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明日から、出張だ。
まずは、神戸へ行って一店舗。
そのあと、伊丹、高槻と、大阪で二店舗。
京都へ移動して、一店舗。
また大阪に戻ってそこで一泊し、次の日そのまま大阪市内二店舗、奈良で二店舗。
またまた大阪に舞い戻って一泊。次の日に広島と山口を回って、一旦東京に戻る。
スケジュールと交通、宿泊のスケジュールは、石田さんが手配して組んでくれた。
それにしても、どうして大阪なら大阪で纏めて同じ日に行かないのか、とも思うんだけど。
彼女なりに調べた交通事情では、その方が良いらしい。
ぽそっと疑問を投げたら、自信満々に言い返された。
任せてしまった分、あんまり大きな文句も言えないし。
まぁ、石田さんのことだから、本当に完璧なスケジュールなのかも、と、思うことにしておく。
とりあえず、関西出張の分の荷物は、ほぼ纏めた。
あとは細かい日用品をつめるだけ。
東京に戻ってきて、そのまた次の日からは、北関東――群馬、茨城、栃木を回る。
こっちは当然、日帰りコースだ。
そのあとももちろん、しばらくはこんなハードな出張が続く。
今日は、フィードバック前にと、関東近郊の支店の者も集まって午前中から会議だった。
議事進行はあたしがする。議事録は石田さん。
初めて司会をしたときは、絶対に無理だと思ったけれど、最近は自分でも少し慣れたな、と思う。
堂々としていれば、それなりにどうにか見えるのだ。
あたしでも、こんなことが出来るようになるとは。
あたしでも、やれるんだな。
ほんの数か月前だったら、思いもよらなかったこと。
毎日が凄く忙しくて大変だけど、今の自分は、今迄の自分よりも、ずっと充実してる。
楽して楽しいことだけ考えてる自分より。
ずっと、ずっと、ずっと。
「全店舗は多すぎてフィードバックに回れないのは分かりますけど、ウチにも来て欲しいって、そういう要望も結構多いんですよ。
それって、希望店舗にもしてもらえるように、どうにかなりませんかね?」
「実際に希望を募ってみないと、どのくらいの店舗が望んでるかは分からないですが……多分、こちらで回るのは難しいと思います。時間がかかり過ぎると新鮮味もなくなりますし。
逆に、支店の方の担当でフィードバックするとかは……?」
「それじゃあ統一感がねぇ」
「じゃあ、えーと、どこか会場に集まって、直接、今回の調査員から、調査について意見を訊く、とか、そういった形はどうでしょう?
そうしたら、参加したい店舗は全部参加出来るし、店舗同士の意見なんかもお互い直接訊けますし、良い刺激になるかも……」
「座談会って、やつだな。
それはいいかもしれない」
「M&Sの方にできるかどうか、とりあえず打診してみます」
新しい企画が舞い込んだ。
また忙しくなる。
けれど、胸の奥がどこか踊るような、わくわくとした気持ちになる。
クロージングの挨拶をすると、終わった、という感じだった。
やっぱりホッと緊張の糸が解れる。
戸口で挨拶をしながら最後の一人が出るまで見送ったあと、使用したホワイトボードや資料を片づけ始めた。
あちこち向いた椅子を丁寧に直していると、石田さんが足早に近づいてきた。
「ゴメン、ちょっと片づけお願いしててもいい?」
トイレ、と、そこだけ小さくあたしに耳打ちして、彼女は颯爽と会議室を出て行った。
会議室の中は、急にしんとした気がした。
あたしは片づけの手を止めて、自分のノートパソコンをシャットダウンしている韮崎さんの方を向いた。
石田さんがいなくなってしまったお陰で、久し振りに社内で韮崎さんと二人きりになった。
ウインドウズが切れる機械的な高い音が鳴る。
彼も彼で、あたしの方を見ると、どちらともなくお互いに笑みが零れた。
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
「結構、司会も板についてきたな」
「ちょっとだけ慣れましたけど、こういうの、苦手です」
「そうか?」
「そうですよ」
答えながら、また手を動かし始める。
椅子の足の音が、ぎぎっと室内に響いた。
「明日から、関西ですね」
「だな」
「あたし、楽しみなんです」
「ハードだぞ」
「分かってますよぉ。
こう言ったらいけないのかもしれないけど、仕事でも韮崎さんとどこか違う場所に行けるのって嬉しいし。
あ、もちろん、フィードバックも初めてだから、楽しみなんですよ?」
韮崎さんは、うん、と頷いたあと、何かを考えるように視線をどこかにやった。
そして、あたしにまた戻してくる。
「瑞穂」
「はい?」
「フィードバックが全部終わったら、葉山に行こうか」
「え?」
「埋め合わせ、するって約束したろ?
それとも、どこか他に行きたいところある?」
――葉山。
あたしは、首をふるふると振った。
「行きますっ」
「もう虫の声は無理かな」
「虫……うーん……無理かなぁ……」
ふ、と。そのとき、頭に思い浮かんだ。
134号線と、海。
そこから見上げる、透明な青い空を背にした白亜の建物。
小さな頃、あたしの憧れていた――……
「じゃあ代わりに、あたし、葉山で行きたいところがあるんですけど」
「どこ?」
「海の真ん前のホテルなんですけど、あたし……」
そこまで言ったところで、人の気配がした。
トイレから戻ってきた石田さんだった。
「ごめんねぇ」
と、顔の前に手を立てて、邪気なく笑う。
……いいところだったのに。
残念、と思うと、韮崎さんは、パタンとノートパソコンを閉じ、マウスと一緒にそれを手にした。
「じゃあ葉山、その件は、後で」
と、石田さんと入れ違いに会議室を出て行った。
――後で。
……まぁ、いっか!
約束は、したもんね!
今度こそ、二人で葉山に行ける!
顔の筋肉はどうしても緩んでしまう。
不思議そうに肩を竦める石田さんをよそに、あたしは鼻歌を歌いながらさっさと椅子を並べ直した。
片づけも終わり部署に戻ると、さっそくM&Sに電話をかけるのに受話器を上げた。
拓馬か中田さんか、どちらにかけようか少しだけ悩んで、結局中田さんにかけることにした。
拓馬とは――葉山に行ったときから会っていない。
電話だって、仕事の件は中田さんとやりとりしているから、あの掲示板の事件以来していない。
……結構経つな、と思う。
そりゃあ、アイツと顔を合わせたり電話したりなんて、できればしたくないから、その方がいいんだけど。
でも。
好き、って――言ったくせに。
その割には、平気なんだ? 会えなくても、声を聞かなくても、放っておいても。
あたしだったら、好きな人とは常に接点があって欲しいと思う。声も聞きたいし、顔も見たい。
やっぱり、アイツは適当なヤツなんだ。そうだ。
だったら、告白なんてしてこないでよ。
余計なことを考えちゃって、迷惑だし!
無性にイライラした。
ついちょっと前までは幸せな気分だったのに、アイツのことを考え出すと途端に苛立ってしまう。
のんびりと受話器の中から上がるコール音にも、それを増幅させられる。
別に、いいじゃない。その方が。
会いたくも話したくもないんだし。
なのに――。
ぷつっと呼び出し音が切れ、落ち着いていて丁寧な中田さんの応答が受話器から聞こえてきた。
考えてみれば、中田さんと話すのも、少しだけ久し振りだ。
報告書が提出されてから、確認事項はほとんどメールでやりとりしていた。
一時の電話の量もメールの量も、それはそれは結構なものだったのに。
お久し振りです、と、互いに挨拶を交わすと、あたしは、まずは、座談会の説明と調査員が参加出来るかの確認をした。
中田さんは明るい声で「いいですね」と言った。
『もちろん、参加させていただきます。
条件に合わせて募集をかけますけど、もう、詳細は出てるんですか?』
「まだ、これからなんです。
それで、佐藤社長にもご出席頂きたいと思ってるんですが」
『分かりました。
最近は座談会のみ依頼してくる企業も増えてるんですよ。
佐藤が司会をやったりもするんです』
「佐藤さんが司会をされたりするんですか?」
『はい。なので、ご依頼頂ければ、佐藤にそのように伝えますけど。
あとはスケジュール次第です。年内は結構詰まってるので……決まり次第早めに言って頂ければ』
相変わらず忙しいのか。
「じゃあ、決まったらすぐに連絡します」
『はい。でもきっと、葉山さんからのご依頼なら、強引にでも捻じ込むんでしょうけどね』
くすっと電話口で中田さんが微笑する。
それって、どういう意味でよ、と思う。
まさか、中田さんまでもがあたし達が付き合ってると思ってるわけじゃないよね?
電話のコードを指に巻きつけながら訝しんでいると、中田さんが言った。
『そう言えば、葉山さん、佐藤とどこか行くんですか?』
「……え?
どこかって、行くって、何ですか?」
『あれ……? あ、すみません。てっきり……。
佐藤は今日から数日間休暇なんですよ。
休みのことは知ってました?』
「知りませんし、聞いていません。連絡だって取っていません。
私たち、ただの昔の同級生ってだけですしっ」
強調して否定する。
何であたしが、アイツと。
やっぱり何か勘違いしてない?
そうですか、と、中田さんはなんら気にしてない様子で続ける。
『私が知っている限りでは、社長の初めての休暇なんですよ。
まず、いつ寝てるんだか分からないくらいの仕事人間ですからね』
「え? 初めての休暇、ですか?」
『丸一日休みを取ってるところ、見たことないですねぇ……。
年末年始でさえ、何かやってますね。自宅に持ち込んで、っていうのも多いですし』
ふぅん。そうなんだ?
「中田さんって……佐藤社長のこと、よく知ってますよね。
一体いつからM&Sにいらっしゃるんですか?」
『今の会社の立ち上げ当時からですよ。
私、大学のときの同級生なんです。
彼が大学を中退して会社を起こす、って言ったときに、面白そうだなって、私も一緒に辞めたんです。
だから、彼との付き合いは長いんですよ』
「同級生、だったんですか……?」
拓馬が大学を中退して起業したという話は、確か以前菜奈から聞いた。
けれど、中田さんが拓馬の大学の同級生で、一緒に中退したなんて……。
……まさか、中田さんは――……?
『葉山さんの話も、前から伺ってましたよ』
「……え?」
あたし、の?
『だからいつも、時間を縫ってでも……』
あっ、と、中田さんは、そこで気が付いたように小さく声を上げた。
『……雑談が過ぎましたね。
では、座談会の件ですが、こちらではすぐに対応しますので、決まり次第またご連絡お願いします』
「はい、よろしくお願いします」
話の内容にどこか引っかかった頭で、一応は反応してその言葉が出た。
「では」と言った中田さんに電話を切るための挨拶をしようとした寸前、「あ」と、今度はあたしが、そこで言わなくてはならない重要なことを思い出した。
「そういえば私、明日から、先日の調査のフィードバックのために地方店舗を回るので、しばらく社には出勤しないんです。
メールでの対応は出来ますが、何かあったら携帯の方に連絡して頂けますか」
『ああ、はい。了解しました。
では、番号をお願いします』
090……と、あたしは自分の携帯電話の番号を三つに区切って伝えた。
言いながら、まさかアイツに伝わらないよな、と考える。
いい加減教えろと言われつつも、どうにか今迄教えずに済んだ携帯の番号。
中田さんとの電話を切って、仕事に戻った。
けれど、何となく集中できなくて、ぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。
そうこうしているうちに、デスクの上においてあったあたしの携帯電話が鳴った。
……まさか。
そのまさかが的中した。
サブディスプレイに『佐藤 拓馬』と、アイツの名前がばっちり点滅していて、溜め息が出た。