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マンションの植え込みに茂るハナミズキの葉は赤く色付き、その向かいに植えてあるイチョウの葉は黄色みを帯びている。
空は高く、雲は透けるように掠れている。
街を歩けば色の濃い服にばかり目立つようになった。
このところ、日によって随分と気温が違う。


「ただいまぁ」


日曜日の訪問。
彼の部屋のドアが内側からあたしの方へと開くと、敢えてそう言った。笑顔を添えて。

出迎えの韮崎さんも、笑顔になる。


「おかえり」

「買い物してきた」

「今日は何作ってくれるの?」

「涼しくなってきたから、ビーフシチューがいいかな、って」

「ああ、いいな」


韮崎さんは答えながら、あたしの手からぶら下がるスーパーの白い袋をさりげなく奪った。

こうしていると、まるで新婚みたい。
擬似的だけど、それでも。


部屋に上がると、韮崎さんが紅茶を淹れてくれた。
前に会社の子にお土産でもらったというスリランカ産のセイロンティーは、フレーバーにストロベリーが入っている。
イチゴとグラスの絵柄が入った真っ赤な円形の細長い茶葉の缶は、ふちが金色で高級感もあって凄く可愛い。
それってくれた子はやっぱり女かな、なんて、内心思いつつ飲んだら、ほのかに甘酸っぱい香りがあって、クセがあるけれどそこが美味しかった。

それを飲みながら、ソファーに並んでDVDを観た。
キーラ・ナイトレイ主演の『プライドと偏見』。
原作は、ジェーン・オースティンの『Pride and Prejudice』。
何度も映像化されている名作だ。

18世紀末イギリス――女性には財産相続権もなく自立できる職業もない。
上流社会の中で、女性にとって、結婚が全てだった。
田舎の五人姉妹の次女エリザベスと、金持ちの紳士ダーシー。
お互いに惹かれ合っているのに、プライドと偏見が邪魔をし誤解を生み、恋はすれ違う。
絵画のように美しいイギリスの情景の中で繰り広げられる、もどかしく切ない二人と、その家族の話。


真っ黒の画面に白文字でキャストが流れ始めると、感嘆の息が漏れた。
すっかり物語の中に入り込んでいたせいか、気持ちが高揚している。


「すっごく、良かった」

「だな」

「特に、出逢いの舞踏会のシーンが好き」

「言葉じゃなくて、ダーシーの視線と表情だけで気持ちが分かるんだよな」

「そう。エリザベスも、ダーシーが嫌な奴と思いつつも、何となく気になるんだよね。
あー、そう言えば、韮崎さんと初めて会ったとき、なんてヤツって思ったんだった。
高慢だったし、あたしのプライドも見事に傷付けてくれたっけ。
それに、むっつりして無表情で。そこまでダーシーと一緒。
とにかくムカつく男、って、思った」

「酷い言われようだな」

「だって、ホントにそうだったし。
て、言うか、韮崎さんてば、あたしと初めて会ったときのこと、ちゃんと覚えてます?」

「覚えてるに決まってるだろ。
水引っ掛けた失礼な女」

「あーっ! もうっ!
韮崎さんなんて、あたしのこと、邪魔って言ったんだからっ!
酷過ぎるよね!」


唇を尖らせ、軽く睨む。
そして唇を引っ込めると「けど、」と今度は韮崎さんの顔を、首を傾け下から見上げる。

「けど?」と、韮崎さんは苦笑いを浮かべながら訊き返してくる。
あたしは薄く微笑み返し、隣の肩に凭れた。


「本当は、優しいひとなんだよね……」


街で倒れたとき、見ず知らずのあたしを助けてくれた。
病院までおぶって。コンビニでお粥を買って。帰りもそのあとまでも心配して。

あのとき――あの場に韮崎さんがいなかったら、あたしは彼のこと、好きにならなかったのかな……。

ううん。
きっと、好きになってた。
きっかけがなんでも、きっと。

だって、あたしたちは出逢ってしまった。


「優しくなんてないよ」


そう言う彼に首を振った。


「あたしは、知ってる」


覗き込んできた顔が近付く。
キスかな、と思ったけれど、違った。
こつん、と。額と額がくっついた。
ビー玉のように透き通った黒い瞳に、あたしが映っている。
どちらともなくはにかんだ。


「映画の中のダーシーとエリザベスも、こうしてたね」

「キスはおろか、抱き合うことも触れることも、軽く出来ない時代だからな」

「そういう奥ゆかしいのも、素敵だよね」


床についている手の先に、彼の指が触れた。
次第に重なって。
自然と指を絡める。


「そう言えば韮崎さん、今日はつけてないの?」

「え?」

「エゴイスト」

「ああ、家にいるから」

「最初から、こっちのが好き」

「最初から?」

「韮崎さんの、匂い」


あのとき、広い背中から感じた、日なたの。


合図のようにほんの少し顎先を上げると、うん、の言葉と同時に唇が下りてきた。
何度重ねても、飽きずにいくらでも欲しい韮崎さんの唇。

軽く触れて、すぐに離れて。
角度をいくつも変えて、浅いキスを繰り返す。

こんなのも、好き。
好き。


キスの合間――唇が離れたときに、あたしの携帯が鳴った。

思わずお互いに身体を離し、音の方を見た。
メールの着信音はすぐに消えて、また顔を見合わせて笑った。


「邪魔されたな」

「ね」

「メール?」

「そうみたい」

「見てきたら?」

「うん」


どうせ、菜奈かミカだろうと思ったけれど、あたしは重い腰を上げ、携帯電話の入るバッグに向かった。

メールを開くと、案の定ミカだった。

ミカは今、業務管理部の人と付き合うまではいってないけれど、上手くいきそうな良い雰囲気らしい。
この間は、初めて二人きりでのランチだったそうだ。
そのあと彼から誘われて、今日がようやくちゃんとした初デートらしい。


「ミカが――ほら、人事部の友達。
今からデートの待ち合わせで、あんまりにも早く着き過ぎちゃって暇だって」


首を竦めて見せると、韮崎さんはフッと笑った。


「急用じゃなくて良かったな」

「そんなことで邪魔するなんて。
あ。そう言えば、相手の人、韮崎さんと同じ部署の人ですよ」

「ああ、長谷川だろ?」

「あれ? このこと知ってるんですか?
韮崎さんて、そういう話とかしたりするの?」

「いや、会社で一緒にいるのを見かけただけ」

「そっか」

「そういや、長谷川が褒めてたよ。
瑞穂のカフェの案」

「え? ホント?」

「ああ。社食の工事も始まったし、どっちも楽しみだって」


――社食の……。


「ねぇ、韮崎さん?」

「ん?」

「社食の――」


そこまで言いかけて、やっぱり踏み止まった。

この間、常務が言っていたこと。
秋山副会長まで動かした、って――常務が言いたいのは、社食に関することじゃないかと思った。
元々常務は、あたしが社食を変えたいということに疑問を持っていたし。

けれど、社食のことに関して秋山副会長が絡むのは、どう考えてもおかしい。
いくら親会社とはいえ……。

それに、この件に関しては、韮崎さんからどうなっているか詳細に経過を聞いている。
副会長の名前なんて一度も出てきていないし、あたしのためにやりたいと言ってくれた彼が、まさか副会長を利用してまでなんて。

――そう、まさか……。


「新しい社食が出来上がるの、楽しみですね」

「楽しみだな。
これでようやく会社のランチで瑞穂の笑顔が見られる?」

「うんっ」


顔を綻ばせ、小さく頷く。


「二人で頑張りましたよね?」

「ああ、頑張ったな。
俺も、瑞穂の案に助けられたし。
それに、まさかあんな強硬手段をするとは思わなかった。
ホント、瑞穂って破天荒で突拍子もない奴……」

「組合のことですか?
だって、どうしても諦め切れなかったんだもん」

「うん。まぁ、そこが瑞穂のいいところだろ。
だから俺も頑張れた」


韮崎さんはあたしを見上げ、優しく微笑んだ。


そうだよ。やっぱり、まさか、だよ。
常務は何か違うことを勘違いしてる。
韮崎さんが、このことに関して副会長を利用するわけがないよ。


あたしは床に膝をついて、同じ目線で彼を見た。


「韮崎さん、ありがとう」

「何だよ、そう言うにはまだ早いだろ? 完成してないんだし」

「うん、でも、言いたくなったの。
あー、お腹すいちゃった!
そろそろ夕飯の支度しましょっか?」


あたしはそう言うとすぐに立ち上がり、そのままキッチンに向かった。
途中、また携帯のメールの着信音が鳴って、結局すぐに振り返る羽目になる。


「もー、またミカだな」


可愛らしく冗談交じりに悪態をつき、自分のバッグのところまで戻ると、そこから携帯電話を取り出した。

ミカのラブ報告メールだな、と、半分うんざり半分楽しみにメールボックスを開くと、目を見張った。


『会って話がしたい』


短い内容のそのメールの差出人は、相川さんだった。

  

update : 2010.09.10