしも……その一人だった。

憧れ意識が強かったのも認めるけど、好きだって気持ちはそこにちゃんとあった。

確かに格好良いけど、それだけで好きになったわけじゃなくて。
髪を切ってもらったり、パーマをかけてもらったりする間に、お互いに話したプライベートのことも含めて、とにかく話していて凄く楽しくて、気も合った。
時折見せるはにかんだ笑顔には気持ちを癒やされたし、お客としてじゃない彼本来の優しさも感じられた。

落ち着いた雰囲気や、ひとつひとつの仕草も好きだったし、彼の手が生み出していくスタイリングは凄いと尊敬していたし。
いつも必ず思い通りのイメージにしてくれて、魔法の手みたい、なんて、思ってた。

あの大きな手で、柔らかく髪に触れられると、胸がきゅっとして。
それなのに、心地良いなんとも言えない甘い気持ちが込み上げてきたんだ。


だけどその大きな手は、薬品やシャンプーでいつも荒れていて、痛そうだな、って、気になってた。


丁度一か月くらい前のあの日。
迷惑かな、とも考えたけれど、思い切ってハンドクリームをプレゼントした。
ネットで調べて、なかなか手に入らないけれど荒れた手に凄く効くというのを、探して取り寄せて。

渡したら……嬉しそうな笑顔で「ありがとう」って言われて。
その上「お礼にご馳走させて」なんて言われたから、舞い上がっちゃったんだ。

連れて行ってくれたレストランバーは、大人の雰囲気のお洒落な店だった。
緊張したせいもあって、淡い色をしたカクテル達は、次々にグラスの中を空にしていった。
だけど、そんなあたしとは違って、ゆっくりとグラスを口に運ぶ彼は余裕さえ感じた。
大人だな、って。
そんな彼が、薄暗い店内のダウンライトの下で、余計に格好良く見えた。

カウンターに片手で頬杖をついて、覗き込むように彼に言われた一言は、あたしの心の奥まで掴んで、簡単に落ちてしまった。

「可愛いな、って、思ってた」

優しい顔で微笑まれて、あの手が、あたしの髪を流れるように柔らかく梳いていった。


確かに、「好き」なんて言葉はなかったけど。
あたしの気持ちは通じていたのかと思ってた。

だって、そんな風に言われたら、迷う要素なんて1mmもなくなっていて。
そういう大人の関係になるのなんて、アルコールも入っていたあたし達には当然のことだった。


馬鹿だった。
浅はかだった。

朝起きたら、ベッドの横は冷たくなっていて。
しんと静まり返った部屋に、あたしは一人、取り残されていた。

あんまりの出来事に、頭の中は真っ白になった。
涙も出ないくらい情けなくて、すっぴんのまま、急いでホテルを後にした。

しかも。
支払いまでさせられて。

ラブホテルに置き去りにされて、ホテル代まで払わされた――なんて。

当たり前だけど、その後、メールも電話も来るわけもなく……。

ヤレればいい女だった――って、お粗末な結末……。
彼の方はただの遊び……それ以下の、一夜過ごせればいい女に過ぎなかったんだ。




まさか、美咲の彼の友達だったなんて……。

あたしだけじゃなくて、勿論、アイツだってこんな所で再会するなんて夢にも思ってなかっただろうけど……。





取りあえずお茶でも飲もう、と、ロビーから、ラウンジへと皆で流れた。

床から天井までの大きなガラス窓が連なる窓側の席は、あたしの暗い心境とは反対に、眩しさに目を細めるくらいに明るい光が差し込んでいた。
目の前に大きく広がるプールは、その底の水色に染められた水面を、照り付ける太陽の光が銀色に乱反射して煌きをもたせている。

ガラス越しに楽しそうにはしゃぐ恋人同士が見える。
開放感が溢れるこの南国の世界では、人前だというのに構わず二人の世界を作り上げている。

そんな光景を見ていると、小さな溜め息が漏れた。

そして、そんなあたしに誰も気がつかず、楽しそうな談笑が目の前で繰り広げられる。

アイツは、久実と楽しそうに世間話をしていた。
聞きたいわけじゃないのに、その声は嫌でも耳に入ってきて、胃の中を掻き混ぜたみたいにぐるぐると大きく波立たせていく。
あたしとのことは、本当に何もなかったかのような態度だ。


ムカつく!
何でそんなに普通にしてられるのよ?


「えー、裕くんって、美容師なの?」


久実の声に、どきりとした。


――裕くん……

もう、名前で呼ぶようになってるなんて。
あたしは……結局、身体の関係があったって呼べなかったのに。


今更ながら、ちくちくと痛む胸。
あんな酷いこと、されたっていうのに。


「そうそう。裕くんが、明日の式のヘアメイクやってくれるんだよ。
ほら、現地の人のヘアメイクって、希望にそぐわないってよく聞くし。
裕くんは腕も良くて有名なんだ」

「ね?」と、同意を求めるように、美咲は須藤さんの顔を少し首を傾げて覗き込む。
須藤さんも佐原さんも、「そうなんだよな」と言い、アイツは「そんなことないよ」と謙遜して少し苦笑いをして見せた。


「えー、そうなんだぁ。いいなぁ」


長い指を顔の前で合わせながら、久実が言った。
綺麗にアートされたピンクのネイルに、極上の微笑み。

コレは、久実のおねだりポーズだ。
可愛いのを、本人も分かっててやってる。


「良かったら明日、美咲ちゃんのあとに、久実ちゃんのヘアメイクもやってあげるよ?」


宮川さんは、にっこりと満面の笑みを浮かべて、久実に言った。


「ホント!?
わー! 嬉しいっ」

「せっかくだしね。自分じゃアップとかって難しいし。任せて」


やっぱり、簡単にそうなっちゃうんだよね。
可愛い女の子には男の人って弱いよね。
宮川さんだって例外じゃないんだ。

だけど……。
えっと……。
一応、こういう場なんだからさ。社交辞令でも、あたしにも「良かったら一緒に」って言わない?
いや。
別にやってもらいたいからとかじゃなくて。いいんだけど、さ。
あくまでも社交辞令として、よ?


そう思うと、フォローのように、美咲が言った。


「せっかくだから、愛里もやってもらいなよ」

「あ、あたしは……」


本人にやってあげるって言われてないのに?
何か……それって……


「おー。やってもらいな!」と、須藤さんと佐原さんが口を揃えて言うと、ようやくあたしの方に、アイツの顔が向けられた。


「良かったら」


そう言うアイツは、ある意味満面の笑みをあたしに向けてきた。
ある意味、っていうのは、微妙に口元が引き攣って見えたから。


このぉ……


「じゃあ、よろしくお願いします」


と。
あたしも思い切り唇の両端を上げた。
多少歪んでる気がしないでもないけど。


「いーえ」と、アイツはまた、某ファーストフードの営業スマイルを思わせる笑顔を見せると、それはすぐに久実の方に向き直る。
まるであたしとの会話は最小限に抑え込みたいように。


「久実ちゃんって、髪がさらさらで綺麗だから、ハーフアップが似合いそうだよね?」

「えー、そうかな?
じゃあ、ドレスに合わせて裕くんにお任せしちゃおうかなぁ」

「うん。じゃあ任せてよ。綺麗にするよ」

「わぁ、楽しみーっ」


何なのよ、そのあからさまに美咲と彼の手前、あたしにも一応……みたいな。


それに、綺麗に――とか。
何か、調子イイ奴……。

ムカつく。
イライラしてしょうがない。

何か限界。もう。
今、笑うのキツイ……


目の前のオレンジジュースを、カラカラに渇いた喉に一気に流し込むと、「トイレ行ってくる」と、あたしは一人立ち上がった。






レストルームの大きな鏡の前で、映り込んだ自分の姿に溜め息が漏れた。
疲れたような、情けない顔。


こんな顔じゃ駄目。
結婚を目前にした美咲と須藤さんの前で、こんな顔。


一度固く瞼を閉じてから「よし!」と気合いを入れてすぐに開く。
気を取り直したようにピンクのグロスを厚めに塗り直し、あたしはレストルームを後にした。


それなのに。
ドアを開いた瞬間。
偶然にもアイツが目の前にいて、落ち着かせたはずの感情がまた大きく跳ね上がって波立った。


「ト、トイレですか?」


思いもよらなかったことに、動揺して出たのはそんな言葉だった。


「そうだけど?」


あたしよりも二回り以上背の高い彼が、無表情にそう答えた。
何だか見下げられている気がするその態度に、また無性に腹が立った。


ムカつく。
一回寝ちゃえば本当にもうどうでもいいんだ?
あたしだけが舞い上がって喜んで。
好きだったのに……。
悔しい……っ!


「先日は……どうも。
なんか、飲み過ぎちゃって失礼しました。
でも、楽しかったです」


上目遣いににっこりと微笑んで、そう言ってやった。


だって。
あんまりにも悔しくて。
向こうが遊びだったのに、あたしだけが本気なんて思われてたらヤダし。


一瞬。
ほんの一瞬。
綺麗に整えられた眉が寄せられたかと思ったら、それはすぐに笑顔に変わった。


「それは良かった。
こちらも楽しませて頂きましたから」


深い意味とは反対の、爽やか過ぎる微笑みをあたしにしてみせる。


し、信じられないっ!

楽しませて頂いた……って、やっぱりそういう意味だよね!?


言葉も出ないで見上げたあたしに、「じゃあ」と、アイツは流すようにあたしをちらりと見てから、レストルームに入って行った。

 update : 2008.01.31