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ホームから、乗り換え通路に上がるエスカレーターの左側に乗った。
動いているにもかかわらず、エスカレーターの右側は、ガツガツと音を立てて次々に人が上っていく。
皆忙しない。

のんびりと天辺まで上がったエスカレーターを降り立つと、自分が急いでいるわけではないのに、通勤通学の人波に乗り一緒になって急に早足になる。
あたしはそこから逃れ、待ち合わせ場所である南のりかえ口に向かう途中のレストルームに入った。

品川駅を利用するのは随分と久し振りだった。
昔――葉山に住んでいた頃、東京に遊びに来るときは、京浜急行からの乗り換えがいつもこの駅だった。
随分と変わってしまった構内は、初めて降りた駅のようにも感じる。
そのときはまさか、新幹線まで通る駅になるなんて思ってもいなかった。

大きな鏡の中の自分を、顔を近づけて覗き込み、確認する。


――うん。
明るい蛍光灯の下でも、大丈夫。


昨日、家に帰ってからも、何度となく涙が出てきた。
その度に冷却パッドで目元を冷やした。
そしてティッシュをお供にして、パソコンに向かった。
仕事なんてする気分でも集中できる状態でもなかったけれど、あたしにはもう、これしかなかった。


深い事情を知らない石田さんに会っても、瞼の腫れは誤魔化せているな、と思うと、当の本人が鏡の奥を通り過ぎた。
驚いて振り返る。


「石田さん」

「わ! びっくりした! 葉山さんじゃないっ!」

「おはようございます」

「おはよう……って、もー、それどころじゃないわよ!」


石田さんは、あたしの肩を興奮気味にがっしりと掴んできた。


「ねえっ! 聞いてる? 主任のこと!」


昨日、あれから――あたしは、M&Sへ行って打ち合わせをしたあと直帰すると嘘を吐き、定時前にさっさと帰ってしまった。
あんなことがあったあとに、韮崎さんと顔を合わせる勇気はさすがになかったし、今日からの出張のために、仕事は持ち帰りでも出来るものだったから。

あたしが帰ったあと、いきなり韮崎さんがいなくなることを、部の皆は聞かされたのだろう。
韮崎さんから直接、話があったのかもしれない。


「主任ってば、いきなり東和重工に戻るって!
いきなりよ、いきなり! 信じらんない!
今日からのこともあるし電話したのよ、葉山さんにも!
でも、何度電話しても留守電になってるし!」

「スミマセン。
主任のことは、佐藤さんからちょっとだけ、聞いてます。
詳しくは知らないですけど」


あたしは、苦笑い。
韮崎さんの名前を出されるのは、今は辛い。
泣かずにいられるだけ、自分を褒めてあげたい。


「もー、ホント、今日からのフィードバックがどうなるかと思えば……佐藤さんが引き受けてくれたそうね。それは知ってるのよね?
助かったけど、釈然としない、こんなの。どんな事情でこんなことになるのよ。ありえない。噂では、東和の副会長命令、って、話だけど。
……けど、無責任よ!」


聞きたくも、話したくもない。思い出したくも。
もう、前だけを向きたい。
そうじゃないと、苦しいだけ。


あたしは、答えないまま、バッグに結んであったスカーフを外した。
白地にピンクとグレーのプッチ柄。
それを、石田さんの首元に巻いた。


「何……?」

「何って、石田さん、地味すぎるから」


そう言って、あたしは、石田さんの白いブラウスの胸元ボタンを第二まで外した。


「え、ちょっと……っ!」

「紺色のスーツに映えるし、このくらいなら、そういう場所にも許されるオシャレです」


今度は彼女の背後に回り、ひとつに纏めただけの髪のひと束をとり、結わいているゴムにぐるりと巻き、Uピンで留めた。
きっちりと隙のないトップの毛束をそっと、ほんの少しずつ引き上げ、ルーズ過ぎないふんわり感を出す。


「髪ってね、ぺったりしすぎると、老けて見えちゃうんです。
だから、このくらいのほうが若々しいし、けど、飾り過ぎてないちゃんと仕事モードの髪型でしょ?」


石田さんは目を見開いて、鏡越しにあたしを見る。
あたしは、微笑んで見返す。


「オシャレの仕方や、綺麗になる秘訣は、あたしが石田さんに教えます」

「何よ、急に……」

「あたしたち、仕事の出来るイイ女にならなきゃ」


は? と、石田さんは振り返り、今度は直接あたしの顔を見る。


「だから代わりに、石田さんは、あたしに仕事を教えて下さい。
いっぱいいっぱい、教えて下さい。
あたしを、一人前にして下さい」

「何を言ってるのよ」

「あたし、今よりももっと、頑張りたいんです」

「ちょっと待ってよ」

「あたしに、力を貸して下さい」


お願いします、と、あたしは頭を下げた。

石田さんは、黙っている。
恐る恐る顔を上げると、石田さんは腕を組んであたしを見ていた。


「仕事の出来るイイ女ねぇ……」

「……駄目ですか?」


石田さんは、うーんと、首を傾げ低く唸る。


「悪くないわね」


ニッと、あたしに笑った。


「言っとくけど、私、厳しいから」

「知ってますよ、そんなの」

「相変わらず、生意気ねぇ、アナタ」


この捻くれた言い方だって、もう嫌味じゃないって、知ってる。
あたしもニィと笑って、ポンと両手を石田さんの肩に載せた。


「佐藤さんとの待ち合わせ時間までに、さくっとメイクも直しちゃいましょ!」







待ち合わせ時間ぎりぎりに新幹線の改札前に行くと、拓馬は営業的な爽やかな笑顔であたしたちを迎えた。
石田さんが思い切り恐縮して、すみませんとありがとうございますを繰り返し、頭を下げていた。
あたしも、恐縮はしないけれど、感謝の気持ちは込めて頭を下げた。
今日、拓馬が付き添ってくれなければ、どうなったか分からない。

拓馬には、昨日のうちに、スケジュールと資料を添付したメールを送った。
今日の待ち合わせの場所と時間を記した事務的な文章で。

拓馬からの返信も一通。
同じように事務的なものだった。


「出発時刻までまだ少しあるんで、私、飲み物買ってきます。
佐藤さんは、何がいいですか?」


石田さんは、手首の時計に目を落としてから拓馬に訊ねた。


「じゃあ、緑茶でお願いします」

「了解です。
乗車券をお渡しておきますので、先に乗っていて下さい」


石田さんは拓馬にそう言うと、あたしにチケットを二枚渡してきた。

のぞみ、9号車、グリーン、5Aと5B。
――隣同士だ。

そんな変な気を回さないで欲しい。


石田さんが飲み物を買いに行ってしまったところで、あたしは拓馬にチケットの一枚を差し出した。


「どうぞ」


一応仕事だからと、両手で丁寧に。
拓馬はそれを受け取ると、あたしの赤いキャリーバッグを無言のまま引っ張り、歩き出した。


「え、ちょっと、待ってよ!」


あたしは慌てて追いかけた。

いや、別に、慌てる必要もないわけだけど……。


拓馬の――赤いキャリーバッグの少し後ろを、あたしは付いて歩いた。
お互いに無言のまま、のぞみに乗り込み、チケットの番号通りの席に座った。

窓側に座るアイツは、腕を組んでシートに深く寄りかかり、眉を寄せ、どこか遠くの方に視線をやっているような思慮深い顔をしていた。
拓馬にしたら、珍しく思っていることも訊きたいことも、口にしないと思った。

あたしは念のため、シートから少し身体を浮かせて、周りを見渡した。
石田さんは、まだ来ない。


「ねぇ」


シートに身体を鎮めながら、あたしは隣に声をかけた。

返事がない。
目線も顔つきもそのままだ。

あたしも、前を向いた。


「ちゃんと、別れた」

「………」

「もう、会わない」

「………」

「何か、言えば?」


そこでようやく、睨むように拓馬がこちらを見たのが分かった。
あたしも横目で隣を見ると、いきなりバサッと、膝の上に白い紙の束を載せられた。


何、コレ?


あたしは膝からその紙の束を取り上げ、ひっくり返して内容を見る。
昨日あたしが拓馬に送った、今日回る店舗のフィードバック用シートを印刷したものだった。


……けど、これ……?


「着くまで、もう一度、頭に叩きこんどけ」

「これって……」

「見りゃあ分かるだろ。重要なとこ、アンダーライン引いて、注釈入れといた。
見なくても言えるレベルにはしとけ。
その方が、相手からの信頼度が上がる」


昨日の夜、あたしが送ってから、わざわざやってくれたの……?


「オレは、さ」


と、拓馬は腕を組んだまま、あたしを見る。


「化粧で誤魔化したオマエの赤い目を見て、寝てないなって分かっても、肩貸して着くまで寝てろ、なんて、甘っちょろいことは言わねぇ。
頭から追い払って、仕事に集中しろ。
今、オマエがやらなきゃいけないことは、こっちだ」


コイツってば――。

そうだ。
いつもそうだ。

憎まれ口を叩きながらも、あたしのことを考えてくれる。
発破をかけて、やる気にさせてくれる。


「言われなくても分かってるよ、そんなの。
寝る気なんて、端っからありません」

「……生意気だな」

「さっき、それ、石田さんにも言われた」

「だろーな。
今はまだ、実績なし、口だけ、だからな」

「だから、そのうち、言わせてみせるよ」

「なんて?」

「仕事の出来るイイ女、って。
あ、違った。仕事も出来るイイ女、だ」

「バーカ」


口は相変わらず悪いけれど、目は優しいものだった。

拓馬は、こうして、いつもフォローしてくれてた。
いつもあたしのことを助けてくれてた。
いつも、見守ってくれてた。

拓馬がいてくれて良かったと、素直に思った。
韮崎さんが急にいなくなって、いくら石田さんもいるからといっても、心細くて仕方なかった。

あたしたち、牽引する立場の人間が不安になっていたら、それはきっと相手にも伝わってしまう。
そんな状態でやっていたら、店舗からの信頼を欠いてしまったかもしれない。
そうなれば今後、パフォーマンスの向上やステップアップどころか、調査の参加に意欲がなくなり、このプロジェクトの存続意義に関わってくるかもしれない。


絶対に大丈夫。
絶対に成功させる。


あたしは、心の中でもう一度強く誓った。

  

update : 2011.03.01