58

関西に行っている間に、月末にさしかかっていた。月の数字が11から12に変わる。
出張中は、とにかく移動が多くて。時間スケジュールで。
忙しすぎて、日付の感覚はなくなっていたから、一気に冬が来たような感じだった。

自分の部屋もベッドも、こうして今歩く会社までの道のりも、妙に懐かしいような気分がするのは、常に時間に追われていたから、こんなにゆっくり歩くのも久し振りなせいだ。
たかが一週間程度だっていうのに。

だけど、韮崎さんは、もういない。
いないんだ。


会社に着き、入り口の自動ドアを潜ると、ちょうどエレベーターが来ていた。
あたしは慌てて走って、ぎりぎりドアが閉まる前に間に合い乗り込んだ。


……何?


一瞬、視線が集まった――気がした。


気のせい?


……気のせいじゃ、ないかもしれない。
あたしの出張中に、副会長が来た日のことで、何かまた良からぬ噂が流れているのかもしれない。
あとで菜奈とミカに訊いてみよう。


部に入ると、やっぱり気のせいじゃないことが分かった。
挨拶をしながら足を踏み入れた途端、出勤している人の殆どの視線があたしに刺さった。


何? 一体……。
どんな噂が立ってるの?

気分が悪い。

あたしは足を速めた。
自分のデスクまで行く間に、坂本さんとすれ違った。


「おはようございます」


嫌いだけど、一応は頭も下げる。
すると、彼女の足が、あたしのすぐ後ろで止まった気配がした。


「おめでとう」


平坦な声で言われ、あたしは振り返った。


「え?」


坂本さんは眉を顰め、さも不愉快な顔つきであたしを見る。


「あなたって、ホント、ある意味大物よね」


明らかに嫌味を込めた言い方だった。


「何のことですか?」

「瑞穂!」


答えを聞く前に、ミカの声が割り込んだ。
入り口の方を見ると、そこにこちらを覗き込むようにしてミカと菜奈が立っていて、あたしと目が合うと手招きしてくる。
坂本さんは、ふん、と鼻を鳴らしてさっさと行ってしまった。


「もう、何?
一体、何なの?」


あたしは思わずそう零しながら、ずかずかと歩調を強めてミカと菜奈のところに行った。
そして、二人の目の前に着いたところで、菜奈の胸元に抱えられたものに気が付いた。

見覚えのあるブルー。

――拓馬の本だ。
どうして菜奈が持ってるの?


「何なの、は、こっちよ」


ちょっと来て、と、ミカに腕を掴まれ、ドアから廊下の端の方に連れて行かれる。
その間も、出勤してきた社員たちに、じろじろと見られた。


「ねぇ、瑞穂、コレ、読んだ!?」

「今さ、更衣室で夏美に見せられて、もー、びっくりしたんだけど!」

「瑞穂のいない間、急に会社から韮崎さんがいなくなって、東和重工の副会長に強制的に連れて行かれたって噂が立ってるし!」

「ホントさぁ、何がどうなってるの!?」


いきなり矢継ぎ早に二人に責め立てられて、わけが分からない。


「韮崎さんが、東和重工に戻ったのは知ってる。
あたしも出張だったし、二人に説明してる暇がなかったの。それに関しては謝る。
ねぇ、韮崎さんがいなくなったから、変な噂が流れてるの? あたしとのこと?
だから何だか分かんないけど、あたしってば注目されてるの?」


逆にあたしは訊き返してやった。
菜奈は首を横に振った。


「韮崎さんのこともあるにはあるけど、そうじゃなくて、この本!」

「……本?」

「読んでないの?
だって瑞穂、佐藤社長に貰ったんじゃないの?」

「貰ったけど、忙しくてまだ読んでない」


はああ、と。二人は顔を見合わせて大きな溜め息を吐いた。


「信じらんない」


そう声を重ね合ってから、真面目な顔であたしに向き直る。


「見てよ、コレ」


菜奈があたしに見えるように本を開き、ページをめくっていく。
随分と後ろの方。
指先が止まったのは、あとがきのあたりだった。


「読んで」


押しつけられるようにして渡された。
あたしはやっぱりわけがわからないまま、開かれたページの文章に目を落とした。


『ここに、こんなことを書くことをお許しください。
場違いだと、仰る方は少なくないでしょう。
けれど、私にとって、どうしてもここでなくてはならないのです。
なぜなら、私の仕事の、原点といえることだからです。
ビジネスに関する堅苦しいことは書くことが出来ても、私は小説家ではない。だから、気持ちを綴るのは苦手です。
書いても、自分の想いが上手く伝わらないかもしれない。心に響くようなものは、書く自信もない。』


――何?


そこまで読んで、気持ちがざわざわとした。

全国的に出版された本の――不特定多数の人が読むその中に書かれたもの。

あたしは無言のまま、残りの文章を目で追っていく。

そして、そこに書かれた「彼女」が、あたしだということは、読み始めてすぐに分かってしまった。
まさか、ここまで自分のことが書いてあるなんて思わなかった。

――拓馬の強い想いも。




『この本で、私の出版作は五冊目になります。
そこでようやく、彼女と再会することが出来ました。

彼女――私の初恋の人です。
小学校のときからずっと、好きだった人です。
でも、いい年して誰とも付き合ったことがないのか、と言えば、そうではありません。
思春期では、それなりに恋もしました。恋人と呼べる存在もいました。
そのときは、自分なりに、恋人を大切にしていたつもりでした。
けれど、いつの日か気が付いたのです。いつもふと心に浮かぶ彼女のことを。
絶対に忘れることの出来ない存在を。


小学校四年生のとき、彼女とは初めて同じクラスになりました。それまで知らない存在でしたが、そのときの年齢からすると随分大人っぽくて私の目を惹きました。
けれど、彼女は普段男子と口をきくような子ではありませんでした。
どちらかというと、つんとした優等生のお嬢様で、当時の私からすると目に余るタイプでした。

席替えで、初めて彼女の隣の席になったときのことです。
テスト中、消しゴムを忘れて困っていたところ、隣から差し出されました。定規で半分に切った消しゴムを、です。
そんな思ってもみなかった彼女の優しさを目の当たりにして――そのときから、気になって仕方ない存在になりました。

けれど、接点はない。
彼女は私に近づいてくることはありません。私がどんなに目立つことをしても、彼女はこちらを見ることはなかったのです。

そして――と、あることがきっかけで(それは彼女自身に既に話しました)私は彼女を中傷するようになってしまったのです。
彼女が傷付くことを承知で……いや、傷付けたかった。反応が欲しかった。
自分の大きさを、彼女に感じて欲しかったのでしょうか。今考えてみれば、本当に浅はかとしか言いようがありません。
よくある、小学生特有の、好きな子をいじめてしまう、では済まされないほど、何度も繰り返し言葉で傷付けてしまいました。
優しくしたいという気持ちと、傷付けてやりたいという、相対する気持ちが両方自分の中に混在していたのです。

時間も日付も、あっという間に過ぎていき、変わらない日常と自分に、もどかしさを感じていました。
そんな自分をどうにかしたかった。本当は彼女にもっと近づきたかった。でも、どうにも出来なかったのです。
だから、卒業式の日に告白しようと決めました。
今迄のことをきちんと謝り、自分の気持ちを素直に全て言おうと――決意を固めないと、勇気が出なかったのです。

卒業式の日――緊張しながら学校に行くと、彼女はいませんでした。
式が始まっても、終わっても、来ることはありませんでした。
担任から、引っ越しのために来られなくなったと、説明がありました。
本人からも両親からも、皆には引っ越すことを最後まで言わないでくれと、頼みがあったそうでした。
皆が教室で別れを惜しむ中、私は急いで彼女の家に向かいました。
けれど、やはりもう遅かったのです。家の中はシンとして、外には段ボールや不要な家具やゴミが残され、引っ越しは終わったあとだと見てすぐに取れました。
そのあと、学校に戻り、担任に新しい住所を訊ねました。けれど、何度頼んでも教えてくれませんでした。
どうやら六年生のときの担任は、私が彼女にしていたことを、薄々気づいていたようです。

告白は、出来ませんでした。謝ることも。
せめて一言でも謝りたかった。
けれど、小学生や中学生の自分は、彼女を探す術を持っていませんでした。

燃焼しきれなかった想いは、心の奥底で小さくも燻ぶっていました。
会えるものならいつか彼女に会いたいと、そんな気持ちがずっとどこかにありました。
後悔というのは、消えないのです。

大学に進み、教授に勧められるがままアメリカに留学しました。自分のしたいこともやるべきことも、当時は見つからずにいたからです。
今迄、彼女のことは誰にも話したことはなかったけれど、そのとき留学先の同級生の友人に、初めて自分の中の気持ちを話したのです。異国で自分の過去を知らない人に囲まれていたせいか、気が緩んだのかもしれません。いや、きっとずっと、本当は誰かに話したかったのでしょう。
笑い飛ばされるかと思っていました。けれど、友人の言ったことは違いました。
「有名になって、彼女にそれが自分だと気付いてもらえばいい」
私にそう言ったのです。

友人からしてみると、ほんの冗談だったのかもしれない。
それに、もし仮に自分が有名になって、彼女が私に気付いても、コンタクトを取ってくるかといえば、そうではない。

けれど、そうすることに決めました。
自分でも、単純だと思います。
でも、何もしないままの自分では、一生変わらない。彼女に会うための自信にも繋がると、そう思ったのです。
私はずっと、彼女に再会する自信も、今迄なかったことに気付いたのです。

何を始めようか。どうしたら有名になれるのか。
まずはそこからでした。

そんなときでした。ふらっと入った店で、飲み物を買おうとレジに並んだところ、数人並んでいるにもかかわらず、店員は楽しそうに電話をしていてなかなか切る様子はない。ようやく切ったからといって、一言も謝ることもない。
そのとき、思ったのです。日本とは店員の対応が違う。日本ならこんなことは絶対にないのに、と。
当然です。そこはアメリカなのですから。そして私は日本人なのですから。
そしてそこでこれだと思い当たったのです。客の立場から考える、店やサービスの在り方を。自分が店を変えてやればいいと。
ベンチャー企業の経営者として、有名になってやろうと。

やるべきことが見つかった――いてもたってもいられなくなりました。
だから、在学中に、会社を興しました。二十歳のときです。
大学に通いながらやり始めたことですが、もう通うことも意味のない気がして、中退しました。

たかが女と再会したいがために会社を興したのかと、思われるかもしれない。
けれど、そうです。それは事実です。
もちろん、仕事には真面目に取り組んできましたし、努力も勉強も人一倍しました。
けれど、今迄どんなことがあっても乗り越えて頑張れたのは、やはりそういう目標があったからです。だからこそ、どこまでも貪欲になれたのです。

そして、今、再会を果たすことが出来た。


瑞穂へ――。

今迄出来なかった分、優しくしたい。
大事にしたい。傍にいて欲しい。
幸せにする。一生。守る。

もし振られても、何もしないで後悔するよりはずっといい。
あのとき謝れなかった、好きだと告げられなかった、その重く固いしこりを、また同じように残したくない。

ここに書いたのは、けじめをつけたかったから。
俺にとっての原点だから。
いつか読み返したとき、原動力となったこんなに強い気持ちがあったと、振り返って思い出して、新たな違う力に注ぐために、きちんと残しておきたかったから。


12月10日の13時、俺たちが出逢った場所で待ってる。
俺の子供のころからの、流れ星への願いの答えを、聞かせて欲しい。』

  

update : 2011.03.08