47

あたしの質問に、韮崎さんは瞳を見開いた。


「何でそれを……?」


彼はそう言った直後に答えを見つけたようで、クッと苦笑いした。


「そうか、佐藤さんか。
俺と瑞穂との関係を疑ってたみたいだし、自分の恋人の浮気相手がどんなヤツかって、彼ならすぐにでも完璧に調べ上げるだろうな。
それがこんなヤツだったって、突き付けられた?
だからさっきも、俺の家のことを聞いて驚かなかったのか。知ってたのか、全部」


貼り付けたような笑顔の、皮肉まじりな冷たい言い方だった。
勝手に自分の過去を洗いざらい調べられたら、不快に思うのも怒るのも極当然のこと。
けれど、分かっていながら訊いた。
それでも知りたかったから。

あたしは、頷いた。
韮崎さんの顔から、すっと笑みが消えた。


「そうだって言ったら?」

「え……」

「その通り、って言えば、満足?」

「あたしは――!」


それ以上の言葉をすぐに出せなかった。

だって、そうだ。
結局、あたしはそうであって欲しい。

どうせあたしのものにならないなら、彼女には気持ちがないって、けれど復讐のために結婚するんだって、そう言って欲しいんだ。
――拓馬の言った通りだ。


あたしは唇の端を一度引き締めると、言った。


「満足です」

「えっ……?」

「満足ですよ。
だって、出来すぎだもん。韮崎さんと悠里さんの関係。
東和重工のトップを目指す韮崎さんと、副会長の孫娘なんて。
それに、韮崎さんが言ったんでしょ? 欲しいモノは全部手元にないと嫌なのか、って。
あたしは、韮崎さんの気持ちを、彼女に渡したくない」


韮崎さんは面喰った顔をし、また一変して高い声で笑い飛ばした。


「否定とか、いいわけとか、しないんだな。
まさか、満足って言葉が聞けるとはな。
ホント、面白いヤツだな」


怒っているのか、本当に感心しているのかは分からなかった。
いつもの韮崎さんよりもずっと明るく見える表情なのに、それがとても怖かった。

けれど、あたしは表情を崩さずに言った。


「そう言うってことは、肯定ととっていいんですか?」


答えが、ない。

と、いうことは、拓馬の調べてきた内容と憶測が当たりに近いということだ。
韮崎さんがどんな気持ちを抱えているのかとか、実際にあったことは、ハッキリとは分からないけれど、それでも……。


「韮崎さんは、東和重工のトップを目指してどうしたいの……?
韮崎さんを見てると、誰よりも仕事が好きなんだ、って感じてた。
会社のためであって、自分のためであって……そんな韮崎さんは格好良くて。あたしは、応援したいって思った。
それに、あたしに、自分の会社を、仕事を、好きにしてやるって、そう言ったのは、韮崎さんじゃないですか!
そんなやり方で、韮崎さんこそ、それで満足なんですか!?」


満足? と、韮崎さんはほんの少し首を傾げ、自嘲しながら言った。


「そうだな、満足なのかもしれないな」


かもしれないな、って――。


「そんな……韮崎さんの人生をかけてまで、やらなくちゃいけないことなの?
もちろん、東和重工のやり方がいいとはとても思えない。韮崎さんが許せないのは当然だと思う。
けど、韮崎さんだって、理解出来る部分があるでしょ?
大人になって、社員の上に立って、会社の利益のために、どうしても仕方なくやらなきゃいけないこととか……」

「死ねと、言われてもか?」

「えっ?」

「東和重工に突然仕事を切られて、社員の給料のためにせめてあと一ヶ月だけでも仕事の依頼をくれと土下座して頼みこんだ親父に、死んでその保険金で払ってやれって、そう言った奴らを理解しろって?」

「―――」

「けど、本当に死んだら、後始末のために見舞金として大金を積む奴らに、かよ」


そんなことが……?


韮崎さんの手は、微かに震えているように見えた。
彼は憤怒を抑えるように、目を閉じ深く息を吸い込み、同じくらい大きく吐き出した。
そして、ゆっくりとまた瞳を開く。


「親父が死ぬ前、何度も東京に足を運んだんだけどさ。最後の一回は俺も一緒だった。
子供が一緒だったら、ヤツらも少しは憐憫の情も出てくるかもしれないって、親父の中にそういうしたたかな考えがあったことは否定しない。
けどさ、まだ小学生の子供の前――俺の前で、アイツは――秋山修一郎は言ったんだよ、作為的に。見せしめのように。
子供の前で死ねなんて、一番効果的な切り離し方だよな。
アイツは、工場長としてのプライドだけじゃなく、父親としてのプライドまで、ズタズタにしたんだ。
そのときも、許せないって思ったけどさ。親父が事故で死んだとき、怒りともつかない感情が突き上げた。許せないとか、もう、それとは違う次元のものだった。
いい立派な大人が言ったたったひとつの言葉は、いつまでたっても俺の中から消えないんだよ」


どうにもできないやるせなさと苦しさが、身体の内側を削ぐように強くせり上がってきた。
喉に何か膨らんだものをぎゅうぎゅうに詰め込まれたように、息が出来なかった。


「……何で?」


韮崎さんは呟くように言い、眉根に深い皺を刻み、あたしを見つめてくる。


「何で瑞穂が泣くんだよ……」


あたしは、首を振った。

自分でも、何が一番の理由で泣いているのか分からなかった。
ただ、色んな気持ちが混沌としていて。

彼は、どのくらい大きな傷を受けたのだろう。
それを、ずっとずっと抱えて生きてきて。
絡みついた鎖を断ち切れず、自分の人生を自分のために全うし切れない韮崎さんがいたましくて。
けれど、そんな彼がまた、あたしには納得出来るようでどこか出来なくて。

弱いひとなのだと思った。
強いように見えて、脆さを持ったひと。

あたしと同じように、幼いころの傷はいつまでも消えなくて、それを掻き消すために今の自分を作り上げて。

今、あたしが彼に言えることは何だろう。
止めることも、慰めることも、出来るけど、出来ない。


「……ご、ごめんなさ……」


そんな言葉しか、出てこなかった。
それ以上の何か良い言葉も見つからなかった。


何をやってるんだろう、あたしは。
こんなときに泣いたら、ただ困らせるだけ。


そう分かっているのに、涙は次から次へと頬を伝っていき、止まってくれる気配はなかった。


「瑞穂」


名前を呼ばれた次の瞬間には、あたしは韮崎さんの腕の中だった。
折れそうなほどきつく、彼の腕があたしを締めつける。
身体だけでなく、心も一緒に。
彼の葛藤と苦しさが伝わってきて、どうにもできない自分が、ただもどかしかった。








ベッドの中で、あたしは何度も韮崎さんの名前を呼んだ。
本当は、『好き』とか、『愛してる』とか、口に出してしまいたかった。そんな気持ちでいっぱいだった。
けれど、そうハッキリと言ってしまったら、韮崎さんの道を塞いでしまう気がしたから。
だから必死に堪えて、その代わりに名前に気持ちをこめた。

韮崎さんも、そんなあたしに応えるように名前を呼んでくれた。
甘い響きは、歓喜と切なさの融合だった。

満足するまで抱き合ったあと、韮崎さんは、自分の過去を話してくれた。
ぽつぽつと、ひとつずつ。
ゆっくりと彼の中を思い返すように。
韮崎さんの話してくれた内容は、調査書とも拓馬の言っていたこととも、それほど相違はなかった。

東和重工の下請け工場だった鈴木製作所は、海外に出来た直営工場により発注が打ち切られる。
それをどうにか少しでも引き延ばしてもらおうと、彼の父親は東京本社の、担当者だった経営企画統轄の秋山修一郎の元へと何度も足を運んだ。
そして、彼が一緒に交渉へ付いていったとき、その目の前で見せしめのように、残酷にもあの言葉を言い放たれた。
倒産に、父親の事故死、母親の死――瞬く間に、家族も自分の人生も負の方向に変わっていった、と。



「悠里とは、さ」


彼は、言いながら身体の向きをあたしから天井へと変えた。

コンクリートの天井。
今日は回転していない、白いシーリングファン。
向こう側の闇に、エアコンの運転を示す緑の小さな光が浮かんでいる。
少し、寒い。


「出逢ったのは、偶然だった。
大学のサークル関係の飲み会に、たまたまその中の誰かが知り合いらしくて、アイツも参加してた。
初めて会ったとき、思った。両親に愛されて何不自由なく幸せに育ったお嬢様だって。穏やかで、人を疑うことを知らない、生粋に育ちのいい人間だった。
――そんなアイツのことが、妙に苛立って仕方なかった。
秋山修一郎の孫だって知ったときは驚いたけど、憎むよりも近づくために利用してやろうと思った。
恋愛になれてないアイツをモノにするなんて、簡単だった」

「………」

「アイツの父親はさ、売れない画家なんだよ。母親は音楽家。親の敷いたレールには沿えなかった人間だ。
だから、娘の結婚相手がヤクザの息子だろうと、関係無いらしい。
それどころか、祖父に反対されている娘と俺に、同情して味方までしてくれる」

「……韮崎さんは、悠里さんのこと、結局はどう思ってるの?
最初からずっと、恋愛感情はないままなの?」

「嫌いじゃないよ。情もある。付き合いも長いしな。
悪いヤツじゃない――むしろ、性格は非の打ちどころがないってヤツだろうな。
優しくて、人思いで、気も利く」


――非の打ちどころが、ない。


ズキッと、胸が痛んだ。

あたしとは、違う。
全然、違う。


「でも、自分でも、よく分からない。
アイツへの気持ちが何なのか。
秋山修一郎を――アイツの爺さんを、恨む気持ちのが大きすぎて……」


――自分でも、よく分からない。


でも、嫌いではないのは、彼にとってハッキリしてる。
自分の両親も家も失くすきっかけを作った男の血を分けた孫娘のことを。

そして、結婚する。
目的は何であれ、一生傍で添い遂げるのだ。彼女に。


「……喉乾いたな」


話を終えたように声のトーンは穏やかなものに変わり、韮崎さんがむっくりと起き上がった。
あたしは、皺を作ったブルーのシーツの上で気だるい身体を放りだしたまま、目だけ彼に向けた。


「あたしも」

「何飲む?」

「お水でいい」

「アルコールは、あんまりいかないクチだったっけ?」


あたしに訊き返しながら、彼はベッドから滑り降りてキッチンに向かった。
薄明かりの中に、何も身につけていない彼の身体がぼんやりと浮かび上がる。
無駄なもののない、要所にしっかりと筋肉のある均整のとれた身体。

この身体が彼女のことを、あたしと同じように抱くのだろうか。

ちりちりと焼け焦げそうな痛みが身体の内側に発生する。
どうにもならない嫉妬。


「普段なら飲みますけど、仕事残ってるし」

「仕事?」

「拓馬――佐藤さんからさっき電話があって、明日報告書等全ての提出が出来るそうです。
だから、帰らなくちゃ」


これは、意地悪だ。あたしの。
意図的に拓馬の名前を出した。
あたしが彼女の名前で焼きもちを妬くように、韮崎さんにも少しくらい同じ気持ちを味わって欲しい。


身体を起こし、ベッドから降りた。
床に散らばった服を拾い上げ、ひとつひとつ身につけていく。

韮崎さんは、着替えをしているあたしに背を向け、冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
庫内の明かりが眩しい。

と、思うと、パッとこちらを向いた。
手が離れた冷蔵庫のドアがパタンと音を立て閉まり、そこから漏れていた明かりもそこでなくなる。
あたしに向かってきた韮崎さんに、手首を掴まれた。
ペットボトルが落ちて、足元に転がる。
今外に出されたばかりのミネラルウォーターは、足先に触れて冷たい。


「帰るの?」

「帰らなきゃ……」

「……どうしても?」

「明日までにしなきゃいけないことがあるし……」

「そっか」


そうだな、と、手首から温もりが離れていく。
納得したような、納得していないような、複雑な表情で韮崎さんは口元を上げた。

満足だ。
彼からこんな言葉を引き出せるなんて。


「韮崎さん?」

「うん?」

「韮崎さん、あたしに『自分の会社を好きになれるように、誇れるようにしてやる』って、言ったでしょ?
あたしね、それ、最近少し思えるようになったんです。
店舗側の反応があると、嬉しい、とか、そういう風に思って。
だから、頑張りたいって。それは会社のために、店のために、って、思うんです。
あたし、自分がそう思えるようになったからか、分かるんです。
韮崎さんが、仕事が好きだって。
いつも一生懸命なのは、頑張れるのは、好きな気持ちがあるからでしょ?
復讐のためだけじゃないでしょ?」

「………」

「あたし、頑張ります。
このプロジェクトを絶対に成功させて、結果を出します。
それで、韮崎さんが認められて、悠里さんとの結婚がハッキリ決まるとしても」


こう言って、彼が何も言えないのは、分かってる。
あたしにハッキリと『選べない』と言ってはいても、引け目を感じる場所。

ほんの少しだけあたしは口角を上げて、微笑する。


「それにね、あたし、別れないですよ」

「え?」

「別れようって言ったくせに、あんな気持ちをぶつけてきたのは韮崎さんでしょう?
聞いちゃったんだから、もう今離れることなんて、あたしは出来ない」


あたしはそこまで言うと足元のペットボトルを拾い上げ、蓋を捻り、口づけた。
冷たい感覚が喉元を通り過ぎ、カラカラの身体に水分が満たされていく。
ひとしきり飲むと、今度は韮崎さんの番と、そのままの状態で目の前の彼に手渡した。


韮崎さんの目をまっすぐ見つめたあと、あたしは右手で左耳のピアスに触れた。
伏し目がちに顔を傾け、左手もそこに添える。
左肘はぐいと上げ、右腕は胸の谷間辺りに。唇は微かに開ける。

どんな仕草が自分にとって一番綺麗で効果的に見えるか、あたしは知っている。

女でいたい。
どこまでも、彼にとっての女で。

あたしは、彼女とは違う。
だからこそ、彼女には絶対に届かない魅力的な女でいたい。


そうして片方だけピアスを外すと、今度は上目遣いで見上げ、彼の空いている方の掌の中に握らせた。
不思議そうな顔であたしを見る彼に、にっこりと極上の笑顔を作ってみせる。


「置いておいてください」

「……え?」

「この部屋に、置いておいて。
これはね、マーキングなの」


韮崎さんは、「マーキング?」と、眉を中央に寄せ不可解な顔をする。


「女って、男の人の部屋に自分のピアスの片方とか、落としてったり忘れてったりするでしょ? 女しか気付かないような場所に、わざと。彼はあたしのモノって、他の女に対してのけん制と威嚇。
あたしはね、こっそりなんて、そんな姑息なことはしない。堂々と置いてく。
だからコレは、韮崎さんの好きな所に置いておいて。彼女の見えないところにしまっておいてもいい。
だけど、あたしの存在を、この部屋に残しておいて。
次に来るまで、預かっててね」

「次に来たときに、返すの?」

「うん。
それで、また違うヤツを置いてくの」


あたしの主張と――次に繋がる約束。
韮崎さんが預かってくれるかぎり、あたしはココに――韮崎さんの部屋に、来ることが出来る。
『彼の女』っていう位置で。


韮崎さんは、異論を唱えることはせずに、掌の中のピアスの片割れを見つめてからきゅっと握り締めた。

 

update : 2010.08.08