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佐藤拓馬が本に書いたお相手がこのあたしだと、世間一般からは何とも思われないし、特に噂になるわけでもない。
あれはビジネス書だし、拓馬が有名芸能人なわけでもないから、むしろそんなことが書かれてあることさえ知らない人の方が大多数だろう。
けれど、ウチの会社で噂になるのは当然のことだ。
取引先で。しかも担当者はあたしで。名前までばっちり『瑞穂』と書いてあるんだから。
おまけに、つい最近まで例の裏掲示板で散々書かれていたんだし。
あっという間に社内に広まったのだっておかしくない。
いきなりいなくなった韮崎さんの噂もちらほらあるようだけど、それよりも今現在進行形の、あたしの噂の方が、皆にとっては面白おかしくて興味があるらしい。
菜奈とミカに「これって、公開プロポーズだよね」と、言われたけど。
……そう。
あれは、公開プロポーズだ。
――『俺の子供のころからの、流れ星への願いの答えを、聞かせて欲しい』
わざわざ最後に濁して書かなくたって……。
――『今迄出来なかった分、優しくしたい。大事にしたい。傍にいて欲しい。幸せにする。一生。守る』
これって既にプロポーズじゃないか。一生、なんて。
バカヤロウ……。
葉山での、拓馬の声が蘇る。
――『ちっこい頃の願いはさ、葉山を嫁に貰うこと、だったな』
そんなこと、ずっと願わないでよ、拓馬。
あたしは玄関で、少し低めのヒールのブーツを履いた。
ラビットファーが履き口にぐるっと付いた、黒のブーティ。
低めを選んだのは、いつもよりも沢山歩くからと、地形を考えてのこと。
あたしは拓馬の本の入ったバックを床から取り上げると、玄関のドアを開けた。
マンションの自動ドアを潜ると、空気が冷たかった。
ストールに顔を埋め、ウールのコートのポケットに手を突っ込む。
今日は今年一番の寒さだと、朝のニュース番組で天気予報士が言っていた。
エントランスを出たところで、どこか見覚えのある車が道路の端に停まっているのに気が付いた。
白のアウディ。品川ナンバー。
それもそのはず。一度乗ったことがあるんだから。
あの日、帰りに送ってもらって、同じ場所に停めて、またねと手を振った。
その車のドアから出てきた彼は、静かに靴音を立ててあたしに近づき、前に立った。
「朝からずっと、出てくるのを待ってたんだ」
あたしは苦笑しながら相川さんを見上げる。
「待ち伏せなんて感心しませんよ」
「そうしないと、話が出来ないから」
「話?」
訊いてみたけれど、何をしに来たのかなんて、粗方予想はついていた。
相川さんは、引き締まった声であたしに言った。
「止めるために決まってるだろ」
「………」
「行く気なのか?」
「………」
「佐藤拓馬の元に?」
ほらね? やっぱり。
あたしは大袈裟に溜め息を吐く。
「相川さんは、おせっかいすぎます。
それとも、まだあたしに未練があって、それで止めに来たとでも言うの?」
意地悪く言ってやった。
微笑みまでつけて。
相川さんは、くっと唇を噛んだ。
「だって、こんなの、間違ってるだろ……」
間違ってる?
間違ってなんてないよ。
だって、もう、きっぱりと決めたこと。
「間違ってるかどうかは、本人が決めることです」
「俺は、このままにさせられない。
だって、韮崎と悠里さんの結納は、今日だよ」
――結納?
あたしは目を見開いて相川さんを見た。
明らかに動揺した顔を見せてしまった。
そんなあたしを見つけた相川さんは、追いたてるように早口で告げた。
「13時からウエスティンだ」
13時から――?
「止められるのは、瑞穂ちゃん、君だけだよ。
それでも君は行くの?」
あたしだけ、なんて――。
止められるわけが、ないじゃない。
同じ日にちの、同じ時間――。
……悠里さんらしいよ、ホント。
「あたしたちは、別れたの。
止めるも止められるもないわ」
「まだ間に合うよ」
「……お人よし過ぎるよ、相川さん」
「間に合う」
相川さんは、あたしの瞳を見て、強く言った。
胸の辺りがぐうっと押されたように、苦しくなった。
それを堪え、あたしは黙って首を横に振ると、彼をすり抜けるように歩き出した。
「待って!」
後ろから手首を掴まれた。
「佐藤拓馬は、ずるいだろ!
あんなことを本に書いて公開するなんて、瑞穂ちゃんが逃げられないように、そうやって周りから固めてる。
こんなやり方、するべきじゃない!」
あたしは振り返って、相川さんの顔を見た。
「違うわ」
きっぱりと言い返した。
「拓馬は、怖いの。
そうしないと、怖いの。
悠里さんも、よ」
「一番怖がってるのは、韮崎と瑞穂ちゃんだろ!
今のままじゃあ、誰も幸せになんかならない!」
「もう、ほっといてっ!」
声を上げて相川さんの手を振り払い、歩き出した。
けれど、またすぐに後ろから腕を掴まれ引き止められる。
「ほっとけないよ!」
怖いくらい、真剣な声と顔だった。
あたしの腕を掴む手が、強く、熱い。
「そうだよ、瑞穂ちゃんの言う通り、まだ未練があるよ。
俺は瑞穂ちゃんのことが好きだから、気持ちのない結婚なんてして欲しくない」
「何を……」
「好きだよ。だから、こんなの嫌だ」
「やめて!」
「やめないよ!
相手が、瑞穂ちゃんの好きな人なら別だ!
けど、幸せになれないなら――ちゃんと、気持ちが幸福じゃなきゃ、認められないよ!」
強い口調だった。
あたしは負けじと相川さんを睨み上げ、手首を掴んでいる彼の手を取った。
「なりますよ、あたしは」
今度はやんわりと微笑んでみせる。
「韮崎さんに、次に会ったら、伝えて下さい。
――おめでとう、って。
あたしが、そう言ってたって」
「瑞穂ちゃん……?」
「それが、今のあたしの、本音なんです」
強かったはずの相川さんの力は緩んで、あたしはそっとその手を外した。
「本当に、そう思ってます」
相川さんの目を見つめながら言うと、彼は目を逸らすように足元のアスファルトを見た。
「……分かった」
小さくそう言った相川さんは、そのままあたしから離れていった。
足音が、車の中に消える。
ドアが閉まる音がした。続いてエンジンのかかる音。そこから車が走り去る音。
相川さんの車の音が消えて、あたしは振り返った。
分かっていたけれど、もうそこには何もなくて。
冬の風がアスファルトの上の落ち葉を散らした。
桜新町から田園都市線に乗り、渋谷で今度は湘南新宿ラインに乗り換えた。
この間、品川駅でも随分と変わったと思ったけれど、またここでも思った。
当時、こんな路線はなかったのだ。
――12年。
時間は流れている。
思い出が変わることがなくても。
それでも、時間は絶えず流れていて、あたしを変えた。
姿だけでなく、気持ちまで。
逗子駅に着くと、改札を出て、今度はバス停に向かう。
街は、懐かしい匂いだった。
見たことのない店もあるけれど、でも、あたしの記憶にある街と目の前が重なり合った。
不思議だった。
あんなにも、もう帰りたくない場所だったのに。
行くならば、韮崎さんと一緒じゃなきゃ嫌だと思っていたのに。
……なのに、今、とても懐かしい。
水色に赤いラインの入ったバスが、向こうからやってきた。
衣笠駅行き。
葉山は逗子駅と衣笠駅の真ん中にある。
駅のない街。
バスは、東京とは違う、後払い式は変わっていなかった。
中央にあるドアから乗り込むと、一番後ろのブルーのシートに腰を下ろした。
懐かしいブルー。
シート自体は昔と変わっているけれど、色味のイメージは変わっていない。
そう、このブルーのシートに座って、揺られて、あたしはこの街で過ごしてきた。
ビー、と。バスが発車の合図の音を発した。
そこで、ハッとした。
あたしは、バッグの中から本を取り出した。
――ブルー。
ブルーに白と黒の文字が入ったシンプルな表紙。
あたしは、動き出したバスの窓から外を見た。
冬の澄んだ青空。
そこに浮かぶ、掠れた白い雲。
そして、続いて思い浮かんだのは、海だった。
青い青い、葉山の海。
昔、よく乗った――JR横須賀線も。
今座るバスのシートと同じ色の、ブルー。
……そうだ。
みんなみんな、葉山を思わせるものは、ブルーだ。
偶然、かもしれない……。
でも、きっと偶然ではないと思った。
この表紙も、拓馬のメッセージなんだ。
鋭角なフォントで縦に綴られた言葉は、直接耳で捉えるものとはまた違っていて。
視覚と脳の両方から、沁みるようにゆっくりとあたしの中に響いた。
感情任せに口から流れ出る気持ちとは違うことも、十分伝わっていた。
だから、こんな風に、拓馬を見る目が変わってしまった。
……ううん。
もう、本当は、もっと前に気付いていたのに。
それを、見ないように、認めないように、していた。
機械的な女性の声のアナウンスが車内に流れた。
次に停まるバス停の名前。
あたしは、目を瞑ってシートに寄りかかった。
約束の場所に、こうしているだけでどんどん近付いていく。
韮崎さんは――今頃、もう、ホテルに着いているのかな……。
いつもとは少し違うスーツを着て。
彼女も。
きっと、和服を着て。美容院で結った髪で。幸せな笑顔を浮かべて。
また、胸が痛い。痛い。
息苦しくなって、あたしは目を瞑ったまま深呼吸する。
……聞きたくなかった。
あんなこと、聞きたくなんて、なかったよ。こんな日に。
けど。
もう、戻れない。引き返せない。
現実を見るために、あたしは瞼を押し上げ、もう一度窓の外の空を見上げた。