60
クリーム色に塗られた校舎の壁は、そんなにくすんでいなかった。
きっと、ここ数年の間に塗り直されたのだろう。
体育館は、初めて見る形になっていて。
どうやらこれは建て直されたらしい。
校庭には、木で出来たジャングルジム。
昔あったはずのシーソーとうんていは見当たらない。
それでも、学校の風貌自体は変わっていない。
そこにある花壇も、校舎の前にある藤棚も、学校の名前が刻まれた石も、種類の違う大きな木がいくつか並んでいるところも、昔のままだ。
いくら卒業生だからといって、勝手に校内に入っていいものかと不安もあったけれど、校庭ではどこかの少年野球チームが元気よく声を上げて練習していて、人がいることにホッとした。
それでも、開かれた正面玄関のドアから校舎の中に入るのには、やっぱり不審者のような気がして少しドキドキする。
校舎の中は外よりも空気がひんやりしていて、学校特有の匂いがした。
リノリウムの床に、薄っすらと影が揺らぐ。
シンと静まりかえった廊下を、スリッパも上履きも履いていないあたしの足音がぺたぺたと響いた。
自分でも、驚いた。
迷いもなく、この廊下を歩いていることが。
小学生のときのことは、忘れていることが多くて、記憶は途切れ途切れのはずなのに。
その記憶を繋ぐように、あたしの足が進んでいく。
身体が、覚えている。
階段を上った。
一段一段が、とても低い。小学生の体格に合わせて作られた階段。
改めて、自分は大人になったのだと思う。
あのときは、本当にまだただの子供だった。
未来ある、どんな可能性をも持つ子供。
三階まで上がると、教室の札が見えた。
――四年一組。
あたしは、ゆっくりと中に入った。
拓馬は、黒板から一番離れた後ろの窓際の席に座って、窓の外を見降ろしていた。
誰かが来る音はきっと聞こえていたはずなのに、あたしが近づいていって、目の前でようやくこちらを向いた。
「覚えてる?」
目が合った途端、唐突に訊かれた。
けれど、あたしにはそれが何のことだか理解していた。
あたしは、拓馬の隣の席の椅子を引き、そこに腰掛けた。
低くて、小さな椅子。やっぱりそれは小学生の身体に合わせたモノで。
「覚えてるよ。ここがあたしの席。
――で、そっちが拓馬の席」
あたしは、ポンと、拓馬の座る机の端を叩いた。
拓馬はあたしに笑みを浮かべてみせる。そうして机に目を落とした。
「この席になって、ホントはいつも、スゲエ、ドキドキしてたんだ」
懐かしそうな瞳をして、今度は窓の外へと視線を移す。
「葉山の隣になって、窓の向こうの景色が変わった。
空も雲も、向こうに見える山も少しだけ見える海も、差し込んでくる太陽の光も、全部眩しくなった」
――景色が、変わった。
「それでさ、黒板の方を向くと、視界の端っこのほうにオマエが映るの。
ほんの少しだけ。微かに色のついた陰みたいな。
ちらついて、気になって、仕方なかった」
拓馬はもう一度、向き直す。
「今日、こうして待ってるのも、スゲエ緊張した。
来てくれないかと思ってた」
拓馬はあたしに苦笑いする。
確かに、初めて見る。
こんなに自信のなさそうな拓馬の顔は。
「自分が呼んだくせに。
あたしが行くか行かないか返答を聞かないで、あんなところに勝手に書いたくせに」
「……普通に呼び出したら、来てくれたのか?」
「……分かんない」
「分かんないとか言うなよ」
ふくれっ面をして、あたしを睨む。
「だけど今、ちゃんといるんだから、いいでしょ」
あたしの言葉に納得しないような顔つきをしながら、拓馬は小さな溜め息を吐く。
そして息を吸い込み、もう一度吐き出してから立ち上がった。
椅子が床に擦れる音が、ぎぎっと二人の間に響いた。
「葉山」
左の手を取られた。
「オレの気持ちは、聞き飽きたかもしんねーけど、言わせてくれ」
あたしも、立ち上がった。
「……うん」
拓馬の顔を見て、言葉を待つ。
「好きだ」
まっすぐな瞳が、あたしをみつめる。
そして、拓馬はポケットに片手を突っ込みと、そこから何かを取り出し、あたしの左手に載せ、掴んでいた手をそっと離した。
指輪だった。
プラチナ台に眩い光を放った大きなダイヤモンドの指輪。
「一生、傍にいてくれ」
真摯な声。濁りのない。
つ、と。頬に涙が伝わっていった。
冷たい粒。
あたしは、手の中の指輪を握り締めた。
涙と同じで、冷たい。
「あたし、きっと、本当は拓馬に一番認めさせたかった。認められたかったの」
「……え?」
拓馬が不思議そうな顔をした。
あたしは零れた涙を、指輪を持つ反対の手で拭った。
「あたしも……あたしも、この席になって、ドキドキした。
だって、クラスの――学年のヒーローの佐藤拓馬が、隣の席になったんだもん。
窓の方を見ると、あの佐藤くんがいて、外なんて見ることが出来なくなっちゃった」
拓馬は、もう一度驚いた顔をした。
「あたしも――あたしだって本当は、皆と一緒に拓馬と話したいと思ってた。
けど、そんなこと、あのときのあたしには出来なかった。
恥ずかしくて、顔もなかなか見ることなんて出来なかったっていうのに、近付くことなんて出来るわけないよ」
「嘘……だろ?」
拓馬は掠れた声で言った。
本当に、信じられないような顔だった。
あたしは首を横に振った。
「消しゴムのことも。
――そう、あれは、あたしにとって、結構な勇気だったの。
テスト中で、先生にも皆にもこっそりで、しかも相手は佐藤拓馬で。心臓はばくばくしてた。けど、助けなきゃ、って、思って。
極度の緊張で、そのあと、あたしのテストはめちゃくちゃだった。でも、それでも少しは役に立てたかなって、二人だけの秘密を共有しているようで、そんなの吹っ飛ぶくらい嬉しかったんだ」
「―――」
「恋とは言えないくらい小さなモノだったけど、あのとき、確かにあたしは佐藤拓馬に憧れの気持ちがあったの」
「なんだよ、それ……ちょっと待てよ」
「だから、拓馬の誹謗は、ショックだった。凄く凄くショックだった。
目の前が、真っ暗になった。
拓馬のことだけじゃなく、そんなことに気付かない自分のことも大嫌いになった」
すぐそばにある拳が、小刻みに震えている。
「……オレは、何やってんだよ……」
何やってんだよ、と、声にならない声で拓馬が繰り返した。
「せっかく気持ちが重なってたのに、それを自分の手で最悪の方向にしか持っていけなかったのか……。
オレは、謝っても謝りきれないくらい、相当オマエを傷付けたんだな……」
拓馬、と、あたしは言葉を止めさせるように呼んだ。
「あたし、あれからずっと、拓馬のことは嫌いだった。深い傷を沢山負わされてズタズタになって、もう二度と会いたくなかった。
けど……今、あたしのそういう気持ちも、変わったよ」
「………」
「再会して、もちろん、最初は嫌だったけど、拓馬は、口は悪くても、いつもあたしに発破かけてひとりで立たせてくれた。
ときには回りくどく、ときにはストレートに、いつもフォローしてくれた。
そういうの、分かってるし、拓馬の気持ちはもう十分伝わった。
本の言葉も……」
「……うん」
「あんなとこにあんなこと書いちゃって、もー、信じられないくらいムカついた!
あたし、お陰様で、会社で噂の的なんだから!」
「ムカつくとか言うなよ……。
オマエの会社で噂になったっつーのは、悪いと思うけど。
けど、オレにとっちゃ、スゲエ大事なことだったし」
「分かってるってば。
そういうとこ、だから回りくどいって言ってるの」
「……ストレートの間違いだろ」
「分かんないと思ってるの?
あれは、韮崎さんに対してのフォローでしょ?
あれだけ大々的なプロポーズをすれば、あたしと韮崎さんの噂が薄くなって、副会長へのアピールにもなる。悠里さんと韮崎さんの結婚への支障が少なくなる。
それに、あたしと韮崎さんの関係への、最後のチャンスをくれたんでしょ。
韮崎さんが、あれを読んで、ここに来るかもしれないって」
拓馬は、くっと苦笑いする。
「考えすぎだっつーの」
「残念ながら、韮崎さんは今頃、結納の最中だよ。
ここには来ない」
「へぇ。じゃあ、オレの目論みは、上手くいったわけだ」
「嘘つき。
大事なときに、フェアじゃないこと、したくなかったんでしょ?
もし、ここで韮崎さんが全てを捨ててあたしを奪いに来たら、それでいいと思ってるんでしょ?」
「バーカ」
「拓馬がそんなことするから……しんじられないくらいムカついたけど、信じられないくらい胸に響いちゃったじゃん……」
「オイ、葉山、オレの話聞いてんの?
オマエを誰にもやりたくねぇから、あんなとこに書いたっつってんだろ!」
身体が引き寄せられた。
強い力で抱きすくめられる。
「ここに来たのは、葉山の意志だろ?」
「そうだよ……」
「じゃあ、オレのモノになれよ」
耳の傍で、低い声が強く言う。
「アイツは来なかった。
だから、オレのモノになれ」
「拓馬……」
「絶対、大事にするから。だから……」
拓馬の声が苦しげなモノに変わる。
「もう、傷付けるようなことはしない。
だから、傍にいてくれ」
「………」
「オマエが望むものは、全てやる。
仕事もしたくなければしなくていいし、好きなことやって、好きなように暮らせばいい。
オレの傍にいてくれよ」
「そんな拓馬らしくないこと、言わないで」
「オレらしいって、何だよ。
オレは、オマエが欲しくて……オマエのことがあったから、今迄頑張ってこれたんだよ」
「だからだよ」
とん、と。胸元を拳で押した。
「拓馬の気持ち、伝わったから。
だから、ちゃんと向き合わなきゃ、って思ったの。ちゃんと会って、話さなくちゃって。
嫌とか、無理とか、そんな単純な言葉ひとつじゃ駄目だって」
抱き締めている腕が緩んだ。
「指輪は受け取れない」
あたしは、拓馬を見据えて言った。
「拓馬は、あたしにとって、特別なひとだよ。
昔も今も。他のひととは違う特別なひと。
でも、それは、恋愛感情じゃない。恋でも愛でもない、違うもの。
あたしの好きなひとは、韮崎さんなの。
彼があたしのことを想っていなくても、その気持ちは簡単に変えられないし変わらない。
そんな気持ちで、拓馬と一緒にいることなんて出来ない。
温かいところに逃げることのほうが楽だし、いつしか気持ちも移るかもしれない。以前のあたしだったら、きっとそうしてた。
でも、今のあたしは、そんなことしたくない。
誰かを想いながら、違う誰かといるなんて、出来ない」
「オレが、それでもいいって言ってるのに?」
「駄目だよ」
「アイツのこと、忘れるまで待つって言っても?」
「拓馬」
あたしは首を振る。
「拓馬のこと、恋愛感情では見られないって言ったでしょ」
わざとキツい口調で言って、あたしは指輪を拓馬の胸元に押し返すように手を突き出した。
「好きじゃないの。好きにもなれないの」
そう言うのは、苦しかった。
けれど、ハッキリと答えを言うしか、あたしに出来ることはない。
ずっと想い続けてくれた気持ちを、曖昧には出来ない。
拓馬は、受け取ろうとしなかった。
あたしの顔を、ただじっとみつめていた。
「じゃあさ」
拓馬はそう言ったかと思うと、あたしに背を向け、いきなりガラリと窓を開けた。
冷たい空気が流れ込んで、通り過ぎていく。
野球チームの声も。
「じゃあ、その指輪、オレの目の前で捨ててくれよ」
拓馬がこちらへ向き直った。
「捨ててくれ。
それを出来るのは、葉山だけだ」
拓馬の言葉に泣きたくなった。
12年分の、想いのこもった指輪。
それを、あたしに捨てろと――。
けれど、悩んだり困った素振りなんて、見せられなかった。
あたしはぎゅっと奥歯を噛み締めて、拓馬の隣に並ぶと、窓から思い切り外に向かって指輪を投げた。
小さな銀色の指輪は、瞬く間に景色の中に溶けるように消えた。
しばらく、沈黙が流れた。
キン、と。向こうで、ボールが金属バットにヒットした甲高い音が聞こえた。
その次には、クックック、と、隣で笑いを抑えたような声がして。
そうかと思うと、それはすぐに豪快な笑い声に変わる。
「……すげー。
マジで躊躇ナシかよ」
「だって、受け取れないもん」
「そーだけど。
結構高かったのになぁ」
「分かってるよ。
拓馬の気持ちがいっぱい詰まってるの、分かってるから。
だから、捨ててあげたの。
とっておいたら吹っ切れなくなるし、他の女の子になんてあげられないでしょ?」
あたしがそう言うと、拓馬はふっと、柔らかい顔つきで微笑んだ。
そして天井に向かって大きく伸びをする。
「あー、スッキリした。これで。
長い間、ずーっと好きだったから」
それからその手を、あたしへ、と、差し出した。
「これで、サヨナラだ」
大きな掌。
あたしは、その手を取った。
力強く。温かい。
最後の握手――そう思ったのに、それはなかなか離れなかった。
葉山、と、拓馬があたしを呼んだ。
「約束しろ」
「え?」
「アイツに、ちゃんと、好きだって告白しろ。
オマエ、どうせ言ってねぇんだろ」
「言ってないけど……言えるわけないし、言わない」
「葉山らしくねぇ!
約束しろよ。告白しろ」
「だから……! 出来るわけないでしょ!」
堅固に言っているのに、拓馬は大きく首を横に振る。
「自分の気持ちを言えないままってのはな、めちゃめちゃしこりが残るんだよ。
言って振られるのと、言わないで振られるってのは、同じ玉砕するにしても、全然違うんだよ。
駄目で、いいじゃねーか。言って、ちょっとは困らせてやれ。
何も伝えないまま、終わらせるな。
そこで自分にケリをつけて、前を向き直すんだよ」
「困らせることなんて出来ない!」
「じゃあオマエは今、オレの告白に困ったのか?」
「―――」
かぶりを振った。
……困ったわけじゃない。
大きな気持ちに応えられないことが、辛いだけ。
だけど……。
黙りこむあたしに、拓馬は更にたたみかける。
「それで、気持ちを伝えたら、おめでとうって、言ってやれ」
「だからっ、無理よ!」
「約束出来ないなら、このままここで押し倒すぞ」
「馬鹿なこと言わないで!」
「馬鹿?
うんって言わなきゃ、オレがどれだけオマエのことが好きか、身体で教えてやる」
「ちょ、ちょっとっ……!
それとこれとは別でしょ!」
「全然別じゃねぇよ。
オマエがすっきりしなきゃ、オレも快くココを去れねぇの!」
全然放してくれない腕を、引っ張られた。
頭を抱えられ、髪にキスされる。
「わ、分かったってばっ!」
そう了承した途端、ぱっと身体が解放された。
「約束だぞ」
拓馬はそう言って、あたしの手にまた何か押しつけてきた。
今度は紙だった。
折り畳んである小さな紙。
あたしはその紙を広げる。
「じゃあな」
あたしが紙に目を落としたところで、拓馬は片手を上げて背中を向けた。
――『ウエスティン』の文字と、電話番号。
知ってたの!?
「拓馬っ!」
拓馬の背中を呼び止めた。
けれど、さっきはあたしのことを離さなかったくせに、今は止まってさえくれない。
あたしは走って拓馬を追いかけた。
廊下へ出たところで、拓馬の腕を捕まえた。
さも面倒臭そうに、こちらに振り返る。
「……何だよ?」
「あたし、拓馬とは友達じゃないから。だからもう二度と会わない」
拓馬は溜め息を吐いて、分かってると言わんばかりの顔をする。
「呼び止めたのは、最後にそれが言いたかったのか?」
あたしは首を横に振った。
「男と女の友情って、あたしは、ありえないと思うの」
「は?」
「だって、片方が小さな綻びを見つけたら、それはもう友情じゃなくなるの。
どんな方向にも転ぶ要素を、最初から持っているの。
友情としての100%なんて、絶対にありえないの」
「何言ってんの?」
「どちらかが優しい嘘を吐き続けるなんて、友情じゃないよ」
「だから、意味、分かんねぇって」
「本に書いてあった『有名になって、彼女にそれが自分だと気付いてもらえばいい』って言ったひとが誰なのか、訊かなくてもあたしには分かるよ」
「……中田のこと、言ってんのか?
アイツはそんなんじゃ――」
「だから、言ったでしょ。
どんな方向にも転べるんだよ、これから」
拓馬は眉を顰めて、あたしをみつめる。
あたしは、にっこりと拓馬に向かって微笑んだ。
最高の笑みで。
「ありがとう、拓馬。
ホントにバイバイ」
あたしは手を振って、今度は自分から背中を向けた。