56

もう随分長い時間、ここにいると思った。
コートも羽織っていないままだから、さすがに寒い。
あたしは、両手で自分の身体を抱きしめるようにして腕をさすった。

本当に寒い。

悠里さんは、本当に韮崎さんを呼んできてくれるのかな……。
まさか、彼を連れて行ってしまって、話もしないまま、会えない、とか……。


そう少しでも考えたことを、すぐに頭の中で打ち消した。

中途半端な状態に、彼女がしておくはずがない。
あたしから彼に直接別れの言葉を言った方が、きっちりと後腐れなく別れることができるんだから。


待つ時間というのは、どうしてこんなに普通よりも時間の長さを感じるのか。

ベンチに座りながら、空を見上げた。
雲は、さっき悠里さんと見た白じゃない。夕方の色だ。
グレーと、向こう側が透けて見える薄い部分だけオレンジに染まって。
夜が迫りつつある。
陽が落ちるのが早くなった。

こんなどうでもいいことが考えられるほど、あたしはひとり屋上で待っているってことだ。

ガチャッと無造作にドアが開く音がして、どきっとする。

胃がきゅーっと委縮した。
心臓も、鼓動がいきなり大きくなる。大きすぎて痛い。

振り向けずにいると、つかつかと何の躊躇もなく足音が近づいてくる。
そしてその足音の主は、隣のベンチに座った。
目の端に、黒の皮靴とグレーのスラックスが映った。

それでもそちらを向けずに自分のつま先を見つめていると、カチッと小さな音がした。
ほんのりとタバコの匂いが漂ってくる。


韮崎さん、タバコ吸うんだ……?


そう思ったところで「葉山さん?」と呼ばれた。


「販促の、葉山さん、だよね?」


韮崎さんじゃなかった。

あたしは、ぱっと顔を上げた。

隣のベンチの知らない男は、指にタバコを挟みながらあたしに向かってにっこりと微笑んできた。


「何してんの?
葉山さんもサボり?」


全く邪気はないようだ。
けれど、癇に障る。こんなときに。

あたしは無視して、わざとらしく空に溜め息を吐いた。
隣でも、ふーっと、長い紫煙が吐き出されている。


「俺、販促の隣の、開発部の三谷っていうんだ。
隣にすっげーカワイイ子が異動してきたって、ウチの部では有名だよ。
こんなとこで話が出来るなんて、ラッキー」


あたしが無視してるのなんて、気が付いてないのか、もしくは全然気にしていないらしい。
て、いうか、ウザい。


「ね、今度さ、飲みに行こうよ。奢るし」

「………」

「あ、もちろん、友達連れてきていいよ。
こっちも連れてくるから。
飲み会やろうよ」


にっこり、スマイル。

マジでウザい。
答えないんだから、察してよ。


「週末とかどう?」

「今、誰とも話したくないの」


あたしは切り捨てるように答えた。

男は苦笑い。
スタンド式の灰皿にぎゅっとタバコを押しつけ、揉み消した。
苦い香り。
そしてこちらに身を乗り出してきた。


「だってさ、こんな風に喋ったり誘うチャンスなんて、なかなかないじゃん?
いきなり待ち伏せして、ねえねえなんて話しかける方が引くだろ?」

「……引くけど」

「だろ?
みんなね、男性社員は、口に出さずとも、葉山さんとお近づきになりたいの。
けど、なかなかそういうチャンスはないわけ。
俺は今、最大のチャンスを手に入れてるんだよ。
そのチャンスを生かさないでどーすんの?」


ぶぶっと、思わず噴き出してしまった。
裂けそうなほど尖っていた神経が、拍子に緩んでくれたのを感じた。
アホな男。


「じゃあ、」

「うん?」

「行ったら、演技に付き合ってくれる?」

「はぁ?」


「何、それ」と、男が訊き返してきたところで、またドアの開く音がした。
コツ、と、小さくコンクリートに落とされた靴の音。
背中のずっと向こうで、ドアが静かな重い音で閉まった。

ゆっくりとこちらに向かってくる足音。

韮崎さんだ。

さっき間違えたのが馬鹿みたい。
全然違う。
足音だけで、韮崎さんだって、分かるのに……。


「……痛っ」


あたしは左手で顔を押さえた。


「え? どうかした? 大丈夫?」

「目に……ゴミが入っちゃった。
……見てくれる?」

「え? あ、うん」


お互いに、ベンチに手をついて、顔だけ近付けた。

頬のあたりに、ついさっき初めて会った男の指先が触れる。
顎を上げたあたしに、少しだけ傾げたようにして瞳を覗きこんできて――キスまでなんてことない距離。
ちょっと首を伸ばせば、簡単に届いてしまう。

――そう、ちょっと伸ばせば。


向こうで、足音が止まった。


「……え……?」


一瞬だけ触れた唇が離れると、男はパッと目を見開いて驚いた顔をし、あたしを凝視する。

あたしはそこで、小悪魔と言われる笑顔を作ってみせる。
目のゴミなんて、嘘だって、理解しただろう。
頭の中がパニックになってドギマギした目の前の顔は、間抜けの一言に尽きない。

あたしは、途中で足が止まってしまっている韮崎さんの方を向いた。
こちらをみつめる目に、わざと睨んで返した。

隣の男は、あたしの視線の先に気が付いたようで、慌てたように立ち上がった。
さすがに隣の部というだけあって、韮崎さんの存在は知っているのだろう。
いくら部が違うといえど自分よりも目上で、しかもあたしの上司に、サボっている上キスしているところまで見られたんだから、相当バツが悪いはずだ。
どういう態度をとっていいのかも分からないようで、取りあえず「どうも」と、韮崎さんに頭を下げた。
肝の小さい男。

あたしはそんな男の方に、もう一度身体を向けた。


「邪魔、入っちゃいましたね」


こっそりと、耳打ちした。
韮崎さんには聞こえてないだろう。
けれど、出来るだけ楽しそうに見えるような表情を作った。


「じゃあ、日にちとか、決まったら、言ってください」


これは、聞こえよがしに言った。

韮崎さんは、黙って見ていた。


「えっと、じゃあ、うん、決まったら、そのときに」


男はさすがに韮崎さんの前で電話番号やメールアドレスを訊く余裕はないらしく、すぐに退散態勢に入った。
あたしも「じゃあ、また」と、逃がしてあげる。

お互いに小さく手を振り、男は韮崎さんの横をすり抜けるときに会釈だけして行ってしまった。

あたしはベンチに座り直した。
韮崎さんは、その場から動かず、言葉も発しないまま。

叫ぶような高く細い音の風が、濃い影を落とし始めた葉を鳴らし輪唱する。
ビルの下から聞こえる微かな街の音に覆いかぶさって。
二人の間に流れる音が寂しくて、耳を塞ぎたくなる。

あたしは、そっと深呼吸した。
それから、後ろを見ないまま言った。


「座らないんですか?」


韮崎さんは少しの間のあと、靴音をこちらに近付けてきた。
そして、さっきの男が座っていたベンチに腰を下ろした。


「知り合い?」


さっきの男のことのようだ。


「別に……。
隣の部だそうです。開発部」

「別にって、知り合いじゃなかったのか」

「声、かけられたんですよ。
向こうは、あたしのこと、知ってたみたいで」

「……初めて喋った男とキスするのか」

「それって、もしかして、嫉妬、ですか?」


だったら嬉しい。……本当は。
けれどあたしは、敢えて冷めた言い方をした。

韮崎さんは、唇を曲げて。戻して。そうしてから言った。


「そうだよ」


――そうだよ。


胸をぎゅううっと締め付ける言葉。
これから別れなくちゃならないのに、そんなこと、言わないでよ。
嬉しくて嬉しくて仕方ないのに、苦しい。辛い。泣きたくなる。


薄汚れた足元のコンクリートを見つめ、奥歯を噛んで気持ちを立て直すしかない。


「そういうの、韮崎さんに言う資格ないです。
もちろん、あたしにも」

「………」

「大体、韮崎さんとも、殆ど初めての状態で、キスしたでしょ?
社食で会ったときなんて、会話のうちにも入らないし。
常套手段なんですよ、あたしの。
だって、いいなって思ってる女にいきなりキスされたら驚くし、何であんなことしたんだろうって、結構あとを引いちゃうくらい気になるでしょ?
それが手なの」

「………」

「あー、もう、面倒臭い!」


あたしは空に向かって伸びをする。


「副会長とか出て来ちゃって、もうホント、面倒臭い。
そういうごちゃごちゃ、嫌い。
もうちょっと楽しめるかと思ったけど、一気に興覚めしちゃったー」


言いながら、ベンチの背凭れに寄りかかる。
さも、かったるそうに。


「仕事も、もう、疲れちゃった。
あたし、責任感のあるものって向いてないみたい。
適当にやれるものの方がいいみたい。
やっぱり、好きになれなかったなぁ」


渋く笑って韮崎さんの方を向くと、彼は哀しそうな目をしてあたしを見ていた。


「店舗側の反応があると、嬉しい、って、俺に言ったろ?
頑張りたいって。会社のために、店のために……そんな風に」

「そんなの、韮崎さんの気を引くための嘘に決まってるでしょ。
まんまと引っ掛かるなんて、馬鹿じゃないの?」

「……本気じゃないだろ?」

「まさか。それが本当です。あたしの」

「話があるって、それが言いたかったのか?」


溜め息交じりの声。

あたしは一度下を向いて、密かに息を吸い込んだ。
そして、顔を上げ、韮崎さんを見て言った。


「別れてあげます」

「……え?」

「韮崎さん、会うのやめようって、言ってたでしょ?
もう、解放してあげる。別れてあげる」


韮崎さんは、あたしを正視する。
何も言わずに。

別れを切り出す言葉に、彼が反論することなんて、ありえないだろう。


「あたしにとって、恋愛って、ごっこ、なんです。
最終的に、イイヒトがつかめれば、それでいい。その間は、楽しければ、それでいい。あの掲示板の、書き込み通りなんです。
拓馬もあたしと結婚を考えてるみたいだし、そろそろもう、いいかなって。
アイツだったら、ステイタスもあるし、あたしが働かなくても十分贅沢な暮らしが出来るし。
それにアイツは、あたしのこと好きだし。望むものは、全て与えてくれる。
だから、韮崎さんとは、ここでオシマイです。
韮崎さんだって、ハッキリとお別れの言葉があったほうが、すっきりでしょ?」


あたしは、立ち上がった。
韮崎さんは、そこに視線を合わせてはこなかった。


「だけど、最後に、ひとつだけ、約束して」


そう言っても、韮崎さんは目を合わせないまま。

――当然だ。

あたしは、コバルトブルーの本を胸に抱きかかえ、一番言いたいことを、言わなくてはならないことを、彼に言った。


「彼女を、本気で愛して」


韮崎さんが顔を上げ、あたしの目を見た。
あたしは込み上げてくるものを堪えて、おどけたように笑ってみせる。


「だってぇ、彼女があまりにも哀れになっちゃった。
韮崎さんに利用されてるなんて知らない上に、信用しまくりでしょ?
いいじゃない、きちんと彼女と向き合いなさいよ。
そしたら『利用』じゃなくなるでしょ?」


――約束して。


「うーんと、これは、約束っていうより、独身最後の女からの、命令?
あたしみたいなイイ女と別れてまで結婚するなら、愛のある幸せな家庭にしてもらわないと、なんかすっごく癪だし」


幸せになってくれなきゃ、絶対に、駄目なんだから。
別れてあげるんだから、幸せになってよ!


韮崎さんは唇を引き結んだ顔で、あたしの目を見る。
顔を、目を、見られるのは辛かった。
ガラスの仮面が今にも剥がれ落ちそうで。


「じゃあ、さよなら」


あたしは、そう発したと同時に後ろを向き、歩き始めた。


「瑞穂!」


呼び止められたけれど、止まらなかった。
早くこの場から去らなきゃ、もう、涙腺も限界だ――。

そう、足を速めたとき、手首を掴まれた。後ろから。


「瑞穂!」


それでも、あたしは動かす足を止めず、掴まれている手を思い切り振り払った。

すぐにもう一度、手を掴まれた。
今度は前より強い力だった。


「――っ! 放し――」

「キスしたのは、瑞穂と会って三回目だ!」


あたしは、途中で言葉を止めた。
振り払おうとした手の動きも。


――三回目?


「九月に――道で倒れて、おぶって病院に運んだだろ?
そのときのこと、瑞穂が言いたくないようだったから、知らない振りをしてた」


今度は息が止まる。


「倒れておぶったところまでは、誰かなんてよく見えなかったし気付かなかったけど、病院で寝顔を見ていて、気が付いたんだ。
あのときの、水をぶっかけてきた綺麗な子だって」

「―――」

「社食で会ったときと違う素の瑞穂と会って、いつも強い振りをしているけど、本当は弱いところのある子なんじゃないかって、気になった。いつも完璧に武装してる、その中の本当の瑞穂を知ってみたいと思った。
だからわざと、名前を入れたタクシーチケットを入れておいた。
あれだけ自分を固めて作れるんだから、仕事にも役立つだろうと、そう思って販促に呼んだのも事実だ。
けど、半分は、瑞穂を知りたかったから。手元に置いておきたくなったからだ。
あのときの瑞穂があったから、俺は強く惹かれた。気になって仕方なかった。全部ひっくるめて、葉山瑞穂に惹かれたんだ」


振り向きたかった。
だけど、振り向くことなんて、出来なかった。

あれだけ堪えていた涙腺は、決壊していた。
洪水を起こしたように、とめどなく涙は溢れていた。
洟をすすることも、嗚咽を漏らすことも出来ずに。
顔が見えないように俯いて、身体が震えないように力を入れて、ひたすら流れ落ちていく水分を忍んだ。

こんなの、見られちゃ、絶対に駄目。


瑞穂、と、優しい声が言った。


「佐藤拓馬に求婚されたら、本当に結婚するか?」


胸に抱えている本に、目を落とした。
ぼやけたブルーは片腕の中でしっかりと包まれていて、拓馬の存在がそこに浮かんだ。

そんなこと、訊かないでよ。


答えることも動くことも出来ずにいると、韮崎さんは言った。


「俺も、ひとつ約束して欲しい」


手の力が、一層強まった。
掴まれた部分が痛くて、熱い。


約束――。


「佐藤拓馬と、幸せになってくれ」


韮崎さんの言葉が、耳から頭に響いた。
脳に吸い込まれるとすぐにまた彼の声が言う。


「絶対に、幸せになってくれよ」


懇願するような言い方だった。


そんな約束なんて、したくない!
あたしの本当の本当の望みは、韮崎さんと幸せになることなのに!


大声を上げてそう叫びたかった。
けれど、出来るはずがない。


「答えてくれなきゃ、放せない!」


身体の底から絞り出すような声が、背中から突き刺さった。

残酷な約束を誓え、と。

唇を噛み締めた。

嘘でも何でも、うんと答えてやればいい。
今、それが、あたしがしなくちゃならないこと。


あたしは、小さく頷いた。
俯いたまま、韮崎さんに顔を見せられないように。


数秒の沈黙ののち――パッと、韮崎さんの体温が手首から消え、軽くなった。

傷付いている暇も、余韻に浸っていることも、名残惜しさも、すぐに断ち切らないといけなかった。
滲んだ視界の中を、あたしはもう一度泳ぎ出した。

ただまっすぐ歩くことさえ困難だった。
けれど、躓くわけにもいかない。

どうにか辿り着いたドアを開き、建物の中に身体を入れ込み閉めると、同時に床に崩れ落ちた。
拓馬の本も、バサリと音を立て、あたしと一緒にひずんだ。

両手で押さえた口からは声にならない声が漏れ、見る間に床を水の粒で濡らす。

今、韮崎さんが、このドアを開けないことを祈った。

  

update : 2011.02.10