54

あたし達の関係を知ってる?

まさか――。

だって、この間偶然会ったときだって、そんな素振りは全くなかったし。
ついさっき、副会長に否定してくれたばかりだし。

でもそれは副会長の前だから?
噂が流れてるのは事実なんだし、その内容だって、きっと全て知っているには違いないんだよね。

もしかしたら、カマをかけてる、とか……?


「何を言ってるんですか?」


あたしは軽い笑みを作って、彼女の様子を窺いながら言った。

瞳の奥を覗きこむような。けれど濁りのない二つの目が、あたしをじっと見た。


「行きましょうか」


あたしの質問はスルーしたように、全く違う返答が返ってきた。
悠里さんは、人差し指をすうっと立てた。


「ココの屋上。
私、一度、行ったことがあるんです」





エレベーターは使わず、階段で屋上へ向かった。

こんなところに上がるのは、入社してから初めてだ。
夏は暑いし冬は寒い。おまけに風が強いだろうことは、行ったことがなくたって安易に想像できる。
だからわざわざ休憩中に、ヘアとメイクを崩しに行く気がしれない。

階段を上っている間、もしかしたら鍵が閉まっていて入れないかもしれないと思っていたけれど、いざ行ってみると、就業時間中は社員が常に利用できるようになっているのか、『ドアは必ず閉めること』との注意書きの張り紙があった。

外に向かって開くドアは、強い風に煽られて少し力がいった。
いざ開いてみれば、思ってもみなかった空間が目の前に広がっていて、少し驚いた。
屋上緑化に取り組んでいるらしく、時期が時期だけに緑色ではないけれど、中央には芝も敷いてあり、樹木や花が植えられている。もみじの葉が、赤く色づき始めて風に揺れていた。
ベンチはまばらに数個置かれ、スタンド式の灰皿もある。
喫煙スペースというのも、あたしが利用しない理由のひとつだと、たった今思い出した。


悠里さんは迷いもなくそこを通り過ぎていき、あたしは黙ったまま彼女の後を追った。
何もない端まで行くと、彼女はフェンスに寄りかかり、眼下の景色を覗きこむように頭を下げた。
艶のある黒髪が、風によってさらさらとあたしに向かってなびいている。


彼女は、本当にあたしと韮崎さんの関係を知っているの?
知っているなら、どこまで?


心臓は、ばくばくしていた。

ふと、髪のかかっている肩が小刻みに揺れているのに気付いた。


え?
もしかして、泣いてる?


「あの……っ」


声をかけた途端、彼女は振り向いた。

その顔が、泣いているどころか笑っていたから、またもや驚いた。
くすくすと微かに声を漏らしている。


何?
何で?


ただ不審がるあたしに、彼女はそこで笑いを収めて言った。


「葉山さんって、凄いわね」

「えっ?」

「まさか葉山さんが、祖父に向かってあんなことを言うなんて思わなかったわ」

「あっ……! ご、ごめんなさい」

「違うの」


彼女はやんわり微笑した。


「そういうこと、祖父は言われた試しがないでしょう?
だから、何かね、ちょっとスッキリしちゃった」


そう言って彼女は、ふふっと声を立てて笑い、あたしは呆気に取られた。


……スッキリって……。


「きっと光は、葉山さんのそんなところにも惹かれたのね。
私じゃ、ありえないもの」

「あたしは……!」

「葉山さんて、女性としての魅力を沢山持っているものね」

「あの、だから、」

「隠さなくてもいいのよ。
全部、知ってるの」

「え……」

「知ってるの」


彼女の顔からはもう笑みが消えていた。
そして、あたしの顔を見据える。


「光が私を愛していないことくらい、とっくに知ってるわ。
彼は私と結婚したいんじゃなくて、秋山家の人間と結婚したいの。
そのために、それが目的で、私に近づいたの。
最初から、仕組まれていたの」


彼女が言ったことにまたもや驚いた。
だって、あんなに韮崎さんのことを信頼しているように、愛しているように、見えたのに。
まさか、信用していなかったなんて……。


「そんなこと……言わないでください」


あたしの言葉に悠里さんは、ほんの少し目を細める。


「葉山さんこそ、光のこと、知っているんでしょう?」

「……韮崎さんは、悠里さんとの出逢いは偶然だって、言ってた」


今度は悠里さんが驚いた顔をした。


「……偶然……」


彼女は呟くように言ったあと、ふっと笑った。


「そう……でも、結果的には同じだし、偶然でも出逢えたなら、ラッキーだって、そう思ったでしょうね」

「どうして……彼のことをそんな風に言うんですか」

「どうしてって、言ったでしょう?
全部、知っているからよ」

「全部って……」


まさか、と、また思う。

韮崎さんの過去まで知ってる?
でも、そんな――。


「光は、私なんかを愛せるわけがないの、絶対に」


悲しそうに、彼女は空に向かって微笑する。


「どうして……」


あたしの問いかけに、彼女はこちらに顔を戻した。


「東和重工が……祖父が――光の両親を殺したようなものだからよ」


まさか、が、的中してしまった。
彼女が知っていたなんて。

ごくりと固唾を飲んだ。
すぐに声が出せなかった。いや、返答の言葉も出なかった。


「やっぱり、葉山さんは知ってたのね。そうだと思ってた」

「あの、あたしは――」

「あなたになら、光は何でも話すのね」

「違う!」

「違う?
じゃあ、光からは、何も聞いてないって言うの?」


ぐっと、言葉が詰まった。
悠里さんは小さく息を吐いた。
「聞いているのね」と。


「……確かに、聞いたわ。
けど、知ったきっかけは拓馬からだったし、あたしが韮崎さんを問い詰めたから……だから……彼から好んでそんな話をしてきたわけじゃない」

「でも、話したなら、同じよ」


ぴしゃりと言って、あたしを睨む。
あたしはまた黙るしかなくて、唇を噛んだ。

沈黙が流れた。
風が木を揺らす音と街の音が混ざっていた。
それが酷く耳触りで頭痛がする。

悠里さんに訊きたいことは、訊かなきゃならないことは、沢山ある。
けれど今、頭の中はぐちゃぐちゃに掻き回したように混乱していて、何から訊いていいのかも分からなくなっていた。

すると、悠里さんから「私ね」と、また話し出した。


「私の人生ってね、今迄、裏切られてばかりだったの」


いきなりの告白に、あたしは彼女に目を預けるだけだった。


「家柄がああでしょう? だから、私に近づいてくる人は、私を秋山家の人間として見ているの。決して私自身と仲良くなりたくて近づいてくるんじゃない。秋山という名前と繋がりたくて優しくしてくるの。
裏では凄いこと言ってるって知ったのは、中学のときだったな。
仲良かったグループの、私以外の子が、トイレで陰口を叩いてたの。いつもは恐縮するくらい褒めてくるばかりだったのに……皆、腹の中は違ってたの。
けど、何にも言えなくて。本当のことも訊けなくて。そこからの付き合いは表面だけで、いつも皆に合わせてた。
家に呼んだり、別荘に連れていったり、パーティに誘ったり。そんな気遣いだけはしてた。
一人になるのは、とても怖かったの」


驚いた。
温厚で優しそうな彼女に、そんな過去と想いがあったなんて。
彼女の物腰や雰囲気からはそういった気配は全くと言っていいほど感じられなかったし、逆に、東和重工の重役の孫娘として、裕福で不自由なく誰からも一目置かれ穏やかな生活を送ってきていると思っていた。
そう思えるようなひとだったから。

自分との境遇の違いはあれど、子供の頃の友人とのトラウマが彼女にもあったのだ。
あたしが味わったことのある苦い気持ちを、彼女も持っていたのだ。

あたしは、何も言えないままその続きを聞いた。


「光と出逢ったときもそうだった。
私には、そのときに付き合ってるひとがいたの。初めて恋人と呼べるひとだった。
……でも、今までと同じで、そのひとは、お金が目当てだったの。随分悪い噂のあるひとだって、全く知らなくて、困ってるって聞いて、お金を貸してた」

「お金?」

「そう、お金。学費とか家賃とか、払えなくてカードローンをして、それが膨らんで返済できなくて、って、最初は五十万円。次に百万円。
だって、私のこと、好きだって、言ってくれてたの。優しかったの。大事にしてくれてたの。
そうやって求められることが、誰かに必用とされることが、どれだけ嬉しいかそのとき知ったんだもの」


それは、あたしの中でも理解できる部分でもあった。

自分を求められること。
必要とされること。

そうしてあたしも、自分の存在価値を確認してた。


「実はそのお金で他の女の人と遊んでたってわけ。私と違って綺麗な女の人。貢いでたの。
そんなの、全然気付かなかった。友人も、知っていてもみんな教えてなんてくれなかった。
そうやって、陰で笑ってたのよね。アイツ、馬鹿だなぁって」


「本当に馬鹿でしょう?」と、自嘲する彼女に、胸が苦しくなった。


「それを教えてくれたのが、光だった。彼に悪い噂があるって。
でも、そんなの信じられなかったし、信じなかった。
あるとき、その人から謝ってきたの。すぐには何がなんだか分からなかった。
けど、それは光の仕業だった。
私に本当のことを話せって、裏まで取っていて彼に突きつけて、お金も取り返してくれたの……」

「韮崎さんが?」

「そういうの、許せないんだ、って。
相手もね、光の家系を知っていたから、従うしかなかったみたい。
光の養父が裏の――」


そこで、「ああ」と、知ってるわよね、と言うように、彼女は微かに口元に笑みを浮かべた。
あたしは小さく頷いた。


「そんなことがあって、私は初めて付き合ったひとにも裏切られた。
裏切られていたの」

「………」

「光と付き合ってから、目が覚めた。
彼は凄く自然なひとだったから。
私に対してお世辞やご機嫌取りなんて、してこなかった。常に対等な目で見てくれた。
それで……無理に人付き合いをするのは止めたの。
少なくてもいいんだ、って。たった一人でも。自分が本当に信じられる人だけいてくれればいいって。
素気ないところもあるけど、でも、優しくて。彼の前では私でいられた。
ずっと一緒にいたいと思った。
誰にも、渡したくないって」


ずきっとした。

素気ないところもあるけど、でも、優しくて――あたしも、そう思ってる。

そして、彼のことを語る彼女は、やっぱり好きなんだな、と思わせる話し方と表情だった。
芯があって、熱っぽく。目の縁を赤くし、潤んだ瞳。


「そんなに信じてたなら……どうやって、韮崎さんの過去を知ったの?」

「結婚を約束して、彼を祖父に紹介した直後だったわ……。
祖父が調べさせていたの、彼を。興信所をつかって。
私みたいな家に生まれると、そういうのも当たり前のことなのよ」

「え、だって――」


副会長は、知っている素振りはなかったのに。
興信所を使ったならば、副会長に韮崎さんの過去も思惑も全て明るみに出ているはずだ。

悠里さんはあたしの内心を察したようだった。


「何で祖父が知らないかって顔ね?
命じられた直属の部下がね、祖父に報告する前に、私のところに持ってきたの」

「副会長の、部下が?
悠里さんに?」

「だって、あまりにもいいネタでしょう? お金になると思ったのね。
それに、私が小さいころからの付き合いのある人だからね、私のことも熟知していた。
私が彼と別れるという選択を取らないことを分かっていたの。
だからね、それを私が買い取って、過去を美化した偽の報告書を作らせて、それを祖父に提出させた。
だから祖父は、彼の本当を、知らないままなの。
光の養父の家柄を差し引いてもきっと、クリーンで順風な経歴に、喜んでいるんじゃないかしら」


あまりにも衝撃的な話で、頭の中がまた混乱する。
あたしは、整理するように、順を追って悠里さんに訊き直す。


「直属の部下って……副会長を裏切って、ってこと?
それで悠里さんがお金を払って指示させたの?
……そんなこと、して平気なんですか!?」


俄には信じがたい話だった。
けれど悠里さんは表情を変えずに答えた。


「……そうよ」

「そう、って――!
それに、そんなに韮崎さんのことが好きなのに、彼を信じないで報告書とお爺さんを裏切った部下を信じたんですか?」

「光を信じたかったわよ。
でも……出てきた内容があまりにも衝撃的で、調べれば調べるほど、面白いネタが出てきたようで、信じるしかないほど詳細に記されていたの。
それでお金を要求するくらいだもの、裏も取ってあった。
私も、突っぱねることは出来なかった」

「ショックじゃ……なかったんですか?」

「どのことに対して?」

「どれって――全部ですよ!
副会長を裏切って悠里さんにお金を要求する部下にも、韮崎さんが悠里さんに近づいてきた理由も、副会長が彼の過去に関わっていることも!」


つい力んでしまったあたしに反して、悠里さんは冷静だった。


「ショックだったわ」

「じゃあ……!」


言いかけて、それは宙に浮いてしまった。
結局その次の言葉が続かなかったのだ。

確かに、悠里さんの行動は不可解だ。
けれど、あまりにも衝撃的な現実を目の当たりにしたら、自分だったらどうしていいか分からないだろう。

――家族に部下、恋人……。

何を、誰を、信じていいのかも。


言葉に詰まったままでいると、彼女はぽつんと言った。


「私、祖父のこと、恨んでるのよ」

「えっ……?」

「私がこんな境遇にあったのは、全て祖父が元凶だわ。
秋山という家に生まれなければ、祖父が東和重工の重役じゃなければ、こんなことにはならなかったのに……。普通の女の子で良かったのに……。
父にしてもそうよ。プレッシャーに負けてしまったの。親戚からは弱者だと蔑まれているわ。ただ長男と名のついただけで、のうのうと裕福な暮らしをしているって。だから祖父は私にはもっと厳しくなった。レールを踏み外さないようにって。
祖父があんなことしなければ、光のご両親も光自身も、違った人生を送っていたわ。
光や光の周りだけじゃない。人に恨まれるようなことを、平気で沢山してきているの。だから、側近から裏切られたってしょうがないんだわ」

「そんな……」


悲しい考えだと思った。

血を分けた孫が、そんなことを言わなきゃならなくなるまで追い詰められていたのかと思うと。
けれど、そう思うのとは別の場所で、甘さも感じた。
全て人のせいにするなんて……。


「私、思うの。
もし……もし、光のご両親が健在だったら、光はどんな人生を送っていたのかしら。
田舎で、穏やかで幸せに暮らしていたかもしれない。
それでも頭がいいから、東京の大学に通うために上京してきたかもしれない。
何か夢を見つけて、それに向かってがむしゃらに頑張って。今とは違うその夢を叶えて……。
でも、私たちは出逢うことはなかったんだわ……。皮肉なものよね。
光を秋山に迎えることは、祖父を裏切る行為だわ。
けど、祖父のしてきたことがどれだけの罪だったのか――光にそれを償わなきゃいけないと思うの。
私は……孫だもの。結局は秋山の人間だもの。祖父が出来ないのなら、私が引き継がなきゃいけないと思う。
だから、彼の望むことは叶えてあげたいの」


悠里さんの言っていることは、理にかなっているようで支離滅裂だ。
秋山家を否定していながら、秋山家の人間だからと言う。

結局、彼女も縛られているんだ。
――韮崎さんも。

自分の生き方を確立できずに、周りに振り回されている。

ううん、そうじゃない。
秋山修一郎の、ゲーム板上の駒のひとつだ。

あたしも。拓馬もだ。
結果的には、駒のひとつになってしまった。


「悠里さんは、いいんですか?」


あたしが言うと、彼女は口を閉じたままこちらを見た。
あたしはもう一度訊いた。


「そんな風に思いながら結婚するなんて。
それで幸せなんですか?」

  

update : 2011.01.29