50
乗客があたし一人だけのエレベータから降り、店に入ると、小気味良いリズムのジャズと四方から上がる楽しそうな話声とが重なり合っていた。
ホテルの45階のバーラウンジは、落ち着いていて高級感があるのに店内には活気を感じる。
ウエイターに案内されながら、店内に視線を一巡させた。
艶のあるマホガニーのテーブルと床。座り心地のよさそうな丸みを帯びた背もたれの椅子。
向こう側の――天井近くまである大きな窓ガラスの外に、新宿の街の光が無数に広がっている。
ついさっきまであたしがいた会社のビルの明かりも見える。
こうして見る小さな明かりの中に、今の今まで自分がいたことが、どこか不思議に感じる。
ウチの会社の近くをわざわざ指定してきたのは、あたしが忙しくて仕事が終わるのが遅いから、きっと気を遣ってのことだ。
「遅くなってごめんなさい」
カウンターの端に見つけた後姿に声をかけると、相川さんはぱっとこちらに振り返り、立ち上がった。
「こっちこそ、ゴメン、呼び出したりして」
「いいえ」
「随分遅くまで仕事で大変だったね。
お腹空いてるでしょ?
何か食べられるところに、店移ろうか?」
「大丈夫です。
こっちこそ、こんな遅くまで待たせちゃってごめんなさい」
「いや、呼び出したのは、俺だから」
あたしは首を振ると、隣の席に腰を下ろし、バーテンダーにマティーニをひとつ注文した。
相川さんも、静かに席に着き直す。
カウンターの向こう側には、色とりどりの酒瓶が上から下まで整然と並んでいる。
海外産でデザインも凝った瓶たちは店の一角を飾り上げ、こうして見るとオブジェのようにも見える。
バーテンダーはそこから迷いなく二本の瓶を抜き取った。
ミキシンググラスにジンとベルモットが入り、鮮やかな手つきでステアされる。
黙ったまま、二人ともその様を見ていた。
ステアの音が止むと、カクテルグラスに透明の液体が注がれていく。
「まさか、本当に来てくれるとは思わなかった」
「あたしも、来ないと思われてるなんて、思いませんでした」
「そうだね」と、相川さんはあたしに口元だけ上げて苦く笑うと、作成中のマティーニへと視線を戻した。
最後にオリーブが飾られ、出来上がると、バーテンダーはあたしの目の前にすうっと差し出した。
あたしは、それをぐいっと飲んだ。
喉が熱くなり、空腹の胃袋は強いアルコールを浸透させるときゅうっと委縮した。
ベルモットが多めのクラッシックスタイルだな、と、どこか冷静な頭が思った。
まだたっぷり中身の入ったグラスを揺らしながら、
「話って……何ですか?」
韮崎さんとの関係のことだろうと、分かってはいたけれど、体裁として訊いた。
どうせ、別れろとか、その手のことだろう。
親友を思うなら、そう言うのも当然のことだとは思う。
内心身構えながらグラスをテーブルに置くと、相川さんは言った。
「謝りたいと、思ってた」
「……え?」
「瑞穂ちゃんの会社の前であんなことして。
今更だけど……みっともないことして、迷惑掛けてゴメン」
思ってもいない謝罪に、あたしは面食らった。
「何で謝るんですか……?」
「何でって、嫌な気持ちに、させただろ?」
「嫌な気持ちにさせたのは、相川さんじゃなくてあたしの方でしょ!?」
「瑞穂ちゃんは悪くないよ。
完全に舞い上がってた俺が、勝手に勘違いしてたんだから」
その返答に、腹が立った。
何で今、わざわざ偽善者ぶってるの!?
「言いたいこと、本当は違うんでしょ?」
「え?」
「あたしと、拓馬――佐藤社長のことを訊きに来たんでしょ? 韮崎さんとの関係も。
安心してください。あたし、韮崎さんとは遊びですから。
婚約者から奪おうなんて思ってません」
相川さんは、困ったように眉を顰めた。
イラつく。
わざわざ呼び出したんだから、さっさと言いたいこと言えばいいじゃない!
「韮崎さんとはもう会うなって、はっきりそう言えばいいじゃないですか。
相川さんが、掲示板も見たの、知ってます。
あたしがどんな女か、分かったでしょ?」
「もしかして、瑞穂ちゃんも、見たの? 掲示板」
「……は? 今更何言ってるの?」
「そうか……。ああいう匿名の世界って、勝手なことばっかり言ってて酷いよな。
真実なんて、本人たちしか知らないのにさ……」
相川さんは、まるで自分が傷ついたように痛々しく唇を噛んだ。
……このひと、何言ってるの!?
本当に謝るためだけに呼び出したって言うの!?
「俺……舞い上がってたんだよな」
「は?」
「瑞穂ちゃんて、高嶺の花って言うのかな……。なんかさ、合コンで最初に見たときから、他の子とは違うなぁって。めちゃくちゃ綺麗で目立ってた。
だから、そのときも上手く誘えなかったって言うか……。
携帯の番号も教えてもらったっていうのに、連絡してみようかって、そう思うのに出来なくて、悩んで……そのうちに、瑞穂ちゃんから電話があって――会いたいって言われて、凄く嬉しかった。
会ったら、そういう関係になって……。瑞穂ちゃんも、俺のことって……そう思っちゃったんだ。
一目惚れだったんだ。瑞穂ちゃんのこと、何も知らないのに。
自分でも、そういうのって初めてで、不思議で。
とにかく――どうにもならないくらい自分の中が、瑞穂ちゃんのことが好きだって、そう言ってたんだ。
相手のことを少しずつ知っていって少しずつ好きになってって、そういうのとは本当に違って、最初からこのひとだって、そう身体も心も言ってた。ある意味、それって凄く人間的な本能だって思う」
そう言われても、こんなときに、素直に嬉しいなんて思えない。
だから何なの、と、逆に神経が逆撫でされる。
「それって、だけど外見だけってことですよね、あたしの」
ツンとした口調で返すも、すぐに
「違うよ」
と、きっぱりと切られた。
「内面がちゃんと表れてるから惹かれたんだよ。
俺――合コンのとき、見てたけど、よく気がきくコだなって思った。
綺麗なのに高飛車な感じもなくて、人にちゃんと気を遣って、人を見て先回りの行動をしてる。その上、笑顔も可愛くて、それに凄ぇ癒やされて……」
そんなの、オトコの気を惹くために決まってるじゃない!
馬鹿じゃないの、このひと!
「あたしは相川さんが思ってるような女じゃない!
したたかで、ずるい女なの!
そんな風に、勝手に自分の理想の女みたいに当てはめないでよ!
あなたのことだって、ただの遊びだったの!
付き合ってるなんてこれっぽっちも思ってなくて、迷惑だったの!」
「したたかなんて、俺は思ってないよ。
掲示板には色々書かれてたし、瑞穂ちゃんは何も言わないけど、韮崎とのことも佐藤社長とのことも、本当は瑞穂ちゃんなりの理由があるんだろ?
あのとき――会社の前で、佐藤社長だけが一方的に言って、瑞穂ちゃん自身は、ごめんなさいって言っただけで、他には何も言わなかった。
それはもしかして、円満に俺と別れるための手だったのかな、って」
「……何、言ってるの……っ?
だからっ! 勝手に都合よく解釈しないでよっ! おかしいんじゃない!?」
「じゃあ、佐藤社長とは上手くいってるんだね」
「上手くも何も、アイツと付き合ってないし!」
「それなら、やっぱり何も問題ないだろ?」
「問題?」
はっ、と、あたしは鼻で笑った。
どこまでも冷静で、あたしを美化する相川さんに、ムカついて仕方ない。
「どこがないの?
韮崎さんと、関係があるって肯定してるでしょ」
「遊びなんだろ?」
「じゃあ、あたしが韮崎さんが好きだって言ったら!?
あなたの――婚約者を持つ親友が!」
「好きなの?」
「そうだよっ!
あたしが好きなのは、韮崎さんだよっ!
ホントは、悠里さんから奪いたくてしょうがないんだよ!
だからどうだって言うの!」
「やっと、ホントのこと言ったね」
「えっ……?」
「佐藤社長とはなんでもなくて、韮崎が好きだって。奪いたいって。
それが瑞穂ちゃんの本音なんだね」
「は……?
カマ、かけたの?」
相川さんは、苦笑いした。
「どこまでが本当なのよ……」
彼は、今度は困ったように笑顔を作ってみせる。
……ああ、してやられた。
自分のカッとしやすい性格とすぐに口車に乗ってしまう浅はかさに、頭にくる。
「相川さんは、一体あたしに何が言いたいのよ……?」
あたしはカウンターに肩肘をつき、大きく溜め息を吐いた。
相川さんは、隣でふっと笑う。
「瑞穂ちゃんの本当の気持ちがどこにあるのか、知りたかったんだよ。
普通に訊いたら、本当のこと、教えてくれないんじゃないかと思って」
……そりゃあそうだけど。
随分と美化してたわりには、あたしの性格掴んでない?
これまではいい子ぶってたはずなのにな。
……て、美化はただのカマかけなだけか。
もう一度溜め息を吐くと、相川さんが言った。
「韮崎はさ、瑞穂ちゃんが好きなんだよ」
「……え?」
「悠里さんじゃなくて、瑞穂ちゃんが」
「………」
「何かさ、それが分かっちゃったから、俺ん中では納得出来なくて……。
いくら自分の夢を叶えたいからって、本当に好きな人じゃないひとと結婚するなんてさ。そんなの、悠里さんにだって失礼だろ。
それに、お互いに好きなのに、離れるのって変だろ?
俺はさ……短い間でも、瑞穂ちゃんのこと、ホントに大好きだったんだよ。
だから、ちゃんと幸せになってもらいたいんだよ。韮崎も……」
これは本当に本当の気持ちだよ、と、相川さんは唇の端を上げる。
胸の奥が熱くなって、何かが膨らんだように喉元を圧迫した。
どうしてこのひとは……。
怒って罵倒してくれればいいのに。
それが当然のことなのに。
なのに、自分よりも他人の気持ちを優先するの? あたしを?
あたしは、こんなに優しいひとを傷付けた。
ウザい、って思ってた。
誰かを本気で好きになること。
想う気持ちが大きくて、相手のために自分を押し込めることも、もうじゅうぶん知ってるのに。
本気の大きな気持ちを、真摯に受け止めることも出来なかった。
――最低だ。
あたしは、そんな風に相川さんに想われる資格はないよ……。
「相川さん」
「うん?」
「あたしね、昔、すっごくブスだったの」
「えっ……?」
「小学生のとき、ブスだって、それが理由でいじめられてたの」
相川さんは驚いたように目を大きく見開いた。
けれど、ただ黙ってあたしの目を見て、話の続きを待った。
あたしは、自分の昔のことを話した。
小学生の、いじめられていたときのことを。
どんなことがあって、どんなことをされて、どんなことを言われたのか。
思い出した限り、全て。
あたしのことを本気で想ってくれた彼に、自分を知って欲しくなった。
偽りのないあたしを。
それが、あたしの中の、誠意だと思ったから。
話していると、パッパと画面が切り替わるように、自分でも忘れていたことまで思い出した。
順序もへったくれもなく、思い浮かんだ気持ちと言葉をそこに並べた。
今迄、自分ひとりの中に押し留めていたこと。
溜まりに溜まって爆発しそうなくらいだったのに、無理矢理蓋をして鍵をかけて閉じ込めていた暗い暗い場所。
誰にも――親にも、心を開いた友達にさえ、言ったことはなかったのに。
ましてや、男の人になんて。
けれど、本当はきっと、話してしまいたかった。誰かに。
色んな気持ちもせり上がった。
憤り、怒り、悔しさ、いらだち、悲しさ、苦しさ、自己嫌悪。陰鬱で――混沌としていた。
相川さんは、たまに小さく相槌を打つ以外は、意見も思ったことも言うことなく、ただ黙ってあたしの話を聞いていた。
全てぶちまけてしまったら、自分の中にあった胸のつかえが取れたような、そんな少しすっきりとした気分だった。
「あたしね、ちゃんとした恋愛が出来なかったの。
だけどね、寂しくって、誰かに求められたくて、認めてもらいたくって……色んな男の人と付き合ったり、ちやほやされることで、自分の中の欠けている部分を埋めてたの。
恋愛出来ないなら、顔が良くて、お金もあって――そういう人を捕まえた方が勝ちって思ってた。
相川さんのことも、そうだった。あのとき、誰でも良かったの。寂しかったから、誰かに傍にいてもらえればそれで。相川さんを選んだのは、たまたまだったの。
だから、何とも思ってなかったの。ただ利用したの。相川さんを」
ごめんなさい、と、あたしは相川さんに向かって頭を下げた。
前回謝ったのとは、違った。
心から、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「顔、上げて?」
落ち着いた声が頭上から降って、あたしはゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ、韮崎は?」
詰問するような言い方ではなく、相川さんは優しく訊ねてきた。
あたしは、一拍置いて答えた。
「韮崎さんは、違ったの。
初めて本気で好きになったの。
確かに、以前のあたしが惹かれるステイタスは揃ってるかもしれない。
でも、そういうんじゃないの。ただ好きなの。
一緒にいるだけで、凄く幸せなの。他には何もいらないの。
どんなカタチでも、傍にいたいの」
うん、と、相川さんは、静かに頷いた。
「瑞穂ちゃんの、ホントが聞けて、良かった」
「あたしも……。こんなこと、話したのは初めて」
「瑞穂ちゃんをいじめてたのって、佐藤社長だろ?」
「……どうして分かるの?」
「分かるよ。
男だから――めちゃくちゃだとも思うけど、佐藤社長の気持ちも、少し理解出来る」
「理解出来るって――!
あたしは、そのせいでめちゃめちゃ傷ついてトラウマになったんだから!」
「うん。絶対にしたらいけないことだよ。
でも、好きだったんだろうな。
だから再会した今も、また気持ちがぶり返したんだろ。
彼が瑞穂ちゃんのことを好きなのは、あのときにひしひしと感じたよ。
誰にも渡さないって、そんな目をしてたよ」
「………」
だからって……。
「だけど、瑞穂ちゃん。
このままで、いいの?」
黙ったままでいると、相川さんが言った。
「韮崎は、瑞穂ちゃんと佐藤社長が付き合ってるって、そう思ってるよ」
「……うん。知ってる」
「ちゃんと、韮崎本人に、本当の気持ちを伝えなよ」
あたしは首を横に振った。
――奪いたい。
つい出てしまった、あたしの本心。
本当の、本当の、気持ち。
でも……。
「言えないよ……」
「何で?」
「韮崎さんの未来を壊したくないよ……」
「そりゃあ、悠里さんの家が家だから、婚約破棄が難しいとかも分かるけど……。
でも、どうして、そこまでお互いにこだわるのか、俺には分かんないよ」
「うん。でも、本当に、駄目なの」
あたしの言葉に、相川さんはカウンターに両肘を立てて手を合わせ、息を吐き出した。
「それは、瑞穂ちゃんの中で、揺るぎないの?」
「………」
「過去は変えられることは出来ないけど、未来はいくらだって変えることが出来るんだよ。
それは、自分次第なんだよ」
そう言った相川さんに、あたしは言葉では答えず、ひとつ小さく頷いた。