55
みるみる目の前の唇が震えた。
そして、次第に膨らんだ涙は頬を伝う。
そこに貼り付いた髪をそのままに、そうね、と彼女は言った。
「都合良く、祖父のせいにしているだけかもしれないわね……」
「それだけじゃない!
韮崎さんだって、悠里さんを裏切っている一人でしょ!
それでもいいの!?」
悠里さんは涙を拭うこともなく、かぶりを振った。
「私は彼を愛してる。だから、いいのよ。
彼は私を利用しているだけかもしれないけど、私はそれでも光を愛しているのよ……。
祖父のしたことを光に償いたいの……」
そこまで言って、「ううん、やっぱり」と彼女は再度かぶりを振る。
「綺麗ごとね。
どんな手を使っても、彼を手に入れたい。
そっちの方が、強いわ」
あたしを、濡れた強い目で見た。
「本当は、私、とても嫉妬深いの。
葉山さんとの関係を知ったときも、許せなかった。
私とは行ったこともない旅行に、葉山さんとは行くって知ったときも、許せなかった」
「えっ、旅行……?」
それは、葉山に行こうって約束?
どうしてそこまで知ってるの!?
「だから、何でも知ってるって言ったでしょう?
そのときはもう、光は監視されてたのよ。逐一、私のところに報告がきていた。
ううん、私が、報告するように指示していたの」
「悠里さんが、指示……?」
そうよ、と、彼女は指の腹で涙を拭い、開き直った顔をした。
綺麗に切りそろえ丸みを帯びた爪は、潔癖さを表しているようだった。
「光の郵便物の中に、葉山のホテルからのものがあったと報告があった。
そのホテルに確かめた。
大人二名の予約……ダブルルーム……」
「――!」
「だから、あの日、私が行けないようにさせたの」
怒りを灯した微かに赤い目。
あたしは黙っていた。
あのとき、仕事だと嘘を吐いて、約束を破った韮崎さん。
偶然鉢合わせたとき、悠里さんと一緒にいた……。
「最初は彼、断ったのよ」
断った?
思わず口にそう出そうになったけれど、寸前で踏み留め、悠里さんを見た。
「私が誘ったけど、大事な用事があるって断られた。でも、あなたの元に行かせるわけにはいかない。
それでね、TWフードの社食の話。あなたと二人で計画していたでしょう?
派閥問題で潰されたことは、知ってたの――もちろん、これも調査で分かったことだけど。あなたを庇ったそうね。
許せなかった。けど、それを逆手にとったの。このプロジェクトは彼の名前を売る良いチャンスじゃないのって。それは私たちが結婚の時期を早めることにもなるわ。
だから、私が祖父にこっそり話を持ちかけた。祖父もその話に乗った。
それで、祖父が社食改善計画の話を直接聞きたいと、あの日、光を呼び出した。
光は行かないわけにはいかなかった」
思い出した。
常務に言われたこと。
『秋山副会長まで動かすなんて』と、あたしにそう言った。
「副会長が、あの企画を動かしたっていうの……?」
「そうよ、裏で圧力をかけた。もちろん、光はそんなの知らないわ。
祖父は光に、TWフードで認められなかったその企画を偶然知ったけれど、凄く良い企画じゃないか、もう少し綿密に練り直して頑張りなさいって、発破をかけたの。予算や計画の甘い部分の指摘やアドバイスもした。
でも、確かに裏で手を引いたけど、元々の企画自体が良いものだったから祖父も乗ったのよ。
それにどの道、光にとっては良い方向にしか進まないわ」
一気に顔に血が上った。
恥ずかしかった。
一生懸命やって認められていたつもりが、そうじゃなかった――……。
だからいきなりあんなにスムーズに事が進み始めたんだ。
あたしに対して、まるで見せしめているように思えた。
力の大きさを誇示するように。
何もかも全て、彼女と副会長の思い通りになるというように。
「エゴだわ」
「え?」
「悠里さんのそれは、エゴイストでしかない。
韮崎さんのこと、ちっとも信じてない。
韮崎さんの本当を、何も見てない。
侮辱してる!」
「あなたに何が分かるのよ」
「分かるわ!
韮崎さんはね、仕事が好きなの!
たった数ヶ月だけど、いつも一生懸命な彼を見てきた。
そんな根回ししなくたって、彼は自分でやり遂げるわよ!
副会長の力がなくたって、自力で東和重工に認められるって、どうしてあなたが信じてあげないのよ!
悠里さんがやっていることは、副会長と変わらないわ!」
「変わらない!?」
悠里さんは、初めて声を荒げた。
「私は、光の望みを叶えてあげたいだけよ!
光は、東和重工の上に納まりたいの!
それは葉山さんだって、知っていることでしょう!」
「知ってるわ!
だからって――!」
「エゴでも何でもいいのよ!
言ったでしょう! 私は、光を愛してるの!
少しでも早くお互いの願いが叶うなら、それでいいじゃないの!
光は、私のことを愛してない! だから、不安なのよ、私も!
早く手の中に入れておかないと、不安なの!
あなたには、絶対に分かるわけがないわ!」
「――!」
はぁ、と、悠里さんは息を切らせた。
そして荒れた気持ちを落ち着かせるように目を閉じ、息を吸い込んだ。
ゆっくりと、吐き出すと、言った。
「私は、葉山さんが羨ましい」
「……え?」
「光に特別な目で見られる葉山さんが羨ましい。
綺麗で女性らしくて、スタイルも良くて。
男の人は、みんな葉山さんみたいな女性に惹かれるわよね。
私が葉山さんみたいな外見だったら、光はまた違った目で見てくれたかしら……。
私は、自信がないの。秋山という名前がなかったら、男の人なんて寄ってこないわ」
「そんなこと……」
「ない、なんて、言わせないわ。
あの日、銀座のレストランで会ったときも、私のこと、見下して見たわよね?
どうしてこのひとが彼の婚約者なんだろうって、そんな目で見られたこと、女なら分からないと思う?」
「あたしは――!」
「だから、やめてよっ!」
叫ぶような声に、言いかけた言葉を引っ込めざるを得なかった。
それに、悠里さんの言うように、確かにそう思った。
どうしてこのひとが、って。
あたしなんか、足元にも及ばないほど、完璧なひとだったら、って。
……なんて酷い女だ。
「私は、衝撃的だった。
写真ではあなたのことを見ていたけれど、所詮調査のものだったし、実際に見たら、輝くほど綺麗なひとだったこと。
そして、光ではない男のひとの前で――楽しそうにデザートを食べて。誰にでも甘える術を知っているひとなんだって、思った」
あたしは黙って、拓馬の本を持つ手にぎゅっと力を入れた。
それにはもう言葉で返そうとしなかった。
「けどね、レストランで葉山さん達に会ったのは本当に偶然だったから、凄く驚いたわ……」
「それは、あたしも驚きました……」
「初めは、ああツイてる、って思った。
あなたとの約束をキャンセルして私といるところを、あなたに見せられるんだもの。
光にも、あなたが佐藤さんと仲良くやっているところを目の当たりにさせられることも。
だから、わざと隣に座ったのに……違った」
「え……?」
「葉山さんを迷いなく追いかけていった光を見て、打ちのめされた。
私がいるのに。一緒にいるのに。
……なのに……」
あのとき、追いかけてきてくれた韮崎さん。
そして、何の疑いももっていないような素振りだった悠里さん。あたしの心配までして。
あれは――。
「あれは……悠里さんの態度は、演技だったんですか?」
「演技? 演技……そうね、そんな風に言うのが正しいのかもしれないわ。
だって私、自分を偽ることには慣れているし。
でも、私には……それよりも、光を自分から責めたてることなんて出来ないの。
気付かないふりをすることが、私たちが上手くいく方法なの。
何も言えないの」
悠里さんはそう言うと、きつくあたしを睨んだ。
「でも、やっぱり許せなかった。
私といたのに、葉山さんを追いかけたこと。
葉山さんだって、佐藤社長と一緒にいたって言うのに……。
それに、葉山さんは、光がいながら、佐藤社長とも上手くやってる」
「拓馬とは――!」
ここで拓馬の存在を否定しようか一瞬悩んだところで、悠里さんが先に言った。
「だからもう、光に気付いてもらうことにした」
「……えっ?」
「あなたたちの噂が流れていること。
葉山さんの、男漁りをしているっていう本性も。
そんな噂がネット上で流れてるって知れば、光ももうあなたと別れるしかないだろうって」
「あの掲示板の噂……まさか、悠里さんが書いたの?」
悠里さんは、ふっと涙目のまま嘲笑し、首を竦めた。
「まさか。私が書くわけないでしょう?
報告書にも、あの掲示板について書いてあったから、知っていただけ」
「じゃあ――?」
と、訊こうとしたところで気が付いた。
韮崎さんは、相川さんから電話がかかってきたと言った。
相川さんの元に、差出人不明のフリーメールがきて、そこに掲示板のアドレスが貼ってあったと。
「相川さんにメールしたのは、悠里さんだったのね……」
「……そうよ。そうすれば、相川さんが光に、葉山さんと別れろって、言ってくれると思った。
彼は光の友達だもの。光のためにならないようなこと、普通は止めるでしょう?
そして、掲示板を見た光が、噂が祖父の元に届く前に別れるしかないと、きっと思ってくれるって。
結果――上手くいかなかった。それでも別れてくれなかった。
だからもうこれは、最終手段なの。
結局、祖父に言ってもらうしかなかったの」
「………」
「彼と、別れて下さい」
「………」
「別れて下さい」
同じ言葉を、強い口調できっぱりとあたしに言い放った。
途端、また瞳に涙が膨れ上がった。
透明の膜を張りながらも、あたしを見据える目は動かない。
「返事、してよっ!
葉山さんには、佐藤社長だっているでしょう!? 友達だって……っ!
私には、光しかいないのっ!
だからっ! 別れてっ! 別れてよっ!」
切れそうな声で彼女は叫んだ。
大きな水の玉が、風に行く先を少し後部に変えさせられながら、ぽたぽたといくつもコンクリートに落ちた。
「悠里さんはずるい……」
「………」
「自分で韮崎さんに直接言わずに、全部人を頼りにしてる」
「………」
彼女は、少しの間押し黙った。
けれど、あたしから目を逸らすことはしなかった。
弱くて強いひとだと思った。
薄いガラスのように繊細で脆く弱くて。
けれど、細い芯は折れそうでも歪みそうでも、決して曲がることのない強いひと。
似てると思った。
韮崎さんと。
そして悠里さんは、ずずっと洟をすすると、あたしへ答えは出さずに訊いてきた。
荒れて取り乱した気持ちを修繕したように静かに。
「……葉山さんは、光のこと、どう思ってるの?」
あたしは、そこで言っていいものなのか逡巡する。
でも、彼女は知っている。全部。
あたしの気持ちも――。
「好きです」
彼女の目を見てハッキリと言った。
きちんと言いたいと、そう思った。
「あたし、誰かを本気で好きになったことってなくて。
だから、愛してるって、その言葉の意味が、これでいいのか、って、こういう気持ちなのかって、ずっと分からなくて。
けど、韮崎さんのこと、好きなんです。凄く凄く好きなんです。
一緒にいると、愛してる、って、そう言いたくなる気持ちになる。
そんな風に思えたひとは初めてで。あたしにとって韮崎さんは、本当に大事なひとなんです」
悠里さんは瞬くようにして瞳を大きく見開き、そして少し俯いた。
そんな悠里さんに、あたしは言った。
「さっき、悠里さんはあたしのことが羨ましいって言ったけど、あたしは悠里さんが羨ましい」
え、と。彼女はすぐに顔を上げてあたしを見る。
「ちゃんと、婚約者が――悠里さんっていう存在がいることも聞いたうえで、あたしが誘ったんです。
それでも良かったの。だって、好きになっちゃったから。奪う自信もあったの。
けどね、駄目だった。韮崎さんは、あたしを選べないって言った。
最初から、最後まで。ずっと」
悠里さんは、瞬きもせずにあたしを見つめた。
風で煽られた髪が顔にかかっていたけれど、それさえも気付いていないように、微動だにしなかった。
「韮崎さんにとって、あたしのことは通過点にすぎないの。
ずっといっしょにいるひとは、最後まで一緒に走るひとは、悠里さん、って、彼は選んでいるの。
それはもう、変わることはないの」
悠里さんは、嬉しいと言うより、とまどったように瞳が揺らいだ。
自分でも信じられないのだろうか。
「それにね、もう会うのはよそう、って言われてるんです。
それなのに、あたしがそれを認めなかった」
言いながら、哀しくなった。
目の裏が熱くなっていく。痺れていく。
鼻の奥がつんとした。
全部、全部、本当のこと。
分かっていた。
もう潮時だと。
それでも、少しでも引き延ばしたかった。
でも、もう、本当に終わり。
――終わりにしなくちゃ。
悠里さんの気持ちも傷も、知ってしまった。
そして、韮崎さんの傷も、あたしは知っている。
だからこそ、この二人は幸せにならなくちゃいけない。
東和重工という――秋山という――その重みと対峙して、乗り越えなくては。
幸せを、自分らしくいられる人生を、新しく建て直して築かなくては。
そうじゃなくちゃ、いつまでも彼らは救われない。
渦に巻かれたままになってしまう。
「最後に一度だけ、彼と話をしていいですか?」
悠里さんは、目を上げてあたしを見る。
あたしは自分の決心がぐらつかないうちに、言った。
「そしたら――もう、二度と会いません。
凄く好きだから、二度と」