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韮崎さんの言った通り、菊池さんは、あの次の日から会社にパッタリと来なくなった。
辞表は速達で部長宛てに送られてきて、本人は消息不明。
と、いうことは、本当に韮崎さんの家系を調べたのかもしれない。
考えてみれば『韮崎』なんて名字はかなり珍しいし、ネット通(?)の彼にとっては、簡単に見つけてしまったのかも。
数日経って、菊池さんは実家に帰っていたことが分かり、彼の両親が上司と話し合い、結果辞表は受理された。
当然のことながら、社内で韮崎さんは何もなかったご様子な態度。
いきなり菊池さんがいなくなって、勝手な憶測と噂が飛んだ。
一部の人には掲示板が同時になくなったことも、想像力を肥大させるスパイスだろう。
あたしも韮崎さんも噂の当人になるのだから、どんなことを言われているのか直接耳には届かないけれど、何となく想像はつく。
それに、冷ややかで好奇な視線をたまに感じる。
もしかしたら、ただの自意識過剰なのかもしれないけど。
それでも、どうしてもそんな風にみられてるような気にはなる。
あんなたくさん書かれていたんだし……。
陰で何て言われようと、あたしはあたし。
そういくら考えても、やっぱり噂の的になるのは気分が悪い。
誰も好き好む人なんていないだろうけど。
部署内では、皆ほぼいつもと変わりない態度でいてくれるのは救いだった。
多分石田さんが、坂本さんたちに一喝してくれたんじゃないかと思う。
人の噂も七十五日。
噂が伝わるのも早いけれど、忘れ去られるのも早い。
目新しい話題が出てくればあたしのことなんて、そういうこともあったな、で終わってくれるとは思うけど……。
根源はなくなったわけだし、上役たちにまでは平社員の噂なんてきっと耳に届かないよね?
――そう、願いたい。
そんなことはあるけれど、韮崎さんとの関係は良好だ。
以前よりもずっとお互いの絆や信頼が深まった、と思った。
だって、二人でいるときの空気が違う。
それはあたしの思い込みなんかじゃないよ、きっと。
お互いに先がない分、好きと言えない分、ちょっとした態度や言葉やしぐさがそう言ってる。
仕事の方も、すこぶる良好。
M&Sから提出された報告書は支店から特約店を通じ、直接各店舗へ渡っている。
報告書は、とにかく分かりやすかった。
特約店や各店舗によっての違いや、それがどう売り上げにも表れているのかも、一目瞭然だった。
それに、拓馬の改善案は、こういったことに関して全くの素人のあたしでも、どこがどう悪くて、どんな風に改善していけばいいのか、簡潔だけれど理解しやすくそして見やすいものだった。
提出後からここ数日で、既に売り上げの伸びている店舗もある。
社内での評判も上々だ。
来週からは、売り上げの悪い店舗と今回の調査結果の下位店舗のフィードバックに行く。
一日に多い日で五店舗。最低でも二店舗、回らなくてはならない。
地方も多いから大変そうだ。右も左もわからない土地で、バスや電車を使って各店舗を移動しなくてはならないのだ。ルートと移動手段を調べるだけでもかなり面倒くさい作業。
拓馬が車で回ることが多いと言っていたのも、こうなってみると頷ける。
けれど、なんてったって嬉しいのは、その地方出張中は四六時中韮崎さんと一緒に行動するってところだ。
まぁ、もちろん、石田さんも一緒だから、二人きりにはなれないだろうけど……。
白い幕の向こう側で、機械的で大きな音が立っている。
菜奈は足を止めて、その幕に貼ってある工事説明を見上げながら言った。
「とうとう工事始まったね」
「うん」
返事をしながらあたしも横に並び、一緒になってそれを見上げる。
社食に来た社員達は、工事から少し離れた場所で営業中の社食に入る前に、こうしてあたし達と同じように足を止めて興味津津に眺めている人もいる。
「韮崎さんて、やっぱりスッゴイよね。
ホントに言った通り社食を変えちゃうんだもん。
瑞穂の案のカフェ、出来上がるの楽しみだなぁ」
「あたしも楽しみ。
レギュラーメニューの他にも新作とか試作品も並ぶからさ。
菜奈も、アンケートには答えてね」
「食べたいモノのリクエストも出来るんだよね?」
「そ。リクは開発部の方に回されるんだ。
いち社員の意見が反映されるのって、ホント、凄いことだよね」
社食の改善は、韮崎さんが会議に通して可決され、早々と実行に移された。
組合側の立場を引き立て、関係も悪くならないよう、韮崎さんがその辺は上手く話し合いや交渉をしてくれた。
あたしは、と言うと、表立ってやってくれている韮崎さんに、具体的な案を考えろ、と言われ、いつもはない頭と知恵を振り絞った。
前に韮崎さんと社食の話をしたときに、デザートがあればいいと言ったことを思い出し、いっそのこと休憩中にホッと一息つけるカフェがあればいいなと思いついた。
そこに自社スウィーツたちをメニューとして置くのだ。
レギュラーメニューだけでなく開発中のものも置いて、社員の感想や意見を取る。
元々の社食は外部委託なのだけれど、関係上ばっさり切ることは出来ない。
けれど、外部に自社メニューを作らせるわけにもいかない。
開発中のものは特に、企業秘密なわけだし。
そこで、社食を二つにすることにした。
食事をする場所は一か所で、注文カウンターと厨房を二つに分けるのだ。
つまり、店が二つ。プラス、カフェ。
フードコートのような感じだ。
二つの店の中には、蕎麦やカレー等のありきたりなものは、メニューが重なる場合もある。
けれど、競う相手がいることによって、売り上げにかかわるのだから、今迄通りのメニューも多少は美味しく変わってくれるだろう。
……と、思う。と言うか、それが目的のひとつなんだから、変わってくれなきゃ困る。
それと、ついでにと言っちゃなんだけど、完全分煙にもなる。
喫煙マナーや分煙が世間で問題視されている中、こうすることも当然。
「ところで瑞穂、今日、何食べる?」
菜奈があたしの方を見ながら、くるっと身体の向きを変えた。
二人とも自然と足が社食の入り口へ向かう。
「うーん、定食のメニュー見て決めよっかな」
「じゃ、あたしもそうしよ」
「そういえば、今日、ミカは?」
「昼休みデート」
「はあっ!? 何!? デートって、相手誰っ!?
あたし、聞いてないしっ!」
思わず大きな声を上げて足が止まった途端、肩が誰かにぶつかった。思い切り。
ちょうど入り口のすぐ手前だったことも災いしたらしい。
「すみません!」
そう声に出してから、目の前で肩を押さえる相手が二度と顔も見たくないヤバイ相手だと気が付いた。
後退気味の額に強引な七三分け。そこが印象的過ぎて、忘れたくても忘れられない。
常務もぶつかったのがあたしだと気が付いて、思い切り目に角を立てた。
最悪。
大体、何で上役が社食なんかに来るのよ!
「申し訳ありませんでした」
仕方なく深々と頭を下げ、お怒りを食らわないうちにさっさと行こうと身体の向きを変えた。
隣の菜奈の方がおろおろしてるけど、子供じゃないんだしついて来るでしょ、と、あたしは先に歩き出す。
「待ちたまえ!」
作戦失敗らしい。
憤怒した声にあたしは再度足を止め、溜め息を飲み込み振り返った。
「君は、一体何をやったんだね?」
は? と、一瞬声が出そうになった。
意味が分からない。
けれど、こういうときは逆らわないのが一番。
あたしはもう一度丁寧に頭を下げた。
「……大変申し訳ありませんでした。以後気をつけます。
お怪我はありませんでしたでしょうか?」
「そんなことはどうでもいい。
君は、秋山副会長まで動かすなんて―― 一体何を考えてるんだね」
秋山副会長?
何、それ……。
「……どういうことですか?」
「秋山副会長を知らないとは言わせないぞ」
「東和重工の副会長だということは存じています。
ですが、ただそれだけで面識もありません」
ふん、と、常務は鼻を鳴らした。
そこで、周りに人がいることに気がついたような顔になり、ぐいと、あたしの腕を取り、耳元に顔を近づけて声をひそめて言った。
「そこまでして、何を企んでいるんだ?」
何を言ってるの?
あたしは腕をきつく取られたまま、毅然として常務を見据えた。
「何も企んでなんていません。
常務のおっしゃっている意味が分かりかねます。
ハッキリとおっしゃってください」
「ハッ……大したタマだな」
常務は、はき捨てるように言い、あたしの腕は解放された。